第七章・生滅 #3

 何かを追いかけるように——

 木立の間を歩いていた宇佐美は、ふいに足を止めた。

 突然、開けた場所に出る。そこにかつての集落はあった。

 家屋は既に倒壊しているだろうと思っていたが、驚いたことにちゃんと形を残していた。もちろん風雨に耐え兼ね、土台だけを残して朽ちてしまっている家もあったが、大部分はしっかりとその姿を保っている。

 宇佐美は集落の中へ、ゆっくりと足を踏み入れた。

 原型を留めているとはいえ、住む者もいなくなり、手入れをされなくなった家は、大きく傾いたり半壊していたり…と、とても住めるような状態ではない。

 それでも、人が生活していた頃の名残が随所に見られ、宇佐美は家の窓からそっと中を覗き込んだ。

 家具や調度品などが置き去りのままになっている。ここを離れる時、持っていかなかったのだろうか?

(まるで夜逃げみたいだ…)

 他の家はどうか分からないが、どの家も似たり寄ったりな気がした。

 住民が出ていった後、もう長い間ずっと手付かずのまま…ここに放置されてきたのだろう。

 そこには不思議な静寂があった。

「…」

 微かに——枝を踏みしめる音がする。宇佐美は音がした方へ視線をむけた。

 木立の間を、黒い影が横切る。

 ついてこい——そう言ってるように感じた。

「—―」

 宇佐美は誘われるまま、影の後を追った。

 集落の奥まで歩いていく。すると、その家は急に目の前に現れた。

 宇佐美は驚いたように目を見張る。

(嘘だろう…)

 そんなことってあるだろうか?

 その家は、まるでつい最近まで誰かが住んでたのではないかーーと思うくらい、しっかりとそこに存在してた。

 周囲の家屋が、風雨に晒され荒廃が進んでいるというのに、その家は—―と感じる。

 これは一体…

 黒い影が、家の中に入っていくのが見えた。

「…」

 宇佐美は息を飲む。


 ここだ——

 あの家が——父の生家だ。


「—―」

 大きく息を吸うと、意を決したように宇佐美は歩き出した。

 戸を開き、中を覗く。

 一瞬、カビ臭い匂いがした。でもすぐに気にならなくなる。代わりに漂ってきた生活臭を感じて、眉をひそめる。もしかしたら、ホームレスでも住み着いていたのだろうか?

 廊下の先を黒い影が横切るのが見えて、宇佐美は靴のまま上がり込んだ。床板が軋み、ヒヤッとする。

 このまま床が抜けたりしないだろうか?

 ギシギシと軋ませながら、恐る恐る黒い影が入った部屋を覗き込む。

 そこは和室だった。

 真新しい畳の匂いがする。床の間には花瓶があり、花が活けてあった。微かな線香の匂い。

 ここは仏間だ。

 閉ざされている襖の向こうには、黒い大きな仏壇がある。

 何故か、一度も来たことがないはずの家の間取りが頭の中に浮かんできた。

(これは…誰の記憶?)

