第四章・迷動 #3
8月上旬。
日中の暑さを避けるため、三人は日曜日の早朝、車に乗って隣町の河川敷に向かった。
場所は佐々木が焼身自殺を図った現場の対岸にあたる。
白石の運転する車はバス通りから外れ、裏手の道へと進んでいった。
道幅は狭く、人通りはほぼない。
しばらく進むと、「ここからは歩いた方が良さそうだ」と言って、白石が車を止めた。
三人は車を降りると、現場まで歩いていくことにした。
時刻はまだ6時前だが、すでに気温は高い。湿度を含んだ風が肌を撫でていく。
三人は右手に川を見ながら歩いた。
「昔はこの辺り、ホームレスがたくさん住んでいたけど…今はほとんど撤去されているな」
白石はそう言いながら、懐かしそうにあたりを見回した。
「…」
宇佐美は黙って、二人の前を歩いている。
その後ろ姿をじっと見つめたまま、野崎は夏草が生い茂る土手に目をやり、言った。
「来る時期、間違えたかもな」
この土手を下り、河原まで降りていけるのだろうか——
「どっかに河原へ降りられる場所があったはずだよ」
ケモノ道になってなけりゃね…と白石が笑う。
野崎も苦笑した。
宇佐美は、そんな背後の二人を尻目にどんどん先を行く。
(この道——)
歩きながら、自分の心拍数が上がるのが分かった。
初めて来たはずなのに、確かに見覚えがある。
「宇佐美?大丈夫か?」
背後から声をかけられて、宇佐美は立ち止まると振り向いた。
「野崎さん…」
「?」
「俺ここに来たことがある」
「え?」
「夢で見た場所と同じだ」
「マジ?」
白石が目を見張る。
「嘘じゃないよ。俺、ここを歩いてた」
そう言うと、じっと前方を見据える。
夢の中で。
目の前を歩いていた男の後をついていった。
あの男の背中を…
「…」
宇佐美は、ふいに何かに引き寄せられるように、ゆっくりと歩き始めた。
「なぁ——」
「待て」
何か言いかけた白石を制して、野崎は様子を伺った。
宇佐美は黙ったまま、先に進んでいく。
背後にいる二人のことなど、まるで眼中にないようだった。
「あいつ大丈夫か?」
「分からない…けど、ついて行こう」
野崎と白石は、一定の距離を開けたまま、宇佐美の後をついて歩いた。
宇佐美はわき目も降らず、黙々と歩き続けている。
詳しい場所は教えていないはずだが。その足取りから迷いは感じられない。
ハッキリとした目的をもって進んでいるのが分かる。
やがて——宇佐美は夏草が生い茂る土手を降りて行った。
「おいおい…ここ降りていくのかよ?」
「場所、合ってるのか?」
二人も慌ててその後に続く。夏草をかき分け、土手を降りる。河原の方へ向かって歩く宇佐美の姿が見えた。
「お前、場所教えた?」
「いいや、教えてない」
首を振る白石に、野崎はふと不安になって宇佐美を見た。
宇佐美は河原の砂利を踏みしめながら、ある場所まで来ると、ふいに足を止めた。
「…」
じっと俯き、足元を見つめている。
すぐ横を川が流れている。耳の中に入ってくるのは、その流水音だけ。
他は何もない。何も——
「——」
じっと佇んだまま微動だにしない宇佐美を、野崎達は遠巻きに見つめていた。
「あそこだよ…まさにあの場所だ。ウサギちゃん、なんで分かったんだ?」
「井上が案内したのかも…」
野崎の言葉に、白石が一瞬身を固くする。
二人は距離を置いたまま、しばらく様子を伺った。
宇佐美は目を閉じて、周囲の気配に意識を集中していた。
ここに来た時、自然と足が止まったのは、きっとここがその場所なのだろう。
ここで——ここが——井上の最期の場所。
すべてはここから始まった…のか?
その疑問に、答えが返ってくるまで、宇佐美は待つつもりでいた。
(そこにいるのか?)
そう呼びかけてみた。だが返答はない。
(何か言いたいことがあるんじゃないか?伝えたいことがあるんだろう?)
宇佐美は心の中で必死に呼びかけてみる。
(意味もなく人を死に追いやっているわけじゃないんだろう?何か目的があるなら、俺に教えて)
だが、なんの反応もない。
「…」
宇佐美はため息をついた。
そもそも、こんな呼びかけなどしたことがない。いつも一方的に見せられて聞かされて——こっちの都合など、いつだってお構いなしの連中だ。
それでも——宇佐美は諦めずに呼びかけ続けた。
(そこにいるんじゃないのか?俺をここまで連れてきたんだろう?)
