第02話 屋上
教室棟の階段を一番上までのぼると、屋上につながる階段室があり、その窓からはまばゆい日光が迎えてくれた。
階段室の外に出る戸口には南京錠がかかっているが、この南京錠はえらく古いものですぐにはずれるので、外への行き来は実質自由だ。
ただ、留め金はすでに外されていた。僕は外に出た。外に人の存在を感じる。先客がいる。
屋上の床面に敷かれた人工芝は雨に濡れそぼっていた。雨はやんだとはいえ、いたるところに水たまりができていた。気をつけないと内ズックを水浸しにしかねない。
水たまりを避けながら、人工芝の地面を横切り、先客の元へと向かった。
「やあ」
彼女は転落防止用のフェンスの前に立って外を眺めていた。屋上の風がそのお下げと、プリーツスカートのすそを揺らした。
「御堂くん。久しぶり」
彼女は僕にチラリと視線をよこした後、また外の景色に戻った。
江崎さんの横に並ぶようにして立った。江崎さんからはいつもいい匂いが漂ってくる。香水でもないシャンプーでもない。押しつけがましくなく、それでいてしっかりと存在感を持っているような、ラベンダーみたいな香りだ。
「学生生協からポテト買ってきたんだけど、食べる?」
持参したビニール袋を掲げるが、江崎さんは首を横に張った。
「お腹は減っていないよ」
「いつものやつらだろ」
僕はたずねた。念頭にあったのは、江崎さんと同じクラスの、天野玲香、福田笑子、それから草木絵乃。
何度か見かけたことがあった。学校の
この前見かけたとき僕は割ってはいって、うまく追い払うことに成功した。しかし、次がうまくいく保証はない。福田たちにとってその時の僕は初対面で、何者か知らなかったから退散したのだろうけど、僕がクラスで弱い立場にいることが知られれば一転して強気に出てくることは目に見えているからだ。
もっとも、江崎さんは別に僕に感謝しているようでもなかった。いちおう「ありがとう」の一言くらいはくれたが、「問題は自分で解決したいの」と伝えてきた。
だから今みたいに傷のことに触れたりするのはNGだと思っていたわけだけど。
「その子たち」
どういう風の吹き回しなのか、江崎さんは珍しく話に乗ってきた。
「やつらはどうして君を殴ったらなんかしたんだ?」
天野の、福田の、草木の顔を思い浮かべる。江崎さんを見つめるときの、あの悦にいったようたうろんげな目つき。ライオンがインパラを組み伏せた時にするような表情。
「よく分からないんだ。私に男の子とデートするよう命令してきた。よく知らない男子で、天野さんの恋人の井雲さんがいじめている男子ってことは知ってる避妊具を押し付けてきて、性交してビデオを撮ってこいっていうの。当然断ったら叩かれた」
「そりゃあひどい。あまりに酷いじゃないか。意に沿わないことを押し付けて、歯向かったら暴力を浴びせるなんて最低だよ」
「御堂くんのほうも、いつもの人たち? いつになくひどい怪我だけど」
「ああ。いつもの連中だ。よってたかって殴られ、蹴られたよ」
灰色の雲の切れ間から、太陽が顔を出した。午前中のまだ若い太陽光はバレンシアオレンジ色で、外界に広がる家々の屋根を、オフィスビルの窓ガラスを、それから屋上の水たまりを輝やかせた。
「私達ってどうしていじめられちゃうんだろうね」
江崎さんは言った。その言葉はつぶやきに近かった。正解には期待しておらず、永遠に解くことのできない謎を口にしたような。
「弱いからだよ」
僕は言った。
「弱いから?」
眼鏡の向こうから潤んだ瞳が僕を見つめていた。
「そうだ。強ければつけ狙われることもないんだ。現状弱いやつはいじめられてもしょうがないんだよ」
「そう思うの?」
「それが真実なんだ。どう思っていようが関係ない。世界はそうなっているんだよ」
「私は弱い?」
「残念ながら、結果がそう物語っている。でもそれなら強くなればいいんだよ。やり方はある」
僕は知らず知らずのうちに学生服のポケットに片手を突っこんでいた。そこに確かに感じる。バタフライナイフの柄の硬い手触りを。
「どうしたらいいの?」
「同じぐらいの強い力でやり返すんだ。力には力で対抗するのが一番なんだ。僕はそうしようと思う」
「そのやり方は私向きじゃない」
江崎さんは顔をそむけた。眼鏡の鏡面は日ざしを反射し、その奥を見通せなくなしていた。
「ねえ、御堂くん。まさかとは思うけど殺すとか考えたりしてないよね」
僕は息をのんだ。
「そこまでは言ってないよ。あくまでビビらせればいいだけで」
内面の動揺が悟られないよう、落ち着いた声を心がける。いつもより低い声になってしまい、不自然さが醸し出させる。
「殺されるまでビビらない人だっているかもしれない。その時は殺すの?」
江崎さんの真意を測りかねた。僕が人を殺すのを心配しているのか、それともその逆で誰かを殺してほしいのか。――あいつらの息の根を止めてほしいと思っているのか?
「やってほしいのか、天野を、福本を、草木を?」
僕の質問に、江崎さんは目を丸くした。最初は意味が取れないようだったが、すぐに顔を真っ青にさせた。
「まさか」
「そうだよね」
僕は安心した。江崎さんに頼まれれば、「まさか」もあるかも知れなかったからだ。ビニール袋からポテトを取り出して食べた。傷だらけの口に、硬いポテトがチクチク痛かった。
殺すだのなんだの、そんな話は僕たちで二度と話されることはないだろう。僕はこの時はそう思っていた。
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