第六章・過去 #3
週明け。
野崎は署の談話室にいた。
メンタルを心配した岸谷に、産業医との面談を勝手に申し込まれ、今しがたその面談を終えたばかりだった。
その産業医から、少し休暇を取ってはどうか?という提案をされ、野崎は不承不承受け入れた。
確かに。やらなければならないことはたくさんある。
片づけなければならないことも…
離婚は思っていた以上に大変な作業だった。子供がいないからまだいいが、これで子供がいたら、やれ親権だの養育費だのと、揉める要素はたくさんある。
「…」
野崎はため息をついた。
春先からずっと、目まぐるしく状況が変わっていることに気持ちが追い付かない。
今年は厄年だったろうか…そんな事を考えていると、スマホに着信があった。
メッセージが一件。
珍しく宇佐美からだ。
>ご無沙汰しております。
これもまた珍しく、きちんとした挨拶から始まっている。
>本当はちゃんと会ってお話をしたいのですが、報告だけにとどめておきます。ご容赦ください。
例の件。正体が判明しました。
「え?」
野崎は思わず声に出した。
>野崎さんの予想は当たっていました。幽霊と自分とは関係があります。
>幽霊は、俺の父親です。
「——」
野崎は椅子の背にもたれると、大きく息をついた。
経緯が見えないが、宇佐美なりに何か調べたのだろう。
(奴の…父親)
でもそれが何故?
>ここから先は自分が動きます。彼を必ず止めるので、安心して下さい。
>それと
その後、しばらく置いてから
>余計なことを言って、すみませんでした。
それっきり、言葉は途切れたまま。なにも言ってはこない。
野崎は黙ったまま、流れてきたメッセージをただ見つめていた。
自分が動く?一人で片を付けるってことか?
「…」
スマホの画面を睨みつけたまま、野崎はじっと考え込む。
あの場で、子供の影の存在を教えたことは、恐らく宇佐美にとっては不本意だったのだろう。
それがきっかけで離婚に至ったことに責任を感じているのか。
だから奴なりに気を使っているつもりだろうが——
(冗談じゃない!)
野崎はメッセージを送信した。
>きちんと話したい。会って話をしよう。
だが既読が付かない。当然返信もない。
野崎は腹が立って直接電話を掛けた。だが繋がらない。
「出ろよ…」
椅子から立ち上がり、部屋の中を歩きながら何度も呼び出すが、一向に出る気配がない。
クソッ!と舌打ちして、メッセージを送った。
>家にいるのか?なら今からそっちに行くぞ!
するとすぐに返事が返ってきた。
>あの公園にいます。
野崎はそれを確認すると、談話室を飛び出した。
宇佐美は、河川が見える遊歩道脇のベンチに腰かけていた。
近づく足音に気づいて振り向く。
スーツではなく普段着姿の野崎に少し驚いて、宇佐美は立ち上がると軽く頭を下げた。
「家に来られちゃマズいと思って、慌てて返事を寄越してきたな」
野崎はそう言って笑った。
「…」
宇佐美は困ったように顔をしかめる。
(だから自宅を知られたくなかったのに…)
そう思い、気まずそうに俯く。
二人はベンチに並んで腰を下ろすと、しばらく黙ったまま——遠くの山並みを見つめた。
秋の日は短い。午後三時を回ると、辺りには夕刻の気配が漂い始める。
西日も淡く滲んで広がり、川面を照らしていた。時折、風が頬を撫でていく。
「宇佐美のせいじゃないから…」
不意にそう言われて、宇佐美は視線を向けた。
野崎は遠くを見たまま、そう呟いた。
「遅かれ早かれそうなってた…ずっと——問題を先送りにしていただけで、見て見ぬふりをしてきたんだ」
「…」
「こんなきっかけでもなきゃ、きっと今もズルズルと誤魔化しながら生活してたと思う」
野崎はそう言って宇佐美を見た。
「子供の事は——だいぶ想定外だったけど…」
「野崎さん…」
「でも、知れてよかった」
「…」
宇佐美は申し訳なさそうに頭を下げた。その様子を見て、野崎は言った。
「俺はあの子を助けてあげられなかったのに——あの子は俺を助けてくれたんだ」
そして、信じられるか?という目をして宇佐美に笑いかける。
「お前には影にしか見えなかった子が、俺にはちゃんと見えたんだぜ?」
「え?」
「顔もはっきりと覚えてる。可愛い女の子だった…彩子に少し…似てたかな」
「——」
驚いたような顔をしている宇佐美に、野崎はあの日あったことを話して聞かせた。
「もう少しでベランダから飛び降りるところだった」
その話に宇佐美はゾッとして震えあがった。
もしかしたら近くに…ヤツがいたのではないか——母の時と同じように。
野崎のすぐ隣に——
