第六章・過去 #2
「野崎」
「…」
呼びかけられても応答しない相手に、岸谷が「おい!」と強めに呼びかける。白石が慌てて野崎を小突いた。
「え?あ…な、なに?」
ハッと我に返る野崎に白石は「課長が呼んでる」と心配そうに言った。
「あ…」
野崎は慌てて立ち上がった。その拍子に机にぶつかり、積んであった書類が雪崩のように床に落ちる。
「あぁ——!」
野崎は「すみません…」と苦笑いしてかき集めると、無造作に机に放り岸谷のデスクに寄った。
「お前、大丈夫か?少し休め」
「すみません。俺は…大丈夫です」
「ここしばらく、休みをとってないだろう?今はそういう働き方させるとさ…うるさいんだよ、上が」
そう言って、「半休でもいいから、帰って少し寝ろ」と、届け出用紙に先にサインをして野崎の前に突き出した。
「——」
有難い申し出だったが、今はじっとしていたくなかった。
忙しく動き回っていたかったのだ。余計なことを考えなくても済むくらい…
渋々用紙を手にして、野崎は自分のデスクに戻りため息をつく。
白石が椅子のキャスターを滑らせながら傍に寄ってきた。
「マンションまで送ろうか?」
「え?…いいよ。運転ぐらいできる」
「居眠り運転すんなよ」
「平気だって」
そう言いながらも、ぼんやりと虚ろな目で一点を見つめる。
妻と、離婚協議に入っていることは白石も知っていた。事情までは詳しく知らないが、相当落ち込んでいることは見て取れる。
大抵のことは気力でカバーするこの男が——こんなにダメージを受けているのを見るのは初めてだった。
離婚は結婚よりエネルギーを使う…とはよく聞くが。
いつもの野崎らしくない行動や言動が、どうにも気にかかる。
「完全にオーバーワークだぞ。食事も睡眠も、まともに取れてないようだしさ。本当に大丈夫か?死ぬぞ?」
そう言われ、野崎は鼻で笑った。
「別に死んでもいいよ…」
「おい…」
早退届に雑なサインをすると、野崎は鞄を掴んで「お先」と部屋を出て行った。
白石は「野崎!」と呼びかけたが、野崎は振り向きもしなかった。
休憩時間に、白石は神原の出版社へ電話した。
電話口には望月が出た。
白石が神原に取り次いでもらうよう懇願すると、しばらく待たされた後、神原が電話口に出た。
『やぁ、久しぶりだね白石君』
「どうも…ご無沙汰しております」
軽い挨拶の後、白石は宇佐美と連絡が取りたい旨を伝えた。
『宇佐美君?彼は今、休暇中なんだよ』
「え?いないんですか?」
『珍しく原稿前倒しにして預けていってね。しばらく出かけるって…何かあったのかい?』
白石は迷った。
肝心な時にウサギちゃん不在かよ…
仕方なく、白石は野崎の様子がおかしいと神原に話した。
『野崎が?』
「いつものアイツらしくないっていうか…ちょっと心配で」
離婚の話はそれとなく聞いてはいたが、どうもそれだけが原因ではない気がする。
例の、不審死の件もある。まさかとは思うが…
『——』
神原はしばらく黙っていたが、『分かった』と頷いて言った。
『私から二人にアプローチしてみよう』
「すみません」
『心配だが…まぁ馬鹿な男ではないから大丈夫だとは思う。でも念の為、注意して見てて欲しい』
分かりました…と白石は頷いた。
ただ落ち込んでいるだけなら時間が解決してくれるだろう。今はそっとしておく方がいい。そう思えるならそうしておく。
でも、野崎の口から「死んでもいい」という言葉を聞いた瞬間、白石は、これは普通ではない——と思った。
何があっても、アイツは絶対そんなことは言わない。
たとえ思ったとしても口には出さない。
自分には宇佐美のように何かを見たり感じたりする力はないが、あの河川敷や資料室であった出来事みたいに、うまく言葉にできない奇妙な感覚があった。
