第五章・揺心 #4

 9月中旬。

 友人と日帰り旅行に行くという彩子を、野崎は駅のロータリーまで送り届けた。

 互いの休みが合うことなど滅多にないのに…わざわざ狙ったように野崎が休みの日に予定を入れた彩子に対して、もはや何も言うことはなかった。

 無言のまま、ロータリーに車を寄せる。

 すでに着いていた友人が、気づいて手を振ってきた。

 今回はいつものメンバーで間違いないのかな——と。皮肉のひとつでも飛ばしてやろうかと思ったが、やめた。

「帰りはどうするの?」

「信子たちと夕飯食べて帰るから気にしないで大丈夫。ありがとう」

 それだけ言うと、彩子は車から降りて友人たちの元へ行ってしまった。

「あ、そ…」

 そっけない口調で野崎は呟くと、信子に向かって軽く頭を下げた。

 いつぞやの気まずい態度を払拭するように、今朝は何だかワザとらしいくらい楽しげだ。

 彩子たちを見送った後、野崎は時計を見た。

 まだ7時前だ。

(さて…どうしようか)

 家でのんびりするのも悪くないが、せっかくの日曜。天気もいいし、もったいない気もする。

 海の方までドライブでもしてみるか。

 でも、どうせなら——

「…」

 野崎はダメもとで、宇佐美にメッセージを送ってみた。


 >暇?


 こんな早朝に気づくわけないか。

 野崎は苦笑した。

 考えてみれば、自分だって宇佐美の事をよく知らない。8年も付き合ってきた神原でさえ知らないことが多いと言っていたのに、自分など尚更だ。

 執筆業を生業としてるらしいが、それだけで食べていけるのだろうか?

 他にも副業を持っているのかもしれない。

 休みの日に一緒に遊ぶ友人だっているだろう。もしかしたら、いないと言ってるだけで、彼女だっているのかもしれない。

 いつも声を掛けるのは自分の方ばかりで、本当は迷惑に思っているかも——

 そう思うと、申し訳ない気持ちになって、野崎は再度メッセージを送った。


 >ごめん。なんでもない。気にしないで。


 そして車を走らせる。

(こんな時、誘える友人がいないのは、もしかしたら俺の方かもしれないな…)

 ぼんやりと信号待ちをしていると、スマホの着信音がした。

 野崎は路肩に車を寄せると、画面を見た。

 宇佐美かと期待したが、メールの送信者は神原だった。


 >今日は仕事かな?もしよければ、たまにはうちに夕飯を食べに来ないか?家内が野崎に会いたがっている。宇佐美君も誘って、今夜食べにおいで。


 野崎はタイムリーな申し出に思わず笑った。

(さすが先生。なにか察知してくれたのかな?)

 お陰で一つ予定ができた。それに、宇佐美に声を掛ける大義名分もできたな。

 野崎は


 >ぜひ


 と返事を返した後、宇佐美にもう一度メッセージを送った、


 >今日の夜、神原先生宅に行きませんか?夕飯に呼ばれました。宇佐美も連れてこいとのことなので、一緒に付き合ってくれると嬉しいです。これに気づいたら返事下さい。


 野崎はスマホを伏せると、再び車を走らせた。



「…」

 宇佐美はベッドに横になったまま、じっとスマホに目をやっていた。

 先程からメッセージが送られてきているのは気づいていたが、既読を付けたくなくてちゃんと開いていない。

 相手が野崎だということも気づいているが——

 スマホを枕元に置いて、宇佐美は寝返りを打った。

 胸がざわついている。

 本当なら、今すぐにでも返事をしたい。

 暇かと問われているなら、暇だと答える。そうしたらきっと、会おうと誘ってくるだろう。

(そうしたら、いいよと返事をするさ。でも…)

 でも——

 そうやって無防備に相手の懐に飛び込むことが怖かった。

 深く関わることで、必要のない情報を与えてしまうことや、知りたくもないことを知ってしまうのが怖い。信じていた相手を失うのが怖い。

(会いたいのに会うのが怖いなんて…)

 本来、この関係はビジネスのみの繋がりだと思っていた。

 向こうが事件のことでアドバイスを求めてくるなら、それに答えるのが自分の役割だと。

 あくまでも事務的に。

 だから気軽に応じたのだが…

 まさかこんなにプライベートにまで浸食してくるとは思っていなかった。

 それをいつのまにか受け入れていた自分にも驚きを隠せない。

 初めはあったはずの警戒心が、今はすっかり消えていて、あの人になら甘えられるとまで思い始めている。

 心を許してはダメだ。どうなるかは分かっている。どちらも傷つくだけで——辛い思いをするだけだ。

(でも会いたい)

 友人に会うだけなのに、なんでこんなに葛藤しなければならないのか。


「くそっ…!」


 宇佐美は頭を掻きむしって起き上がると、乱暴にスマホを掴んでメッセージに目を通した。

 そして、怒ったように書き込む。

(恋人同士じゃないんだから、関係が壊れようが知ったことか!)