 室内に佇み、周囲に耳を澄ます。

 背後で気配を感じた。冷えた空気。それがうなじに触れる。

「—―」

 宇佐美は息を吸うと、静かに言った。

「いるんだろう?そこに」

 返事はない。でもいるのは分かっている。何度も感じた。あの嫌な気配。

「お前の事はもう知ってる…姿を見たいんだ。振り向くよ?」

 宇佐美はそう言うと、ゆっくり背後を振り返った。

 黒いシルエットが、ぼんやりと佇んでいる。全身に影が差しているが、顔の識別はついた。叔父が古いアルバムを開いて見せてくれた。あの写真の男だ。

 宇佐美征一。俺の——父親。

「やっと会えたな。やっと…姿を見ることが出来た」

 宇佐美はそう言うと、じっと俯く影の男を見た。ヤツの周りからは、暗い闇が滲み出てくるようだった。それが冷えた空気を伴って、足元に流れてくる。

 宇佐美は、自分によく似たその陰に向かって言った。

「お父さんって呼ぶべきかな?」

 男は俯いたまま、ゆらゆらと揺れている。

「でも…悪いけど俺にはそんな感情、微塵もないよ」

 何の感情も湧いてはこない。親子感動の対面とは程遠い。あるのはただ、絶望的なまでの虚無感だけだ。

「待ってたんだろう?この時をずっと…を」

 足元の床が軋む。先程まで感じていた真新しい畳の匂いが消え、線香の匂いが強くなる。

「俺、叔父さんに会ったよ。彼は実の兄を、人でなしだって言ってた。お前は死神だってさ」

 宇佐美はそう言って笑うと、「母さんを殺したのはお前か?」と問いかける。

「あの日ベランダにいたよな?俺にも会ってる。なんで…」

 宇佐美はにじり寄った。床板が軋む。

「なんであの時、俺も殺さなかった?俺も殺せばよかったじゃないか!目の前であんな風に母親に死なれて——」

 男の体から、陽炎のような黒い炎が立ち上る。

「絶望してる俺を見て満足したか?大事な人を奪って喜んでいたのか?」

 床の間に飾られていた花瓶の花が、ゆっくりと萎れていく。室内の様相が、徐々に変わりつつあることに、宇佐美は気づいていなかった。

「俺がどんなに傷ついても、生かしておいたのはこの日の為か?」

 問いかけても返事はない。負の感情をぶつければぶつける程、闇が濃くなっていく。

「希望を得てもそれを奪って絶望させて…どんなにあがいても、お前の歳は越せない。そこで全てが終わりになるように、ここまで導いて——最期は」

 宇佐美はそう言うと、じっと天井を見上げた。

 梁にロープが一本括られていた。先が輪になっている。

 それを見て、宇佐美は小さく笑った。

「最高のプレゼントだな…」

 宇佐美は近くにあった木箱を手繰り寄せた。自分が何をしようとしているのか分からない…

(いや、分かってる——よせ!やめろ!)