放っておいたらマズい——
「ウサギちゃん…なんでこういう時にいないの」
山梨に戻り、大月市内のビジネスホテルに宇佐美はいた。
すぐ近くを桂川が流れている。
ここは幼い頃に自分が住んでいた場所だ。母と、たまにしか家にいなかった父と三人で…
ぼんやりとした意識の片隅で、ずっと
霧が晴れるように…
忘れていたものが急速に蘇ってくる。
父の背中が——それに寄り添う母の姿が——
黒く伸びた影が揺れている。それを見上げる自分がいる。
両目を塞ぎ、「忘れなさい」と耳元で囁く母の声——
「——!!」
ブーン、ブーンというスマホのバイブレーションに宇佐美は飛び上がった。
テーブルの上には、山梨県内の地図が広げられている。その地図の下で、しきりに震えているスマホを慌てて手に取る。
野崎かと思ったが、着信相手は神原だった。
(なんだろう?原稿に不備でもあったかな…)
「はい」と宇佐美は応答した。
『宇佐美君かい?お休み中に申し訳ない。今どこにいるの?』
「今…ですか?」
宇佐美は少し迷ったが、正直に「山梨にいます」と答えた。
『山梨?…そうか…そんな所にいるのか』
「なにかありましたか?もしかして原稿に不備が——」
宇佐美が言おうとする言葉を遮るように神原は聞いた。
『最近、野崎とは連絡をとっているかい?』
「え?野崎さんと…ですか?」
宇佐美はドキッとした。神原宅へ行った時以来、連絡は取り合っていない。あの夜あった出来事も、神原には話していなかった。
「いいえ…連絡はとってないです」
そうか…というため息が聞こえた。宇佐美は不安になって聞いた。
「何かあったんですか?」
神原はしばらく考えていたが、白石から聞いたことをそのまま宇佐美にも伝えた。
『白石君が気になるというので心配でね。さっきから野崎の携帯に電話をかけているんだが繋がらないんだ。自宅の電話もね。それでもしかしたら、宇佐美君には連絡をしているんじゃないかと思って——』
そう言いながら、『そうか…君にも連絡は無しか…』と呟く。
「——」
いつになく不安そうな神原の様子に宇佐美はいてもたってもいられず、「俺からもかけてみます」というと、そのまま通話を切った。
そしてすぐに野崎のスマホに電話をかける。
だが、何度呼びかけても応答はない。メッセージアプリでメッセージを送ってみるが、既読も付かなかった。
(野崎さん…)
妙な焦りで落ち着かず、部屋の中をウロウロしながら、何度も電話をかける。
サイドボードの鏡の前を、スマホ片手に右往左往する。そんな自分の姿を見て、宇佐美は思わず足を止めた。
鏡に映る自分が、こちらを見ている。
不安と焦燥感で怯えた目をしていた。
その目が、鏡の中から自分を睨みつけ——ふいに、にやりと笑う。
「———!?」
宇佐美は鏡の前から後ずさった。
息を吸い込んだまま、吐き出すことも忘れてその場に立ち尽くす。
そしてゆっくりと首を振る。
「やめろ…」
鏡の中の自分に懇願する。いや、自分じゃない。
ヤツに——父親に。
「やめろ――彼に手を出すな!」
宇佐美はそう言うと、慌てて荷物をかき集め、鞄を掴んで部屋を飛び出した。
急いでチェックアウトして駅へ向かう。
(頼む!間に合って!)
ここからどのくらい時間がかかるだろう——なぜこんな時に、自分は離れた場所にいるんだ!
「すみません!」
宇佐美はタクシーを呼び止めると「どんなルートでもいいんで、急いでください!」と行き先を告げた。
そして祈るように顔の前で両手を合わせる。
迂闊だった…
ヤツの狙いは自分だと思っていたが——直接危害を加えるのではなく、間接的にダメージを与える気だ。
あの時と同じ。
自分から母を奪ったように…彼女を奪ったように…今度は野崎を——
(俺から大切なものを奪っていくつもりか?)