(たかが友人の一人だ)

(それもつい最近できたばかりの友人人だ)

(傷つけて気まずくなったところで、関係ない)

(どうにでもなれ!)


 >暇です。行きます。


 そう送り付けて、スマホを放り投げる。

 枕に顔を突っ伏して、宇佐美は布団をかぶった。


 どうにでもなれ!!



 神原の自宅は大磯という町にあった。

 すぐ近くには海岸があり、歩いて行くこともできる。

 少し早い時間に訪れた二人は、夕飯の準備ができるまで、散歩でもしてくるといいと言われ、ぶらぶらと海に向かって歩いていた。

 残暑も多少和らいだのか、日が暮れると過ごしやすくなる。犬の散歩をしている人も、ちらほらと目についた。

 少し後を着いて歩く宇佐美を振り返って、野崎は言った。

「休みの日って、宇佐美はいつもなにしてるの?」

「え?」

「友達と遊びに行ったりするの?」

 宇佐美の歩くペースに合わせて、野崎が横に並んで歩く。宇佐美は少し考えてから、「そんな友人いない。大体いつも一人で家にいるよ」と答えた。

「そうか…じゃ似たようなもんだな」

「野崎さんも?」

 宇佐美は隣を歩く野崎に目を向けた。以前は無造作に生やしていただけだった無精ひげも、今はきれいに整えている。精悍な顔立ちの野崎にはよく似合っていて、男でも見惚れてしまうほどだ。

