第六章・過去 #1

 10月。

 宇佐美は山梨にいた。目的は戸籍謄本の確認。

 ずっと気になっていた父親の事を、どうしても知りたいと思ったのだ。

 役所で戸籍謄本をもらい、宇佐美は親の名前を見た。

(宇佐美征一     せいいち…)

 初めて知った。父親の名前だった。

 亡くなったのは35年前。自分がまだ5歳の頃だ。

 でも自分の中に父親の記憶があまりないのは何故だろう。顔もよく思い出せない。

 そんな事ってあるだろうか?

 5歳なら、多少の記憶は残っていそうなものだが…

「あの…」

 宇佐美は役所の窓口で尋ねた。

「父に身内がいるかどうか知りたいんです。母も他界していて…知るすべがなくて」

 既に亡くなっている父親の戸籍を調べると、どうやら弟がいるようだった。

 叔父にあたる人がいたのだ。しかもまだ存命だという。

 住所を知りたいと願い出たが、さすがに個人情報なのでと断られ途方に暮れていると、「この方、少し前まで上野原の役場で働いていたようです」と教えてくれた。

「そこへ行けば、お知り合いの方がいるかもしれませんね。会って個人的にお伝えすれば、取り次いでもらえるかもしれませんよ」

「そうですか。上野原…行ってみます」

 ありがとうございます、と宇佐美は頭を下げて役所を出た。

 自分に身内がいた——

 母には兄弟がおらず、両親も亡くなっていると聞いていたので、てっきり父親もそうだと思い込んでいた。

(でも…)

 上野原行きの電車を待ちながら、宇佐美は思った。

(何十年も会ったことのない甥に、会ってくれるだろうか)

 そしてふとスマホを見る。

 あれ以来、野崎とは一切連絡をとっていない。どうしているのか気になるが、こちらから聞くのもためらわれる。

 あの後。奥さんと、どんな会話を交わして、その後どうなったのか——責任の一端が自分にあるような気がして気が重かった。

 今回、山梨まで来ることは黙っていた。

 野崎には頼らず、一人で出来る所まで辿ってみようと思ったのだ。

 電車に乗り込み、車窓の景色を眺める。

 相模川は山梨に入ると桂川と名を変える。源流はここにあり、この地にかつて自分たちも住んでいた。

 そして、父親の出生地でもある。この場所——

 宇佐美は薄ら寒さを感じた。

 自分と幽霊は無関係ではないのでは…と野崎に言われた時から、宇佐美の中で少しずつ何かが変わり始めている。

 母の、忘れなさいという声はもう聞こえない。

 霧が晴れて、次第に輪郭があらわになってくる。

 気配を感じる。近くにいる。


 ———



「お父さん」

 呼ばれて清次きよじは顔を少し動かした。

 鼻に酸素を送るチューブを入れて、リクライニングのベッドを上げた状態のまま、少しうたた寝をしていたようだった。

「…うん?なんだ?」

「さっき、関さんから電話があってね…お父さんに会いたいって人が、今日役場に訪ねてきたんだって」

「会いたい?私に?誰だ——」

 それがね…と、娘の裕子ゆうこが不思議そうな顔をして言った。

「お父さんの甥にあたる人だって。父親は宇佐美征一だって言ってたらしいわ」

「征一?」

 清次は驚いたように目を見開いた。

「その人って…私は会ったことないけど、お父さんのお兄さんよね?征一伯父さん」

 清次は娘の言葉をじっと聞いていた。

 はるか昔に聞いたきり、すっかり忘れていた懐かしい名だった。

 征一…兄さん…甥っ子だと?

