第七章・生滅 #1

 10月15日。

 野崎の運転する車で、二人は山梨へと向かっていた。

 時刻は午前10時を少し回っている。

 午前中には目的地に着く予定でいたが——どういうわけだか思うように進めない。

「この先でまた事故渋滞だ」

「参ったな…」

 中央自動車道の下り。二人は途中のサービスエリアに立ち寄った。

 今日は平日だ。

 五十日ごとうびの影響もあるのだろうが、それにしてもやたらと事故が頻発している。

「ヤツに邪魔されているのかな…」

「自分から呼んどいて拒絶か?」

 天邪鬼な所はお前と似ているじゃないか、と野崎に嫌味を言われ、宇佐美はムッとした。

 今日から一週間、休暇を取っている野崎だが、こんな事に付き合わせていたら休養の意味がない。それに、離婚に伴う雑務もまだ片付いていないようだし…

(こんな所でモタモタしている場合じゃないのに)

 宇佐美は、車の外で電話をしている野崎をじっと見つめた。

 休暇中でも現場が気になるのか、白石と何か話している。運転席に戻った野崎に、宇佐美は言った。

「大丈夫ですか?」

 野崎は肩をすくめると、「現場はいいから、ゆっくり休めって言われたよ」と苦笑する。そしてカーナビを見ながら思案した。

「下ルートで行くか…」

「どこ走っても同じ気がする」

 宇佐美はそう呟いた。

「日のあるうちに行動させたくないんだ」

「日暮れを待ってるってこと?」

 宇佐美は頷いた。

「日が暮れてからの山中は危険だな…いくらGPSを使っても、暗闇はマズイ」

 野崎はそう言うと、「ひとまず大月市内を目指そう。最悪、そこで一泊して明朝仕切り直しだ」そう言って車を走らせ、サービスエリアを出た。


 案の定、大月市内に着いたのは午後2時過ぎだった。ここから本来の目的地へ向かうとなると、確実に日が暮れる。二人はやむを得ずビジネスホテルに部屋を取った。

 ツインルーム。予定外の宿泊だが仕方ない。

「やれやれ…何もしてないのに、移動だけで疲れたな」

 そう言ってベッドに倒れこむ野崎を見て、申し訳なさそうに宇佐美は言った。

「ごめん…運転、変われればいいんだけど」

「…」

 もう一つのベッドの片隅に、そっと腰を下ろして背を向ける宇佐美を、野崎は黙って見つめた。

 劣等感という文字が、背中に浮かんで見える。野崎は枕を掴むと、その背に向かって思い切り投げつけた。

「イテッ!——なに?」

 驚いて振り向く宇佐美を見て、野崎は「ははは」笑うと「気にすんなよ。俺が勝手についてきてるだけなんだから」と言った。

「でも…」

「どうせなら温泉宿にでも泊まればよかったなぁ」

 野崎はそう言ってベッドの上で大きく伸びをする。

「せっかくここまで来たんだし…帰りは甲府にでも寄って、温泉浸かって…ほうとうでも食って帰ろうぜ」

「——」

 宇佐美は、呆れるやら驚くやらで言葉もなく野崎を見た。

 この男には緊張感というものがないのだろうか…

(これから何が起こるか分からないのに)

 ここはすでにヤツのテリトリーで、自分たちは今、敵地の中にいるようなものだ。

 きっとヤツは、自分たちがすぐ近くまで来ていることに気づいている。

(待っているんだ…)

 その時が来るのを。


 ———



 午後9時過ぎ。

 駅前で夕食を済ませ、二人はホテルの部屋に戻った。ホテルの裏手には川が流れている。

「相模川は山梨に入ると桂川に名前を変える」

 この川を…宇佐美はそう言って、地図を開き川をなぞった。

「もっと上流まで遡る」

「お前の父親の生家か?」

 宇佐美は頷いた。

「すでに廃村になっているけど、どうやら放置されたままみたいで…でも名残ぐらいは残ってるんじゃないかって言ってた」

「死神が生まれた場所か…」

 野崎はそう言ってテーブルの上の缶ビールを開けた。ノンアルコールではない。久々のアルコールだった。

「ヤツは川を流れて移動してたのか?お前たちを追って…」

「人が持つ思念は水や空気に似てる。流動的で流されやすい。特に水は…そういうものを引き寄せやすいんだ。だから水辺の近くには霊が集まりやすい」

「淀んだ水もよくないんだろう?先生もよく言ってた」

 野崎はビールを一口飲むと、宇佐美にも一本勧めた。だが宇佐美は首を振った。

「ヤツの思念は血管を流れる血液みたいに、川に溶けて流れてきた。母や俺は、その思念に無意識に引かれていたんだろうな…川の近くに住むことが多かった。ヤツにしてみたら、俺たちを引き寄せるためだったんだろうけど——結果、関係のない人たちが、その思念に触れて死んでしまった…」

「…」

 もちろん、触れた人間が全員死ぬわけじゃない。条件がそろって、尚且つヤツと波長が合った者だけ…だろう。

「でも、お前のお母さんは気づいていたんじゃないのか?ヤツの姿が見えていたなら、逃げることだってできたんじゃ——」

 宇佐美は、あの日ベランダに立っていた母の姿を思い出していた。傍らにいた黒い影。今ならハッキリと思い出せる。

 あれは、幼い頃に見た父の後ろ姿だ。

「俺を助けるためだったのかも…」

 宇佐美はポツリと呟くように言った。

 あの場から自分を遠ざけ、ヤツと二人きりになって——その後何があったのか。

 自分が死ぬ代わりに、俺は見逃すように懇願したのかもしれない。それとも、もう逃げられないと悟って絶望してしまったのか…

 もし、自分があの場を離れなければ——

 母は今でも生きていただろうか?