(そうやって、最後は自分で自分にとどめを刺すのを待っているのか?)
(苦しむ息子の姿を見て…楽しんでいるのか?)
(喜んでいるのか?)
(…最低だな…)
(お前がやっていることは…全部最低だ!!)
怒りと絶望が交互に襲ってくる。祈りながら震えている宇佐美を見て、運転手が心配してルームミラー越しに声を掛けた。
「お客さん…大丈夫ですか?」
「急いで」
宇佐美はそれだけ言うのが精いっぱいだった。
きつく目を閉じたまま。心の中で必死に呼びかける。
あの小さな影。
お願い——頼む——
(野崎さんを守って…!)
野崎はじっとスマホを見つめていた。
先程から、ひっきりなしに通知音や呼び出し音が鳴っている。
自宅の電話も。鳴ってはいるが出る気になれない。
身体が重い。頭も重い。
離婚協議に入り、彩子は身の回りの物を持てるだけ持って出て行った。
まだ私物は残っているが、いずれ——正式に離婚が確定したら取りに来るか…処分するか、だろう。
(どうでもいい…)
野崎はソファーに座ったまま、ぼんやりと天井を見上げた。
眠いはずなのに眠れない。腹も減らない。そういや…まともに食事をしたのっていつだっけ?
修羅場を迎えた夜以降、記憶が曖昧だった。
彩子の泣き叫ぶ声も、自分の怒号もすべて…まるで遠い夢の中の出来事のようだ。
(どうでもいい…)
(もう、どうでもいい——)
微かに風を感じた。
ふと見ると、ベランダの窓が薄く開いている。カーテンが風をはらんで揺れていた。
窓なんて、開けただろうか?
野崎はふらっと立ち上がった。
窓を閉めるつもりが、なぜかそのままベランダに出る。
マンション8階からの眺めはなかなかのものだった。この景色が気に入ってここに決めたのは彩子だ。
野崎はベランダの手すりに手を置いて、遠くを眺めた。
耳元を吹き抜ける風音が唸り上げている。心地よいが、ここは風が強すぎる。
野崎は手すりに身を寄せた。
そして真下を見下ろす。不思議と恐怖は感じなかった。誰かに、優しく誘われているような気さえする。
きっと楽しいだろう。すぐ楽になれる。
野崎は小さく笑うと、ゆっくりと手すりに身を乗り出した———
その時。
何かがズボンの裾を引っ張った。
「——?!」
野崎は我に返り、自分の足元に視線を向けた。
そこに。
小さな女の子がいた。
「…え?」
3歳くらいだろうか?あどけない目で、じっと野崎を見上げている。その小さな手が、ギュッとズボンを握りしめていた。
見たこともない子だ。いったいどこの子?いや、そもそもどこから入った?
その少女は、野崎の服を握りしめたままじっと見つめてくる。
「…」
野崎は黙っていた。手すりに置いた手に力を入れる。すると、それに気づいたのか少女が首を横に振った。
ダメだよ——そう言われた気がした。
「…」
野崎は、ふいに全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。
張りつめていた気持ちが、一気に解放されて叫びたい衝動に駆られる。
「———っ!」
堰き止められていた時間が、感情の波に押されて動き出したようだった。
野崎はその場に蹲ると、両手で顔を覆った。
恐怖で体の震えが止まらない。しばらくじっと、ベランダに蹲ったまま、野崎は気持ちが落ち着くのを待っていた。
何度も深呼吸を繰り返す——何度も…何度も…
——やがて。
ゆっくりと頭を上げ、視線を前に向けた。
目の前に少女が佇み、じっと自分を見ていた。
花柄のワンピースを着ている。その柄には、見覚えがあった。
初めて子供が出来た時、性別が女の子だと分かって彩子が買ってきたものだ。
まだ早いだろうと自分は笑った。着せることは叶わなかったが、あの服——
野崎は微笑んだ。そしてゆっくり少女の方へ手を差し伸べる。
「おいで…」
少女は嬉しそうに野崎の腕に飛び込んできた。空気のように軽いのに、真綿のように柔らかく温かい。
「よく似合ってるよ…ありがとう——」
野崎はそう言うと、少女を優しく抱きしめた。
>ご心配をおかけして申し訳ありません。俺は大丈夫です。
自分が送ったメッセージに返信があったのは、急遽山梨から帰宅した日の夜だった。
宇佐美はホッと胸を撫で下ろした。
本当は野崎の元へ向かおうと思っていたが、それよりも先に様子を見に行った白石から、どうやら正気に戻ったらしい…という知らせを受けたので、そのまま会わずに自宅へ戻った。
正直、顔を合わせるのも気まずかったのだ。
(でも、何事もなくてよかった…)
だがまだ油断はできない。早くヤツを止めなければ。
(どうしよう…)
宇佐美は迷った。
幽霊の正体が分かったことを、野崎に伝えた方がいいだろうか?