(そうか…でもあの子が、助けてくれたんだ)
宇佐美はホッとしたよう息をついた。
「それで?」
野崎に聞かれて、宇佐美は首をかしげた。
「幽霊はお前の父親なんだろう?どうやって調べた?それに…なんで息子であるお前を襲うんだ?目的は?」
「——」
宇佐美は何から話そうか、少し考えてからポツリポツリと話し始めた。
霧が晴れて見えてきたもの。
母の呪文で忘れていたもの。あの場所へ置いてきた記憶が、今はハッキリと思い出せる。
「俺は父親の事をほとんど知らない」
宇佐美は言った。
「あまり家にいなかったし、いても静かで…影みたいな人だった」
幼い自分の記憶の中にいる父の背中は、いつも黒い影のようだった。
「近寄るのが怖かった。だからいつも、離れた所から背中を見ていた。母は腫れ物にでも触るみたいに、いつも父の側にいて…俺をあまり近づけないようにしていたみたいだ」
「…」
「うちには、死んだ父の仏壇がなかった。写真も何も…母は、初めからそんな人、存在しなかったみたいに消そうとしてた。だから俺も聞けなかった。父親の事。聞いちゃいけないような気がして…」
宇佐美は、目の前の広場でボール遊びをしている子供たちをぼんやりと見つめながら続けた。
「だから知りたいと思ったんだ。父親の事。そいつが関係しているんじゃないかって気がして…自分の本籍地が山梨だって分かったから、調べてきたんだ。そこで初めて知ったよ、父親の名前。俺…それすら知らなかったんだな」
そう言って笑う宇佐美を、野崎は何も言わず見つめていた。
「父には弟がいることも分かった。その人はまだ存命で、長野に住んでた。俺が会いたいと言ったら、会って話をしてくれた。写真を——見たよ。父の」
宇佐美の表情が曇る。
「気味が悪いくらい、俺に似てた…いや、俺が似てるんだな。叔父が腰を抜かすほど驚いたのが分かるよ」
そして野崎の方を見る。
「父が死んだのは40の時。そうだよ…俺はもうじき、彼と同じ年になる——」
川面を渡ってくる風が少し冷たくなってきた。
それでも、二人はベンチに腰かけたまま話を続けた。
「父は重度の精神疾患を患ってて、入退院を繰り返していたみたいだ。だから家にいないことが多かったんだな。分かればどうってことない。母の態度も、俺に対する気遣いも…全部、そういう状態の父親を見せたくないし、教えたくなかったんだ」
そして、あの日見た光景をまざまざと思い出す。
「父は自宅の梁で首を括って死んでた」
「——」
「ぶら下がってる、黒い影を覚えている。人の体って、こんなに伸びるんだってくらい細く伸びて…ユラユラ揺れていた」
野崎はふと、いつかの内田巡査の証言を思い出した。
『細長い影が、柳みたいにユラユラ揺れていた』
「母が慌てて俺の目を塞いだ。『忘れなさい』って言いながら」
「宇佐美…」
「だからずっと忘れてた。けど——」
宇佐美は大きく息をつくと「もうその声が聞こえない」と言って小さく笑う。
「母はずっと俺を守ってくれていた。ヤツから——父という死神から」
「死神?」
「そうだよ。ヤツは親だけど親じゃない。ヤツは——」
清次の言葉が蘇る。
「死神だよ」
「死神——」
そうだよ…と呟いて、宇佐美は野崎の目を見た。
「ヤツはただ、人を死に導いてるだけ。弱い心を持った人間に近づいて、死ぬように導いてるだけだ」
「それが、ヤツの目的?」
野崎は言った。
「弱っている人に近づいて、死ぬように仕向けている——死神が犯人だってこと?」
「——」
宇佐美は黙って頷いた。だが、ヤツにはもう一つ別の目的がある。
ヤツの本当の目的。
それは恐らく…
「ヤツは、ずっと長い間考えていたんだと思う。どうすれば…そいつが絶望して死ぬことができるだろうって」
「——」
「相手だけじゃない。ヤツ自身も、その苦痛を一緒に味わうことで喜びを感じるんだ。激しい絶望を感じれば感じるほど…激しい痛みを感じれば感じるほど…ヤツにとって、それは快楽なんだよ」
「宇佐美…」
「分からない?ヤツは俺を———」
宇佐美はすがるように野崎を見て言った。
「血を分けた息子を、どう殺そうかずっと考えてきたんだ。最高の状況で、最高のタイミングで、絶望して死んでいくためにはどうすればいいか、ずっと」
「そんな…なんで?なんでそんなこと」
「死神だからだよ。実の弟がそう言ったんだ。兄は死神みたいだって。人でなしだって。人でなしは人じゃない。そうだよ、人じゃないんだ」
俺は人で無しの息子だ——宇佐美はそう言うと、きつく目を閉じて俯いた。
野崎は何も言えず、放心したように虚空を見つめた。
こんな途方もない話、いったい誰が信じる?