「このくらいの年になるとさ。気軽に声かけて遊びに誘える友人って減らない?みんな忙しいし…予定も合わないし」

 そう言いながら両手をポケットに突っ込み、潮風に目を細めながら思い出したように野崎は笑った。

「でもお前のメールって…凄い簡潔で分かりやすくていいよ。ある意味、男らしいよな。暇です!行きます!ってさ」

 宇佐美は笑った。

「なんだかんだ言って、お前に誘いを断られたことがないんだけど…本当に大丈夫だった?」

「大丈夫だからここにいるんだけど」

「でもこれってほぼプライベートだぜ。そういうのは…嫌がると思ってたからさ」

「…」

「宇佐美はもっとビジネスライクな付き合いを望んでると思ってた」

 宇佐美は思わず立ち止まった。

 野崎も気づいて立ち止まる。

「どうした?」

「…ダメかな」

 え?と野崎は首をかしげる。宇佐美はすがる様な目をして聞いた。

「こういう付き合い方はダメかな…」

「別に…」

 ダメじゃないよ、と野崎は笑うと、「いいんじゃない、こういうフランクな付き合いも。俺は大事だと思うけど。今後、付き合っていく上では特に」と答えた。

「お互いの事をよく知るには、プライベートにも多少足を突っ込まないと」

「——」

 俯いて固まる宇佐美を見て、野崎は苦笑すると「そんなに深く考えるなよ。普通、友達を誘うのにそんな難しい事考えて誘わないだろう?」と言った。

「そんな風に誘ったことないし…そんな友人いないし——」

 神原から聞いた宇佐美の生い立ちを思い出して、野崎は一瞬言葉に詰まった。

 が。

「俺がいるじゃん」

「…」

 じっと自分を見る宇佐美の肩を野崎は軽く叩くと、「たまには誘ってこいよ」と言って笑った。

 二人はバイパスの高架をくぐって海岸に出た。

 海だぁぁ!と大きく伸びをして叫ぶ野崎に、宇佐美は笑った。

 そして自分も大きく息を吸い込む。

 久々に感じる潮風と波の音。閉塞的な日常から解き放たれた気分で、来てよかったと感じた。

 遠くに目をやり、宇佐美は心地よさそうに微笑んだ。その横顔を、野崎はじっと見つめた。

 頬にまだ薄っすらと傷が残っている。

 砂浜に座る宇佐美の隣に並んで腰を下ろすと、野崎は何も言わず。

 ただ寄せては返す波の音を聞いていた。

 こうしていると、つい数か月前まで起きていた不可思議な事件が、はるか昔のように思えてくる。

 そもそも、普通に生活していたらまず接点がない自分たちが、今こうして肩を並べて一緒に海を見ていることが不思議でならない。

 このまま何事もなく、普段の生活に戻ったら、宇佐美とは良き友人関係でいられるだろうか。

 捜査協力者としてではなく、一人の友として。

「なに考えてるの?」

 宇佐美が、いつのまにか自分の方を見ていた。ぼんやりと遠くを見て考え事をしていた野崎は、思わず言った。

「読んでみたら?」

 宇佐美は苦笑する。

「言ったろ。いつも聞こえるわけじゃないって」

「そうだっけ?…意外と使えない能力だな」

「どうでもいい時ほど聞こえるんだ。本当に使えない力だ。いらないよ、こんなの…」

 吐き捨てるように言う宇佐美に、野崎は聞いた。

「お母さんにも、そういう力があったの?人の心を読む力」

「さぁ…そういうのはなかったと思うけど…勘は良かったけどね。すぐに嘘がバレた」

 それを聞いて野崎は笑った。

「そりゃお前が嘘つくのが下手なだけじゃない?」

「そうかも」

 宇佐美も笑う。

「そろそろ戻ろう」

 日が落ちて徐々に深く染まる海の色を、二人はしばらく眺めていた後、ゆっくり立ち上がって神原の家を目指して歩き出した。


 食事中は終始和やかな雰囲気だった。

 智子夫人の手料理はどれも家庭的で温かく、美味しかった。

 子供のいない神原夫妻にとって、野崎と宇佐美は息子のような存在なのだろう。

 特に学生時代から野崎を知っている智子夫人は、久々に会う野崎の姿を見て嬉しそうだった。

「会うのは一年ぶりよね?久々に見て驚いたわ。お髭を生やしたのね?」

 だいぶご無沙汰してしまったことを詫びつつ、野崎は照れて頭を掻く。

「剃るのが面倒になっただけで…でもこれはこれで手入れが面倒かも…」

「あら、似合ってていいわよ。ねぇ?」

 同意を求められて、宇佐美は小さく頷く。

「ワイルドでカッコいいわ。髭が似合う男の人って素敵よね」

「じゃあ私も生やそうかな」

 神原がそう言うと、「あなたは仙人みたいになっちゃうわよ」と言い、笑いを誘う。

「奥様はお元気?今日はご一緒じゃなかったのね」

「友人たちと日帰り旅行に行ってます。旦那が当てにならないもので」

 野崎がそう言うと、神原が言った。

「仕事柄、仕方ない事だよ。まぁ楽しんでくれているならそれでいい」

 そんな男二人の言葉に、智子夫人は「夫婦は歩み寄りが大事よ。お互い様なことでも、言葉にしなきゃ分かり合えないことってあるわ」と、意味深な台詞を言ってチラリと宇佐美に目配せした。