 成長するにつれ、父親に似てきた自分を。

 それをいつも不安そうに見ていた母を…


 俺は守ることができただろうか———


 宇佐美は黙り込んだまま、じっと俯いていた。

 つけっぱなしのテレビでは、昔やっていたドラマの再放送が流れている。タイトルは忘れてしまったが、当時の流行歌が流れてきた。

 長い沈黙が続く。

 しばらくして、宇佐美がふと思い出したように呟いた。

「俺…明日、誕生日だ」

 野崎はテレビから宇佐美へ視線を移した。

 急に何を言い出すのかと思えば…

(祝ってもらいたいのかな?)

 どう切り返してよいか分からず、野崎はとりあえず「そうか…」と頷いた。

「お前もついに40か…もう立派な中年だな」

「そうだな…」

 ほんの少し、口角を上げて笑ったように見えた。

「まぁそう悪くはないさ。男は40からだ」

 我ながら、なんて慰めだと野崎は思ったが、その言葉に宇佐美は頷き「みんなそう言うよ」と言った。

「40になれば40から。50になれば50から…30になった時も同じこと言われた」

「…」

「でも結局なにも変わらない」

 きっとこの先も…なにも変わらず50になって言われるのだ。

 人生50からだと。


「変えようとしなかったからだろう」

「——」

 テレビを見ながらそう呟く野崎の言葉に、宇佐美は視線を向けた。

「もしかして、誰かに変えてもらおうとか思ってない?」

「…」

「宇佐美はさ、今まで自分から本気で何かを変えようと思って動いたことある?人とぶつかって、本音をぶちまけたことは?殴り合いの喧嘩をしたことは?」

 宇佐美は黙っていた。

「他人と本気で関わることを避けて、自分を見せずに上辺だけ。ずっとそうやって生きてきたんだろう」

 そう言って宇佐美を見る。

 その目に、野崎は問いかけた。

「怖いのか?自分を見せるのが」

 だが、相手の返事を待たずに野崎は首を振ると、「いや…そうじゃないな」と言って自戒を込めたように呟いた。

「本当は相手を見るのが怖いんだ…」

 彩子の泣き崩れる姿が、野崎の脳裏をよぎる。

「真実を知るのが一番怖い——」

「…」

 その言葉に、宇佐美の目が一瞬揺らいだ。

 それを見て野崎は確信した。

 そうか…この男の本質は、やはりここにあるんだ、と。

 宇佐美が他人と本気で関わらない理由。

 見なくていいものまで見えてしまう。

 聞きたくない声まで聞こえてしまう。

 知りたくないことも、知ってしまう——

 頑なに人を拒み、一人でいる理由。

「傷つきたくないんだよな…だから自分を必死に守ってる」

「…」

「心を閉ざして関わらない。そうすれば自分も相手も傷つくことないもんな。違う?」

「野崎さん…」

「変わりたいって本気で思うか?」

「——」

「なら一緒に変えていこうぜ。俺も力になるよ」

 宇佐美は黙り込んだ。何かを読み取ろうと、野崎の目をじっと覗き込む。

 網膜を通して何かを見ようとする、あの強い眼差し——

 テレビから懐かしい曲が聞こえてきた。

 これが流行っていたのは、つい最近のような気もするが、はるか昔のことのようにも感じる。

 自分たちもそうだ。ついこの間出会ったばかりなのに。

 なぜだろう…もうずいぶん前から知っていたような気がするのは——


「何か聞こえた?」

「…」

 宇佐美は黙っていた。

「言ってる事と本音が違うじゃないかって、聞こえたんならそう言えよ」

 宇佐美は震えるようにゆっくりと息を吸った。射貫くように、でもどこか慈愛にも似た温かさを感じる。野崎の目は真っすぐ、自分に向けられ揺らぐことはなかった。

 宇佐美の目から、涙が一筋あふれて零れ落ちる。

 それを見て、野崎は言った。

「泣くなよ、バカ」

「…うるさい…」

 宇佐美はそっぽを向き、拳で涙を拭った。

「明日が誕生日なんて、生まれ変わるなら最高のタイミングじゃないか」

「…変われるかな…誕生日が命日になるかも」

「そうならないように祈りたいよ…でも、もし無事に生まれ変わることが出来たら、その時は一緒誕生日祝おうぜ」

 野崎はそう言うと、俯く宇佐美の横顔を優しく見つめた。

「ケーキ買ってさ。ロウソク40本立てよう」

「そんなに刺したらケーキ潰れるよ」

 宇佐美は泣き笑いを浮かべる。

「それもそうか」

 野崎も小さく笑った。


 

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