「どうする?会って話を聞きたいんだって」

「…」

 遠くを見たまま、何も答えない父を見て、裕子は言った。

「お断りしましょうか?お父さんの体調も優れないし…本当かどうかも怪しいし…」

「…」

 ぼんやりと何かを考えている父を見て、裕子はため息をつくと「お断りの連絡入れますね」と部屋を出て行こうとした。

「待ちなさい」

 呼び止められて、裕子は振り返った。

「会うよ。ここへ来てもらおう」

「えぇ?!」

 裕子は眉を寄せた。

「でも…本当かどうか分からないし…もし変な人だったら」

「兄の名を出したんだ。それも今頃——何か事情があるのかもしれない」

 でも…と、気乗りしない娘を見て、清次は言った。

「頼むよ。ここへ連れて来てくれ」

「——」

 裕子は返事を渋ったが、何か思い詰めたような顔をして自分を見る父に、思うことがあったのか「分かりました」と頷いた。



 翌日。

 宇佐美は長野へ移動した。昨日訪れた上野原の役場で、宇佐美は父の弟と知り合いだという、関という男に会うことが出来た。

 初めは半信半疑だったが、自分の戸籍と身分証を見せ、真剣に話す宇佐美を見て嘘ではないと思ったのか、個人的に連絡を取ってくれた。

『宇佐美さんは今、長野に住んでいる娘さんの所で静養しています。娘さんの携帯番号を教えて貰ったので、駅に着いたら連絡してください』

 そう言われて教えられた番号に、宇佐美はかけてみた。

 今日は金曜日。

 週明けの月曜が祝日になるので、実質明日から三連休になる。

 観光地へ向かう駅は、もうすでに人が多い。ただ、宇佐美が教えられた場所は、そんな観光地からは少し離れた静かなエリアだった。

 標高が高いせいか、やや肌寒い。

 幾度かの呼び出しの後、女性が出た。

「もしもし?川島裕子かわしまゆうこさんで間違いないでしょうか?」

 電話の向こうで少し躊躇う気配がしたが、すぐに『はい…』という返事が返ってきた。

 簡単な自己紹介の後、迎えに行くのでしばらく駅で待っていて欲しいと言われ、宇佐美は駅舎の待合室で迎えが来るのを待つことにした。

 15分ほど待っていると、駅のロータリーに白い軽ワゴン車が止まって、一人の女性が出てきた。宇佐美と目が合い、何となく会釈をしてくる。

「宇佐美さん…ですか?川島です。お待たせしてすみません」

「こちらこそ。わざわざ申し訳ありません」

 初めて顔を合わせるが、戸籍上ではいとこ同士になる。妙な気分だった。

 どうぞ、と促され宇佐美は助手席に乗った。

「この辺、タクシーもあまり走ってないから、車は必需品なんですよ」

 裕子はそういうと、慣れたようにハンドルを切った。

「申し訳ないです」

 宇佐美は恐縮して頭を下げた。その様子に、裕子は少し安心した様に微笑んだ。

「父方にいとこはいないと思っていたので、ちょっと驚きましたけど…想像していたような感じじゃなかったので、その方に今驚いています」

 え?というように宇佐美は裕子を見た。

「どんなオジサンが来るのかと思ってたら」

 そう言って宇佐美の方をチラリと見て、「やっぱり東京の人は垢抜けてていいですね」と笑う。

「メンズ雑誌から出てきた人かと思いました」

「そんな——」

 どう切り替えしていいか分からず、宇佐美は「オジサンですよ。それに東京じゃないし…」と口ごもる。

 木立に囲まれた林道をひた走る。すれ違う車はほとんどなかった。静かな所だ。

「お父さんは静養されていると伺いました…具合が悪いんでしょうか?」

 裕子はしばらく黙っていたが、「えぇ…」と頷いて言った。

「少し前まで入院していました。今は私の家で——」

「そうですか…本当に無理言ってすみません」

「いえ、父が会って話したいというので。本人の意向ですから、気になさらずに」

 でもなるべく短時間で——と言われ、宇佐美は頷いた。

 前庭の広い敷地内に入る。

