第04話 マイホーム

 アパートに帰ってきた。玄関で靴を脱いでいると、お経を読む声が聞こえてきた。木魚の弱弱しく頼りない音がそれに続いた。その打音にはリズムというものがなく、強弱など考えられないまま惰性で叩かれたように感じられる。声は仏間からだ。ふすまは開いており、案の定母親が仏壇の前にいた。


 線香立ての灰に突き刺さった線香の先が赤く燃え、ほの白い煙がたなびいてる。鼻腔びくうを刺す濃密な香りは舌が痺れる苦味を帯びていた。


 母はひどい格好だった。相変わらず頭の手入れはしていないのだろう、蓬髪ほうはつの様相を呈している髪型、何時着替えたのかも分からない色あせたセーター(もう初夏だ、それなのにセーターだぞ)、膝のくたびれたズボン。


 凛々しい顔立ちを母へと向けている父親はいまや遺影に収まっている。二十代の頃のライブハウスで撮られた写真で、赤いエレキギターを片手にした、リーゼントヘアの父の横にはまだ少女だったころの母親のが収まっていた。


 二年が経つ。父は病気で亡くなった。もっと早い段階で治療を受けていれば死ぬことまではなかったはずだ。


 父の命を奪ったのは不摂生などではなく、生真面目さ、ストイックさだった。家族の生活を守らなくてはいけないという責任感から、病気の症状が深刻になるまで仕事に打ちこんでいたのだ。


 ガリガリに痩せ細った父が、病院のベッドで最後の吐息を吐き出した瞬間に、母の心も死んだ。


 母は父を愛していた。おおよそ考えられるなかで、最高の愛し方をした。つまり、父親のいる世界以外は世界ではないと信じることだ。


 母は死んだように生きていた。食べるものもろくに食べず、父の残した酒を毒と知りながら飲みこんでいる。たまに思い出したように読経などしてみせるが、そうする以外には酒を限界まで飲んで悲しみを和らげるとともに、今は帰らぬ日々に思いを馳せている。


 週末になると、結婚して嫁いだ姉が世話をして来てくれるが、そうでもしないと母は落ちるだけ落ちてしまう。遺族年金しか収入のない我が家の生活がどんなものになるかを考えると、僕の生活も姉によって支えられているといっていい。


 お経の最中は何があっても反応してくれない。例えそれが実の子供からのあいさつであったとしてもだ。ただいまの声もかけずその場を離れ、自室へと足を運んだ。


 ふすまを開けた。広さ五畳にも満たない決して広くない部屋だが、ここは僕にとってここは自分が自分でいられる唯一の場所だった。


 四方を囲む壁に貼られているのは、中古レコード屋で入手した昔のロックスターのピンナップ――列挙すればリンキン・パーク、スリップノット、マリリン・マンソン、ザ・キュアー、マイ・ケミカル・ロマンス、BUCK-TICK、X-JAPAN。


 そのほか、アメリカン・コミックのポスターも貼っている。バットマンの『キリングジョーク』の表紙絵は僕のお気に入りのひとぬだった。


 僕は父の遺品のCDプレイヤーを再生し、学生服を脱ぎ、シャツを脱いだ。


 姿見には筋肉の発達した自分の姿が映っていた。怪我だらけだったけど、僕は満足した。一方で、さらなるトレーニングが必要だと感じる。あいつらに負けないための体を作り上げなければいけない。


 プレイヤーから流れるのはマリリン・マンソンの「ディスポーザブル・ティーンズ」。おどろおどろしく悪魔的なボーカル、破壊的で攻撃的なバンドサウンドが暴力反応を刺激する。


 僕は机の引き出しから、安全ピンとライターと墨汁の瓶を取り出した。


 ピンの先を火であぶってから、墨汁の瓶のなかに浸した。鏡で位置を確認して、左肩に針を突き立てた。歯を食いしばって、叫びだしたくなるような痛みをこらえる。こうしてようやく一点の黒い染みができた。


 僕は次の針を撃つ。また痛む。たえる――この繰り返し。


 自作のタトゥーだ。シンプルな蜘蛛の巣模様。半分完成した。毎日毎日少しずつ模様を広げていったのだ。完成まであとどれくらいかかるかは分からないが、この痛みを通して僕は強くなろうと思う。


 あいつらに負けないために。

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