死神が犯人で、それは宇佐美の父親で、しかもそいつは息子を殺そうとしている——だって?
今までの事がなければ、単なる妄想話だ。
自分だって、少女の姿をあんなにハッキリと見ることがなければ、絶対に信じたりはしない。
(これは本当に現実世界の出来事なのか…?)
目の前で見ているのに。それでも信じられずに戸惑っている自分がいる。
野崎が言葉に迷っていると、「ヤツを止めないと」と、宇佐美が呟いた。
「これ以上、奪われてたまるか」
宇佐美は膝の上できつく拳を握りしめると、じっと川面を睨みつけた。
「ヤツは俺から母を奪って、恋人を奪って、今度は友を——」
「…」
「俺から大事なものを全部奪っていくつもりだ」
「宇佐美…」
「そんなことさせるか。絶対に止めてやる!俺はヤツを——」
宇佐美の感情が暴走しそうになるのを見て、野崎はそっと肩に手を置いた。
「落ち着けよ」
「——」
低く落ち着いた声色に、宇佐美は我に返った。
優しい眼差しを向けられ思わず下を向く。
野崎はそんな宇佐美の様子に小さく笑うと、肩を軽く叩いた。
「ヤツが今どこにいるのか分かっているのか?」
「…見当は…ついてる」
「そうか。当たりは付いているんだな」
宇佐美は頷いた。
「それで——黙って顔も合わさず、一人で勝手に片を付けにいくつもりだったんだろう?」
野崎にそう言われ、宇佐美はバツの悪そうな顔をした。
「図星か」と野崎は笑った。
両腕を組んで、やれやれと首を振る。
「まったくお前は…どうしてそうなるかなぁ…」
宇佐美が黙り込んでいるのを見て野崎はため息をつくと、しばらくじっと何かを考えていたが、「よし——分かった」と決意したように小さく頷いて言った。
「俺も行くよ」
「え?」
驚く宇佐美を尻目に、野崎は構わず続けた。
「ちょうど今、休暇を取る手筈になってる。グッドタイミングだな」
だが宇佐美は首を横に振った。
「駄目だよ。何が起こるか分からないし、あなたを守れるか自信もない」
「守ってもらおうなんて思ってないよ」
「でも」
「俺は何の役にも立たないかもしれないけど、でももしお前に何かあったら、その時は誰がお前を助けるの?」
「…」
「こういう時は一人より二人だ。互いの存在が抑止力になることもある。それに——」
野崎は宇佐美を見てニヤッと笑った。
「もしヤツが俺を狙ってくるなら、近くにいた方が好都合なんじゃない?いざとなったら、俺を囮に使えばいいし」
「野崎さん…」
困惑した目で宇佐美は言った。
「どうしてそこまで——だってあなたは…こういう事は信じないって」
「…」
「なんで、そうまでして付き合ってくれるのか…分からない」
「——」
野崎はしばらく黙っていた。徐々に日が傾き、風も冷たくなってくる。
あの焼身自殺があった河川敷周辺の夏草はすっかり刈り取られ、秋の佇まいを見せていた。それをぼんやりと見つめたまま、野崎は言った。
「さぁ…なんでかな。俺にもよく分からない」
「…」
「出会って早々、自分の人生観を変えられたからかな?変な影を見たり、襲われたり。嫌でも信じざるを得ないよな」
「——」
「でも多分そんな理由じゃないんだ。友達が困っているなら助けたい。そんな気持ちに近いと思う」
そして宇佐美に目を向ける。
「俺たち、もう見ず知らずの他人ってわけじゃないだろう?お互い乗り掛かった舟だし、どうなるのか——結末を見届ける権利は俺にだってある」
「…」
「お前ひとりに手柄を取られるのも癪だし」
「そんな!」
「それに!」
ムキになって反論しようとする宇佐美を、野崎は軽く手で制して言った。
「それに——お前ひとりを危険に晒すのも俺の本意じゃない」
「——」
「だから一緒に行く」
宇佐美は何も言えず俯いた。野崎はその様子をじっと見つめていたが、ふいに顔を覗き込むと、少しおどけたように言った。
「納得して頂けましたか?宇佐美さん」
下から覗き込まれ、宇佐美は思わず苦笑した。それを見て野崎も笑う。
笑いながら、軽く宇佐美の肩を叩いて言った。
「ケリ付けに行こうぜ」
その言葉に宇佐美は仕方なく頷くと、諦めたような顔をして呟いた。
「やっぱり…あなたには適わないよ」
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