 平屋の一戸建てだった。

 車を降りて、玄関を開く。

「お父さん、宇佐美さんをお連れしました」

 どうぞ中に…と案内されて、宇佐美も入る。

「連れてきましたよ」

「あぁ…こっちへ」

 清次はそう言ってベッドから僅かに身を起こした。

 部屋の中に、ゆっくりと入ってくるその男の姿を一目見て——清次は思わず息を飲んだ。

 そして、驚愕した様に目を見開く。

 心電図の計測器が、異常アラームを鳴らす。

 裕子は驚いて父に駆け寄った。

「お父さん、大丈夫?!」

「——」

 宇佐美は部屋の入口に佇んだまま、どうしてよいのか分からず、戸惑っていた。

 やがて落ち着いたのか、清次は大きく息をつくと、「すまない。もう大丈夫だ」と頷いて、立ち尽くしている宇佐美の方を見た。

 そして手招きをする。

「裕子、何か飲み物を持ってきて。宇佐美さん…驚かせて申し訳ありません。どうぞ、そこに腰かけて下さい」

 そう言われ、宇佐美は軽く頭を下げると勧められた椅子に腰を下ろした。

「こんな姿で申し訳ないが、このまま話をさせて貰って構いませんか?」

「もちろんです。無理ならいつでも出直します」

 そう言われて清次は力なく笑った。

「私にその時間があればいいが…」

「…」

 清次は目の前にいる宇佐美を見て、複雑な表情を浮かべた。裕子がお茶をもって入ってきた。

「私、隣の部屋にいますから。何かあったら呼んでください」

 宇佐美は黙って頷いた。

 ふすまが閉じて、二人きりになる。室内は病人の匂いがした。それも割と——重い匂いだ。

 清次は何度か深呼吸を繰り返すと、サイドテーブルに置いていた小さな黒いアルバムを手に取った。年季の入った古いものだ。それを開くと、あるページを宇佐美に向けて差し出した。

「私の手元にある兄の写真です。恐らくそれが一番新しい」

 宇佐美は手に取り、色あせた写真を見る。

「見てすぐ分かるでしょう。右にいるのが兄の征一です。まだ20代か30代の頃だから、随分と若いが…」

「——」

 宇佐美は背中に冷たいものを感じた。

(俺だ…)

 いや。正確には自分とよく似た男だ。

 モノクロだがそれが余計に端正な顔立ちを引き立てる。カメラの方に視線を向けてはいるが、どこか遠くを見るような暗く沈んだ眼差しだ。

 冷えた金属のような、無機質な表情。きしむような嫌な音まで感じる。

 嫌な感じだ…この感覚。間違いない。直感がそう囁く。

 だ——と。

「子供の頃から、兄には不思議な力がありました。人の心を見抜く力。それも…弱い心をね」

 清次は窓の外を見ながら、遠い昔の記憶を辿るように話し始めた。

「子供の頃、死にたいと悩む友人の相談にのってあげたつもりが、逆に死に追いやってしまったことがある。兄は励ましたつもりのようでしたが、相談にのっているうちに、死んだ方が友人も幸せだ、本人も強くそれを望んでいる…と思うようになって——結果自殺を促してしまった…と」

「…」

「人殺しと罵られて、一家揃って引っ越した思い出があります。以来、両親は兄を気味悪がってね。私も正直、怖かった」

 清次は宇佐美の方を見た。

「兄は見ての通り——あなたもそうだが、見目麗しいというか…無骨な私と違って、守ってやりたくなるような儚げな感じでしょう?だから自然と女性が寄ってくる。でも、どの女性も長続きしなかったな…みな怖がって逃げていく。それはそうだろう。直接手は出さなくても、精神的に人を追い詰めて死に追いやる男だ。しかも兄はそれを楽しんでいた」

 宇佐美は俯き黙っていた。お茶の入った器から、緩く立ち上る湯気を見つめている。

「互いに成人してからは、ほとんど会っていないんです。結婚していたことも、子供が生まれていたことも——死んだことを聞かされたのも、随分経ってからだった。それも人伝に。兄の話題は、身内でも避けていました。でも亡くなる少し前に、実は一度だけ、兄に会っているんですよ」