それとも、ここから先は自分一人で動いた方が…
けれどヤツは野崎を狙っている。
(ヤツが野崎さんを襲うよりも先に、ヤツの動きを止めないと——)
宇佐美は地図を広げた。住所から割り出した座標をもとに、地図に印をつけた。
山間部だが、歩いて行けないことはなさそうだ。ただ、早い時期に行かないと、気温が下がって雪でも降られたら厄介だ。
(せめて一言、伝えておいた方がいいだろうか…)
宇佐美は野崎にメッセージを送ろうとしたが、躊躇してやめる。電話にしようか…と通話ボタンを押そうとするが、それもためらってしまう。
気まずさが先に立って身動きできない。
どう言えばいい?
どう切り出せばいい?
考えれば考えるほど分からなくなる。
難しく考える必要はないと言っていたが、宇佐美にはその感覚が分からない。
「…」
宇佐美は唇を噛んだ。
悩んだ末、神原に電話をする。
電話口に出た神原に、宇佐美は山梨へ行った目的を話し、そこで幽霊の正体を確信したことを伝えた。
『そうだったのか…君一人でよくやったじゃないか。驚いたよ』
神原は素直に喜んだ。宇佐美に、ここまでの行動力があるとは正直思っていなかった。やる気がなく、厭世的だった彼が——自分の事などどうでもいいと、自暴自棄ともとれる態度だったこの男が。
一体何が彼をここまで動かしたのだろう?
単なる好奇心だろうか?
それとも———
『野崎には伝えたのかい?』
「それなんですけど…」
宇佐美は少し躊躇ってから、気まずくなるきっかけになった出来事を素直に話した。
「彼を傷つけたくなかったのに…俺があんな事を言ったから」
『宇佐美君、それは違う。夫婦間が危うかったのはずいぶん前から私も知っている。野崎もそれは分かっているよ。今回のことは、ただのきっかけに過ぎない』
「でも」
『私から幽霊の正体を野崎に伝えて欲しいのかい?でも私は伝えないよ。自分で言いなさい』
「え?」
見透かされたように言われ、宇佐美は怯んだ。
『宇佐美君…逃げてはダメだ。野崎は公私混同するような男じゃない。そんな事があったからって、君を遠ざけるような男じゃないよ。わだかまりはあるだろうが、気まずいからと言って逃げていては何も変わらない』
「…」
『どうせ嫌われて終わりだと思っていたんだろう?なら構うことないじゃないか。これっきりの関係だと割り切って、いつもの君みたいに、適当にあしらって終わりにしてしまえばいい』
「それは…そうだけど」
『らしくないな。何をそんなに迷っている?』
宇佐美は何も言えなかった。
痛い所を突かれ、反論もできない。でも神原はきっと気づいている。
今の自分の、この感情を——
『いっそ思い切って、相手の懐に飛び込んでみたらどうだ?』
「———」
何も言わない宇佐美の肩を、神原は最後にポンッと押すように言った。
『大丈夫。彼ならきっと受け止めてくれるよ』
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