 そして優しく微笑みかける。

「宇佐美君、食べた?あなたは食が細くて心配だわ」

「食べましたよ。美味しかったです、ご馳走様」

 そう礼を言う宇佐美の手に、そっと自分の手を重ねて智子夫人は言った。

「宇佐美君…少し雰囲気が変わったわね」

「え?」

「なんだか、すごく柔らかくなった気がするの。ねぇ、そう思わない?」

 全員の視線が一斉に自分に向けられ、宇佐美は戸惑った。

「もしかして…どなたか、いい人ができた?」

 その言葉に神原がにやりと笑った。

「好きな人でもできたかな?」

 宇佐美は慌てて首を振った。

「いませんよ、そんなの」

「なんだ、彼女できたの?」

「できてないよ!」

 野崎に向かって噛みつくように答える。

「そんなに怒ることないだろう」

 肩を竦めて苦笑する野崎に、宇佐美は黙って俯いた。

「こんなに美男子なのに恋人がいないなんて、もったいないわよね」

「お前、選り好みしてるんだろう?」

 と野崎がからかうように言う。宇佐美はムッとした様に眉を寄せた。そして言う。

「ほっとけよ…俺は独りでいい」

「——」

 野崎は黙って宇佐美を見る。そしてチラリと神原に目をやった。

 神原も何も言わず、優しい眼差しを宇佐美に向けている。

「でも年を取ったら独りは寂しいわよ」

 智子夫人はそう言うと、優しく宇佐美の手を握り締めた。母親のような温かいぬくもりが伝わってくる。自分の事を本気で心配してくれているのが分かる。

 宇佐美は智子夫人に小さく笑いかけると、ありがとうを言う代わりに黙って頷いた。


 あまり遅くまでいるのも失礼だと思い、二人は食事の礼を言うと午後8時には神原宅を辞去した。

 智子夫人は名残惜しそうに「もう少しいいじゃない」と引き留めたが、神原に「明日は仕事なんだから」と諭され、仕方なく見送りに出た。

 自宅前に路駐していた車のエンジンをかけると、野崎は「乗って」と宇佐美に声を掛けた。

「いいよ。俺、電車で帰るから」

「は?何言ってんの。同じ方向なんだから送ってくよ」

「そうだよ。送ってもらいなさい」

 神原もそう言った。

 それでも宇佐美は「いいよ」と言いながら歩いて行こうとする。

「一人で帰れる」

「送るって」

「大丈夫だから」

 頑ななその態度に、野崎はイラっとすると「あのさぁ!」と、思わず声を荒げて言った。

「こういう時は素直に乗れよ!」

「…」

 宇佐美が驚いたように足を止める。神原夫妻も思わず驚いて野崎を見た。

「あ——」

 野崎は、気まずさをごまかすように軽く咳ばらいをすると、

「あの……送りますから。乗ってください」と、今度は馬鹿丁寧な口調で助手席のドアを開け、宇佐美に乗るよう促した。

「…」

 神原は戸惑ってる宇佐美に笑いかけ、黙って頷いた。

 宇佐美は仕方なく車に乗り込んだ。

 野崎はため息をつくと、神原を見て黙って頭を下げた。神原は頷きながらその肩を軽く叩くと、「気を付けてな」と呟いた。

 手を振って見送る夫妻の姿を、ルームミラー越しに見ながら、野崎はアクセルを踏み込んだ。

 宇佐美は黙ったまま、窓の外を見ている。

 怒っているのか何か知らないが、一体何なんだ⁉

 と、野崎はため息をついた。

 まさかこのまま、帰るまでずっと無言を貫く気だろうか?

 急に機嫌が悪くなるようなこと、自分はしただろうか?

 一体何が気に入らないんだ?

「…」

 気まずい沈黙に耐えかねて、野崎は言った。

「俺、なにか怒らすようなことした?」

「え?」

 チラッと、一瞬だけ宇佐美を見て、野崎はすぐに視線を前方に移す。

「不機嫌な理由が分からない」

「…」

 宇佐美は何も言わず、黙ったまま俯く。

 その様子に野崎はため息をつくと、「あなたという人が、よく分からないよ…」と言った。

「たいていの変わり者には慣れてるし、心を開いてくれない奴にもたくさん会ってきたけど…あなたは——まるで空気を掴んでるみたいだ」

「…」

「実体を掴みかけたと思ったら、すり抜けていくし。親しくなれたかと思ったら、急によそよそしくなるし」

「——」

「本当にこの人、前回会った人と同じ人なのかなって思う時もある」

 そう言って苦笑いを浮かべると、何も言わない宇佐美に懇願するように野崎は呟いた。

「心を開いてくれとは言わないけど、せめてもう少し…気を許してほしいよ」

 それでも黙っている宇佐美に、野崎は思わず笑った。

「あれ?…俺、さっきから独り言を言ってんのかな?」

「…」

「何か言ってよ——それとも、俺には気を許せない?」

 俺のせいかな…と、呟く野崎に、宇佐美は「そうじゃないです」と言った。

「野崎さんは悪くないです。俺が…」

 そう言うと、運転する野崎の横顔を見て「俺が悪いんです。すみません」と頭を下げた。

「あなたと一緒にいると、自分がなんだか情けなくなってくるんです…」

 信号で停車すると、野崎は宇佐美の方を見た。

「俺とは違って、野崎さんはシッカリしてて、ちゃんと地に足を付けて生きてるんだなって思う。なんていうか…凄く頼れる感じがする。だから、つい甘えそうになるけど——でもそういう風に甘えたくないし」