 宇佐美は顔を上げて清次を見た。その目を見て清次は頷いた。

「私は当時、病院に薬を届ける仕事をしていました。地域にあった精神病院に行った時、偶然兄を見かけたんですよ。兄はどうやら重度の精神疾患を患っていたようで…そういう兆候は幼い頃からありましたが、大人になって顕著になったようで。入退院を繰り返していたようです。結婚後もそんな感じじゃなかったのかな?」

 宇佐美は、記憶にない父の謎が解けたような気がした。入退院を繰り返していたのなら、家にもあまりいなかったのだろう。記憶の中ではいつも母と二人だ。

「その時も、そんな身の上話はまったく聞きませんでした…なので今の今まで半信半疑でしたが——今日、ひと目見て納得しましたよ。兄が帰ってきたのかと思いました。あの時の姿のまま。そんなわけないのに」

 そう言って笑う清次を、宇佐美は黙って見つめた。

「あなた…名前は?」

「あ、すみません」

 名乗り遅れたことを詫びて、宇佐美は慌ててポケットから名刺を取り出した。

「宇佐美尚人と言います」

 出版社の名前が入った名刺を手にして、清次は言った。

「尚人君と言うのか。記者なの?」

「いえ、小さな雑誌にコラムを書いてるだけの…しがないライターです」

 ふぅん…と言うように清次は眩しそうな目で宇佐美を見た。若く見えるが、兄の年を考えると娘の裕子とあまり変わらないのではないかと思った。

「お母さんは?」

「母は…8年ほど前に亡くなりました」

 そうか…と清次は呟いた。

「お母さんから父親の話を聞いたことは?」

 そう聞かれ、宇佐美は首を振った。

「俺…僕は父の事をほとんど知りません。あまり記憶にないんです。母も話したがらなかった。だから何も聞けなくて…名前も——実は今回戸籍を見て初めて知ったくらいで…」

「…」

「母から、父は幼い頃に死んだと聞かされていたけど、家には遺影も位牌も…アルバムもなくて。だから顔も見たことないんです。変な話、今初めて父の顔を見ました」

 そう言ってアルバムの中にいる、若き日の父の姿に苦笑する。

「僕は父親似なんですかね?母は僕から父を遠ざけていたように感じます…病気が原因ともとれるけど…そんな感じじゃない。存在そのものを必死に、消そうとしていたみたいです」

 それを聞いて、清次は眉間に深く皺を寄せた。

 これは言おうか言うまいか——しばし悩んだ末、清次は言った。

「お母さんが、あなたから父親の存在を消そうと思った理由が分かるような気がします」

「…」

「普通の親子関係を期待しない方がいい。身内である、弟の私が断言します。兄は——【人でなし】だった」

 宇佐美は黙って清次を見た。

【人でなし】とは——つまり、人では無いということ。そう呟いて、清次は続けた。

「弱った人の心にすり寄って死を囁く——兄はまるで死神のようでした。あなたはまさか…そんなことはないでしょうが」

 そう言って苦笑すると、「こんな事実。知らない方がよかったんじゃないですか?」と聞く。

 そして、少し辛そうな顔をして体を動かした。お茶の入ったコップに手を伸ばす。

 宇佐美は腰を上げて、その手にコップを近づけてあげた。

「ありがとう…」

 落とさないように片手をそっと添えたまま、飲み終えたコップも受け取ってテーブルに置く。その物慣れた手つきに、清次は優しい目を向けた。

「わざわざこんな所にまで来て聞く話だったのかどうか…私には分からないが…よければ理由を聞かせて貰えないか?なぜ今頃になって、兄の事を聞きに来たのか」

「…」

「兄が死んでもう30年以上経つ。その名前を聞くのも久しい」

 宇佐美はどう説明したらよいか迷った。話したところで信じて貰えるかどうか。

 それでも体調が思わしくない中、対応してくれたことに感謝して、宇佐美はまず自分の持つ不思議な力について教えた。そして母親の力についても。

「そうか…お母さんにもそういう不思議な力があったんだね。お互いに…引き寄せ合ってしまったのかな」

 そして何かを気にするように、不安げな顔をする宇佐美を見て言った。

「自分が父親のようになるんじゃないかと恐れているね」

「…」

 清次はジッと宇佐美の目を覗き込んで言った。

「あなたは確かに兄によく似ているが、唯一違う点があるとすれば、その目かな?」

「…目…ですか?」

「兄の目は救いようがないほど絶望的で暗く沈んでいた。でもあなたの目は違う。寂しそうではあるが、実に聡明で優しい。お母さんの目に似ているのかもしれないな。その目は兄じゃない」