「…」

 宇佐美は木箱を梁の下まで持ってくると、それに乗ってロープを掴んだ。

 ロープは梁にしっかりと括られている。これなら、人ひとりの重さを十分に支えられるだろう。

 宇佐美はじっと男を見下ろした。男の目には何の感情も無い。ただの空洞だ。光すら届かない、深い闇。

 あるのは死の静寂だけ…

 宇佐美は言った。

「あの人には絶対に手を出すな。もし彼に手を出したら、その時はたとえお前が死神でも、俺が殺してやるからな」

 そしてゆっくりと、ロープを首にかける。

 静かに息を吸い込み、目を閉じた。


 眼下に、倒れている母を見た。

 あの日から、救えなかったことをずっと後悔していた。

 どうしてあの場を離れたんだろう。

 もっと早くヤツの存在に気付いていれば…

 母だけじゃない。彼女だってきっと救えたはず——

「ごめんね…」

 涙が頬を伝う。

 躊躇うことなく、宇佐美は木箱を蹴飛ばした——


「宇佐美—―ッ!!」

 突然、激しい衝撃を受けて、宇佐美は背中から床に倒れ込んだ。と同時に、凄まじい屋鳴りがして、辺りが大きく揺れる。

 体の痛みを感じるよりも早く、宇佐美は野崎に抱き起されると、そのまま屋外へと連れ出された。

 外に飛び出すのとほぼ同時に、家屋が一気に倒壊する。野崎は、猛烈な勢いで襲い掛かってくる瓦礫から宇佐美を庇う様に蹲った。

 ——


 ———


 ——————どのくらい、時間が経っただろう。

 野崎は咳き込みながら、体に付いた瓦礫の破片を振り払うと、足元に蹲る宇佐美を抱き起した。

「おい…大丈夫か?」

「—―ッ!」

 宇佐美も激しく咳き込むと、しばらく苦しそうに肩で息をついた。そして喉をさすりながら野崎を見ると、微かに笑ってみせる。

「よかった…」

 それを見てホッと息をつくと、野崎はその場に座り込んだ。

「まったく…自分が何をしようとしてたか分かってるのか!?」

「ごめん…」

 俯いて軽く咳き込む宇佐美に、野崎は言った。

「お前の意思じゃないと思いたいけど…あと少し駆けつけるのが遅かったら——」

 そう思うとゾッとする…という様に首を振る。そして、すっかり崩れ落ちた家屋の残骸を見て言った。

「ヤツには会えたのか?」

 宇佐美は黙って頷いた。

「そうか…」

 そう呟いて再び問いかける。

「ヤツは?消えたの?」

 その問いに、宇佐美は「分からない…」と首を振った。

「成仏したのかな…」

 野崎の呟きに、宇佐美は「死神は成仏なんてしない」と言って、かつて家があったその場所をじっと見つめた。

「死にたいと思う人の数だけ存在するんだ」

 時に姿を変え、形を変え——弱い人の心に忍び寄る。

 あれは、自分が見た死神の姿。

 父の姿をした、弱い自分の姿だ———


 項垂れる宇佐美を見て、野崎は言った。

「ヤツは目的を果たした訳じゃないのか——なら…また俺たちの前に現れるんじゃ?」

「かもね…執念深いヤツだから、俺が死ぬまで諦めないかも」

 力なく笑う宇佐美を見て、野崎は「そうか…それは困ったな…」と言って苦笑した。

「お前が死のうとするたびに駆けつけるわけにもいかないし…」

 どうしたもんかな…

 そう呟いてしばらく黙っていたが、「でも——」と言って宇佐美を見た。

「お前の所に死神ヤツが現れない方法がひとつだけあるよ」

 野崎は言った。

「自分を許してやることだよ、宇佐美」

「…」

 宇佐美の肩が微かに震えた。

「母親が死んだのはお前のせいじゃない。お前が傍にいてもいなくても…結果は変わらなかったと俺は思う」

「…」

「ヤツが殺したかどうかなんて俺には分からない。でも、お母さんは心を病んでいた。死にたいと思う人間を、救うことは難しい…どんなに救いたくても救えないことだってある」

 宇佐美は野崎を見上げた。

「例えそれが医者でも…息子であっても——」

「…」

 じっと自分を見上げる宇佐美の目を見て、野崎は言った。

「それでも自分なら何とかできたって思うか?なら思い上がるなよ。お前の能力は万能じゃない。現にお前も死のうとしてた。俺が止めなきゃ——今頃あそこで首括ってた」

「…野崎さん」

「彼女の事は俺には分からないけど…でも彼女はお前を責めたりしたか?」

 宇佐美は黙って俯いた。

「お母さんは?お前を責めた?責めてないよな…俺だってそうだ」

「…」

「誰もお前を責めてない。お前はもう十分苦しんだ。そうだろう?だからもう許してやれよ」

「野崎さん…」

「お前は悪くない」

「…」

「お前のせいじゃない——」

 宇佐美は、溢れる涙を必死に拭った。その様子に野崎は小さく笑うと、「そういえば、まだ言ってなかったな」と呟いて、誇りまみれの宇佐美の頭を軽く撫でて言った。

「誕生日おめでとう」

「———」

 その言葉に、宇佐美は堪え切れず声を上げて泣いた。


 闇の中から光の方へ這い出して叫ぶ——


 それはまるで、この世に生を受けて初めて上げる産声のようだった。

 野崎は何も言わず。

 ただ、赤子のように泣きじゃくる宇佐美の肩を優しく抱き寄せた。

 木々の隙間から覗く青空をそっと見上げる。






 張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだような気がした。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る