 必死に言葉を探している宇佐美を、野崎は黙って見つめた。

「俺が勝手に劣等感感じてるだけだから——あなたのせいじゃないんです。ごめんなさい」

「…」

 信号が青に変わって動き出す。野崎は静かにアクセルを踏むと、前方をジッと見つめたまま、言った。

「俺と会っている時、いつもそんな引け目感じてたの?」

「…」

 黙っている宇佐美に、「俺だって人間だよ」と言って野崎は苦笑した。

「ダメな所いっぱいあるよ。宇佐美が知らないだけで、全然シッカリした人間じゃない」

「——」

「人は見た目じゃ分からない。お前だってそうなんだろう?」

 野崎と視線が合い、宇佐美は俯いた。

「人は見た目が9割ってよく言うけどさ。その9割で成功してても、残りの1割が目立つんじゃ意味ないよな」

 な?残念なイケメン、と野崎に言われて、宇佐美は苦笑いを浮かべた。

「それでも9割成功しているお前の方が、俺には羨ましいよ」


 車は国道1号線から129号線に入る。

 道路は比較的空いていた。この調子なら一時間とかからずに家に帰れそうだ。

 二人はしばらく無言のまま、ラジオから流れてくる音楽を聴いていたが、ふと思い出したように野崎が言った。

「あれだけ行動を起こしてたヤツが、急に大人しくなった理由は何だと思う?」

 宇佐美は野崎の方を見た。

 資料室で野崎と白石が襲われたのを最後にヤツは気配を消している。宇佐美もあれ以降、ヤツの気配を感じない。

「もう飽きたのかな?」

「どうだろう…」

 宇佐美は眉間を寄せた。

「このまま止めてくれたら助かるんだけど」

 その言葉に、宇佐美はゆっくりと首を振った。

 信号待ちで停車する。野崎は宇佐美の方を見た。

「俺にはヤツが、何かを待っているように感じる」

「待つ?なにを?」

「分からないけど、そう感じるんだ」

「…」

「息を潜めて、こっちの様子を伺っている」

 野崎は無言でアクセルを踏んだ。

 束の間の休息というわけか…いやそれとも、嵐の前の静けさだろうか?

 野崎は、ずっと気になっていたことを宇佐美にぶつけた。

「お前は幽霊の正体に気づいているんじゃないのか?」

「え?」

「明言はできなくても、なにか思うことがあるんじゃないかと思って」

「——」

 そして、いつぞやも感じていた思いもぶつけてみる。

「俺はなんとなくだけど、幽霊と宇佐美は無関係じゃないような気がするんだ」

「…」

「霊感がない俺でもそう感じるんだから…宇佐美はもっとハッキリと意識しているんじゃないかと思ってさ」

 どう?と聞いてみる。

 宇佐美は、茫漠とした感覚を必死にかき集めようともがいていた。だが、もがけばもがくほどそれは無造作に散らばっていく。何かが思考の邪魔をして、それ以上先に進めないように抑え込んでる感じだった。

 忘れなさい、という母の声が——恐らくその枷になっている。

 これを外せば、見えてくるのだろうか?

 そいつの姿が———

 宇佐美は黙って首を振った。

「さすがに正体までは分からないよ…でも、こいつが物凄く執念深くて嫌な奴だっていうのは分かる」

「…」

 車窓を流れる国道沿いの景色をぼんやりと見つめたまま、宇佐美は言った。

「こいつは自分の仕掛けた罠に獲物がかかるまで、ひたすら待つことが出来るんだ。目的を果たすまでずっと——こいつにとっては、それさえも苦痛じゃなくて喜びなんだ。いや、快楽かな?そして執拗に追い詰める。人が苦しむのを…人の死を…見て楽しんでいる」

 そして宇佐美は野崎の方へ振り向き小さく笑った。

「こんなヤツと自分に繋がりがあるなんて思いたくないけど」

「宇佐美…」

 でも、と宇佐美は肩を竦めると「もう後戻りできない気がする」と視線を再び外の景色に向ける。

「俺は罠にかかったんだと思う。いつ殺されてもおかしくないのに、それをしてこないのは…怯えてる姿を見て楽しみたいのか。もがく姿を見たいのか。それとも」

「…」

 宇佐美はゆっくり息を吸い込んで、言った。

「俺の方から動き出すのを待っているのか——」

「———」

 宇佐美は「あのさ…こういうこと言って、また変な誤解されたくないんだけど」と前置きしてから、野崎の横顔に視線を向けて言った。

「もう俺たち関わらない方がいいかも」

 野崎は黙っていた。

「ヤツの目的は多分俺だよ…理由は分からないけど、そんな気がするんだ。二人が襲われた時、アイツ俺のところに来て挑発していった。これから野崎さんのところへ行くぞ、止めれるもんなら止めてみろって」