「——」

 そして、宇佐美が話す信じがたいような事件の話に及ぶと、しばらく何も言わず。黙って窓の外へ目をやった。

 被害者たちを死へ追いやったのは、宇佐美征一に間違いないだろう。

 幽霊の正体は、自分の父だ。でも…なぜ?目的はいったいなんなのだ?

「死神に目的を問うなら、それは死へ導くためだろう…」

「彼を止めたいんです。山梨へ行った時、彼の気配を感じました。あの地にいます。でもそれがどこか分からない」

 川を遡上した先。そのどこかに、ヤツは潜んでいる。

「昔住んでいた集落が山梨にあった。もう廃村になってしまったが…さすがに家屋はないだろうが、名残くらいは残っているかもしれないな——」

 清次は言った。

「兄は子供の頃に住んでいたその家に何故か執着していた。引っ越した後も、一人で度々訪れていたようだ」

 そして、隣室にいる裕子を呼び、生家の住所を調べるように頼んだ。

「昔の住所録よ。参考になるかしら?」

 古い住所を頼りに現在の地図と照らしあわせる。

「でも、もうずいぶん前に廃村になってるんでしょう?道だって…どうなってるか分からないわよ」

「おおよその座標が分かればGPSで探せます」

 宇佐美は礼を言うと、長居してしまったことを詫びた。

「駅まで送ります」

 裕子に言われ、「甘えます。すみません」と素直に頭を下げる。

 そして、清次の側に寄ってその手をとった。

「ありがとうございました。お会いできてよかったです」

 清次は微笑むと、「私の方こそ…今更だけど会えてよかった」と頷く。

 そして、その年老いた両手でしっかりと宇佐美の手を包み込むと、優しい眼差しを向けて言った。

「尚人君…あなたは兄とは違います」

「——」

「僅かな時間だけど、一緒にいて分かりました。私は兄から、こんなに穏やかな雰囲気を感じた事がない。きっとお母さんの力が、あなたを守ってくれているんだろう…だから大丈夫。安心しなさい。あなたはお父さんとは違う——」

「———」


【人でなし】ではない。


 そう言われたような気がした。

 宇佐美は何も言わず。黙って頭を下げた。



 駅前のロータリーに着いて、宇佐美は礼を言った。

「お世話になりました」

「いえ。こちらこそ…ありがとうございます」

 何故か礼をいう裕子に、宇佐美は不思議そうな顔をした。

 裕子は俯くと、ハンドルに手をかけたままポツリと呟いた。

「父は…末期のガンなんです」

「え…?」

「余命宣告を受けていて、すでにひと月過ぎています」

「——」

「実は…あなたが来られる少し前に、危篤状態になって——さすがにもうダメかと諦めていたんですが、持ち直したんですよ。医者も驚いていました」

 そう言って裕子は笑うと、助手席の宇佐美を見て言った。

「まるで、あなたが来るのを待っていたみたい」

「…」

「じき、父は亡くなると思います」

 宇佐美はじっと裕子を見た。裕子は寂しそうに笑うと、「でも」と言った。

「あなたのせいではないから、気にしないでくださいね。これは天命ですから」

 隣の部屋で、それとなく会話を聞いていたのだろう。

 宇佐美が死を携えて訪れたわけではないと、気にかけているのだ。

 訪ねて来ても来なくても、結果は同じだと。

 裕子もまた清次同様、あなたは死神ではない、人でなしではない、と言っているのだ。

 宇佐美は深々と頭を下げると車を降りた。

 そして走り去る車をじっと見送る。

 遠くに見える山影が徐々に黒く染まっていくのを、宇佐美はただ見つめていた。

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