「…」

「何度も電話をかけたけど、ちっとも繋がらないし。タイミングよく助けられたと思ってたけど、たぶん違う——アイツ、俺たちをからかってただけだ」

 野崎はチラッと宇佐美に視線を投げた。その目を見て、宇佐美は言った。

「次は本気で危害を加えてきたら、俺には野崎さん達を守る自信がない」

「だから関わるのはよそうって?安易だな…」

 野崎は言った。

「お前が言ったんだぞ。もう手遅れだって」

「——」

「今更関係ないふりしたって遅いだろう。お前が罠に嵌ったんなら、俺も白石も一緒だよ。みんな一緒に網の中だ」

「…」

「なら一緒に抜け出す方法を考える方が賢明じゃない?俺たちのことを心配して言ってくれてるのは分かるけどさ」

「…」

「そうやって、なんでも一人で背負いこもうとするなよ」

 宇佐美は黙って俯いた。拒絶されると分かっていたが——でも、不謹慎だが嬉しかった。

 宇佐美はもうそれ以上何も言わなかった。

 車が見慣れた景色の場所まで来た。居住地まであと少し。

 という時。

 ふと、宇佐美はリアシートに何かの気配を感じて、さりげなくルームミラーを覗き込んだ。

 背後で何かがうごめいている。

 それが、例の小さな影だと分かると、宇佐美は思わずハッとなって野崎の方を見た。

 野崎は相変わらず、その影の存在には気づいていない。

(いつからそこにいたんだ?)

 小さな影は、宇佐美が自分に気づいたことを知ると、ゆっくり助手席の方へ身を乗り出してきた。

「——!?」

 宇佐美は思わず身を固くした。影が膝の上に乗ってくる。

 熱は感じないが、不思議な重さは感じた。

(嘘だろう、こいつ——何がしたいんだ?)

 隣で固まっている宇佐美の様子には気づかず、野崎は前方を見据えたままだ。

 車がインターチェンジに近づく。

 すると、小さな影が急にダッシュボードに身を乗り出して、しきりに前方を指差した。

 その指が、料金所の方を指しているように見えて宇佐美は、え?という顔をした。

(高速に乗るの?)

 すると小さな影は、そうじゃない!というようにインターチェンジの側道の方を指差した。

(…)

「…あの…」

 宇佐美は小声で言った。

「そっちの道に行ってもらえますか?」

「え?」

 野崎は驚いて宇佐美を見た。

「こっち?でも…」

「お願いします」

「…」

 ナビから外れてしまうが、仕方なく野崎はハンドルを切った。

 車はインターチェンジを回り込んで裏道へ入る。

 この先はホテル街だ。

「——」

 宇佐美は小さな影を見た。すると今度は車を止めるように、必死に手を動かしている。

「あ!ちょ、ちょっとストップ!」

「え!?」

 野崎は慌ててブレーキを踏んだ。

「なに!?どうしたの?」

 ビックリして助手席に目を向ける。宇佐美はじっと前方を見ながら、何かを確認していた。

「大丈夫?具合でも悪いの?」

 心配して聞くが、宇佐美は答えず「ここに停まってください」と言った。

「…え?」

 ホテル街の一角。その路肩に寄って停車するよう指示を出され、野崎は狼狽えた。

「なぁ…具合が悪いなら」

「お願いします」

「——」

 仕方なく、言われるがまま路肩に停車した。

(ひょっとして…のかな…?)

 変な動悸がしてきて、野崎はハンドルを握ったままジッとしていた。

 何か言ってきたらどうしよう…そんなこと思いながら、ちらりと隣に目をやる。

 だが何故か宇佐美自身も戸惑っているように見えた。

(———)

 互いに無言のまま、不思議な時間が流れる。

(なんだか張り込みしているみたいだな…)

 そんなことを考えながら野崎はぼんやり窓の外を見ていると、向かいのホテルの出入り口から、見覚えのある鞄を下げた女が男と一緒に出てくるのが見えた。

 野崎の目が大きく見開かれる。


 なぜ…こんな所に——?


(信子さんたちと、旅行に行ってたはずじゃ…)

「!?」

 急に運転席で身を起こす野崎に、宇佐美は驚いて顔を向けた。

「どうしました?」

「———」

 野崎は答えず、たった今ホテルから出てきた一組の男女を目で追っている。

「知り合いですか?」

 そう聞かれ、野崎は言った。

「お前…知ってたのか?」

「え?」

 なんのことか分からず首をかしげる宇佐美に、野崎は詰め寄るように言う。

「女房の事だ。知ってたのか?」

「俺があなたの奥さんを?知るわけないだろう。顔も見たことないのに」

 そう答えた後、宇佐美は「あの人…あなたの奥さんなんですか?」と聞いた。

「…なんでここに来た?」

「それは——」と言いかけて、いつのまにか姿を消している小さな影を探す。

「何か見えたのか?それとも…なにか感じたのか?」

「…」

「そうなんだろう?だからここに来た」

 宇佐美は黙っていた。間違ってはいないが、今説明したところで信じてくれるかどうか。

「たまたまだよ」

 と宇佐美は答えた。

「たまたま?ここまで誘導しておいて、たまたまだと?」

「なんとなくこっちへ来ただけだ」

「ここに車を止めるのもなんとなくか?本当は何か見たんじゃないのか?正直に言えよ!」

「うるさいなぁ…どうでもいいだろう、そんな事。でも奥さんの浮気現場を見られてよかったじゃないか」

「はぁ?」

「調べる手間が省けたろう」

 野崎は思わず宇佐美の胸倉をつかみ上げた。

「お前ふざけてんのか!?」

「痛てぇな!離せよ!」

 野崎の腕を振り払うと、宇佐美にしては珍しく感情をむき出しにして言った。

「奥さん寝取られて俺に八つ当たりかよ。本当は気づいてたんじゃないの!?」

「——」

 野崎は黙り込んだ。じっと睨みつける野崎の目を、宇佐美も覗き込むようにして睨み返す。

「他に男がいること——本当は気づいていたんじゃないんですか?」

 宇佐美の、あの網膜を通して何かを見るような目。挑みかかる様な鋭い眼差しが、一直線に野崎の胸を突いてくる。

 嘘をつくな。

 正直に言え。

 そう言われているのは自分の方だと——

「…何が分かる…」

「——」

「お前に何が分かるんだよ!」

 野崎に怒鳴られ、宇佐美も思わず声を荒げた。

「見えるんだよ!子供の影が!」

「は?」

「あなたの側にいる、小さい影だよ」

「…」

 困惑している野崎を見て、宇佐美はクソッというように舌打ちする。必死に感情を抑えようとするが、一度堰を切ってあふれ出した言葉は止められなかった。

 宇佐美は言った。

「たぶん——父親はあなただ」

「お前…なにを言ってる?」

「昔、流産したって言ってたけど、その子じゃない。もっと直近で…たぶん2,3年前だ。なにか思い当たることは?」

「…」

「ないなら直接奥さんに聞けよ。浮気相手の子だと思って堕ろしたって言うかもしれないけど…間違いなく父親は」

「やめろ!!」

 怒鳴られて、宇佐美は言葉を切った。

 野崎は肩で大きく息をつき、必死に怒りを抑えているように見えた。

「…降りろ」

 宇佐美は、え?という顔をした。

「いいから降りろ」

 野崎は乱暴に宇佐美を掴むと、ドアを開け車外に放り出した。

「痛ってぇ…なにすんだよ!」

 宇佐美は怒って助手席の窓を叩いた。

「逃げんのか!?ちゃんと向き合えよ!その子は今もあんたの側にいて、自分の事を伝えようとしてるんだぞ!」

 その言葉に、野崎は「うるさい!」と怒鳴った。

「俺には見えねぇんだよ!お前が勝手にそう言ってるだけだろうが!」

「俺のこと信じるって言ったよな?ならこれも信じろよ!」

「——っ!」

 野崎は堪らず助手席の窓を開けると、宇佐美の鞄を掴んで窓から放り投げた。それを顔の前で受け止めて、宇佐美もカッとなる。

「ふざけんなよ!」

 そのまま、走り去る車に向かって自分の鞄を投げつけた。が、それは虚しく弧を描き地面に落ちる。

「二度と連絡してくんな!」



 宇佐美を放り出した後、野崎はきつく唇を噛んだままハンドルを握った。

 どこへ向かおうとしているのか分からない。ただ、闇雲にアクセルを踏み込んでいるだけだった。

 抑えようとしても、涙が込み上げてくる。

 視界が滲んで、野崎は堪らず車を路肩に寄せた。そのまま停車し、ハンドルに突っ伏して嗚咽する。

 悔しさと情けなさで涙が止まらなかった。


 自分は今まで一体何をしてきたんだ…


 がむしゃらに走り続けて、仕事に打ち込んで…結果、家庭を顧みる余裕もなく、出た答えがこれか?

 宇佐美に指摘されるまでもない。

 本当はとっくに気づいていた。

 女友達だと偽って男と会っていたことも。旅行の相手も。メールの相手も。食事の相手も。

 全部——

 野崎は思わず笑ってしまった。

 もう何が悲しくて、何がおかしいのか分からない。

 でも涙がとめどなく溢れてくる。

 声を押し殺して泣き続ける。

 その震える肩に、その時——ふと何かが触れた。

「——!?」

 野崎はハッとなった。

 微かに感じる、手の感触。それも小さな…子供の手だ。

 それが咽び泣く野崎の肩に優しくそっと置かれる。

 まるで慰められているようだった。不思議な温もりまで感じる。

 野崎は、その小さな手が置かれている辺りに、そっと自分の手を重ねた。

 掴むことはできなかったが、確かにのは分かった——

「そうか…」

 野崎は力なく笑った。

「いるんだ…」

 溢れる涙が頬を伝う。

「ごめんな…守ってやれなくて…」

 野崎はそのままきつく目を閉じると、しばらくじっとしていた。


 やがて——


 何かを吹っ切るように野崎は顔を上げると、両手で顔を擦り大きく息を吐いた。

 鼻をすすって、天を仰ぐ。

 何度か深呼吸を繰り返し、目に残った最後の涙を指で拭うと、静かにアクセルを踏んだ。

 車は再び、夜の街を走り出す。

 奴がどこにいるのか分からない。

 でも会える予感はしていた。



 鞄を引きずる様にして、宇佐美はトボトボと歩いていた。

 背後から車の走行音が聞こえて、無意識に道の端に寄る。

 車が横づけされた。運転席の窓が開く。

 野崎だった。

「乗れよ…」

「は?」

 宇佐美は呆れたように笑うと、「正気か?」と呟く。

「さっきの出来事忘れたの?」

「悪かった…謝るよ」

「…」

「すまん…とにかく、乗ってくれ」

 信じられないものでも見るように、宇佐美は運転席に目をやり、言った。

「嫌だって言ったら?」

「それでもいいから乗って」

「…答えになってないんだよ——」

 宇佐美は怒ったように助手席側にまわると、ドアを開けて乗り込んだ。

 車はハザードを出して路肩に停まる。

 溜息をつき、顔をしかめる宇佐美に野崎は言った。

「悪かった。ごめん」

「…」

 宇佐美は黙っていた。

 腹を立てていたとはいえ、自分の態度も大人げなかったと分かっている。

 それにあんな事…怒りに任せて言うことじゃなかった——

 ちらっと野崎の方を見る。暗くて分からないが、恐らく泣いていたのだろう。鼻をすすって顔を背ける。

 傷つけたくないと思っていたのに…結果傷つけてしまったことが辛かった。

 自分と関わらなければ、恐らく知ることはなかったであろう子供の事。妻の口から語られない限りは、永遠に知りえない事実だからだ。

「ごめん…」

「え?」

 ふいに謝る宇佐美を見て、野崎は言った。

「別に…お前が謝る必要はないだろう」

「でも」

「家まで送る」

 有無を言わさず、車は再び走り出す。二人は終始無言だった。

 近くまで来た時、「ここでいいです」と宇佐美はシートベルトを外した。

「前まで送るよ」

「いいよ。ここで」

 野崎に背を向けたまま「ここからは歩いて帰れるから」と、鞄を抱える。仕方なく野崎は車を止めた。

 ありがとう、と言って降りようとする宇佐美を、野崎は「なぁ…」と引き止めて言った。

「その…子供の影」

「?」

「どんな姿してる?」

 宇佐美はじっと野崎を見た。

「今、ここにいる?」

 そう聞かれ、宇佐美は黙って首を振った。

「そう…」

「俺には影にしか見えない…でも多分——女の子だと思う」

 野崎は目を見張ると、泣きそうな顔をした。

「そうか…」

「ごめん。俺にはこれくらいしか…」

 気にするな、というように頷いて野崎は微笑む。

 宇佐美は、走り去る車の姿が見えなくなるまで見送っていた。


 あの人の力になりたい———


 唐突に、宇佐美はそう思った。

 野崎を助けたい。

 彼のために何かをしたい。

「…?」

 小さな手が、そっと自分の手に触れる感触があった。

 宇佐美は見下ろした。

 小さな影が、じっとこちらを見上げている。

「なんだ…君ここにいたのか」

 そう呟くと、深いため息をつく。

「君の事、言っちゃったよ…きっと傷ついてる。どうしよう…」

 後悔したように俯く宇佐美に、小さな影がそっと寄り添う。

「彼を守ってあげて——俺もね。助けてあげたいんだ。あの人の…力になりたい」

 小さな手が不安そうにギュッと宇佐美の手を握る。

 宇佐美は力なく笑った。

「心配しなくても、俺は大丈夫だよ…」

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