川の流れは相変わらず。風もぬるく肌を湿らせていくだけ。
(いるんなら俺に何か見せてよ。何か聞かせてくれ…)
だが、なんの反応もない。
せっかくあの二人にここまで連れてきてもらったのに…
わざわざ休みを合わせて、こんな不確かなことに付き合ってもらって。
(なのに俺は、なんの役にも立ってないじゃないか…)
宇佐美は唇を噛んだ。
力になってやれって神原さんに言われたけど、俺には何もできない。
なんの力にもなれない。
(俺に…彼を助けることなんてできないよ…)
宇佐美は目を開けた。
自分の無力さに嫌気がさして、二人の方を振り返ろうとした——その時。
「——?!」
野崎はふいに、右耳に激しい耳鳴りを感じて顔をしかめた。
「どうした?」
「分からない…急に耳鳴りが」
金属をこすり合わせるような酷い音が右耳を塞ぐ。
辛そうに耳を押さえる野崎に、白石が近寄ろうとして、ふと気になり宇佐美の方へ視線を向けた。
「おい…あいつの様子も変だ——」
「え?」
野崎は顔をしかめたまま、宇佐美を見た。
宇佐美は両手で頭を抱えたまま蹲っている。
「俺の事はいい、行け!」
言われて白石は宇佐美の側に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?しっかりしろ!」
両手で宇佐美の肩を押さえる。
宇佐美は苦しそうに頭を抱えて震えていた。
「どうすりゃいいんだよ」
狼狽える白石に向かって、野崎は怒鳴った。
「殴れ!」
「はぁ!?」
「襲われてるのかもしれないだろう?ほっといたら殺される」
「でも…」
「殴れって言ってたろ?」
野崎はよろめきながら駆け寄ると「いいから殴れ」と、白石の手から宇佐美の体を掴んで引き寄せると、「悪く思うなよ…」と詫びてから、その頬を一発殴りつけた。
——ベランダに出る窓が薄く開いていた。
レースのカーテンが大きく膨らみ、ゆらゆらと波打つ。
自分はそれをじっと見ていた。
冷たい風が徐々に部屋の温度を下げていく。
「母さん?」
ゆっくり、開いている窓に近づいた。
風で膨らむカーテンを両手で抑えて外を見る。
彼女はベランダにいた。傍らには一人の男の姿があった。
どこかで見たような気もするが——思い出せない。
「その人、誰?」
自分の問いかけに、彼女は振り向き寂しそうに笑うと、「そう…尚人にも見えるのね」と呟いた。
「え?」
不思議そうな顔をしている自分を見て、彼女は「ごめんね…」と小さく囁いた。
「寝室から薬を取ってきてくれる?お母さん、今日の分飲み忘れちゃったみたいなの」
「いいけど…そこ寒いから中入りなよ」
「ありがとう。お願いね」
そう言われ、寝室へ薬を取りに走った。
嫌な胸騒ぎがした。
はっきり覚えている。
目を離すな。離しちゃいけない。
お前はそう感じていたはず…
薬を手に戻った時、彼女の姿はもうそこにはなかった。
あの男が、ベランダの下をじっと覗き込んでいる。その姿はまるで、黒く揺れる陽炎のようだった。
その姿が大きく歪み、スーッと霧のように消えた。
ゆっくりとベランダに出る。
自分の鼓動が、鼓膜を破るような強さで打ち付けてくる。
震えているのは決して寒さのせいじゃない。
心臓を掴まれたような息苦しさを感じる。
乱れた呼吸を抑えるように、震える手でベランダの手すりを掴み…ゆっくりと見下ろした———
宇佐美は目を開けた。
見慣れない天井だった。
(ここはどこだ…?)
エンジン音と微かな振動が背中に伝わってくる。
すぐにここが車内だとは理解できず、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
僅かに体を動かす。
その気配で、運転席の白石と助手席の野崎が同時に振り向いた。
「気が付いたか?」
「あぁ…よかったぁ」
車は近くのコンビニの駐車場に停車していた。
宇佐美がリアシートから身を起こすと、頬に当てていた保冷剤が足元に落ちる。
痛みが走って、宇佐美は思わず頬を押さえた。
「なんか…痛ぇ…」
「ごめん。手加減したつもりだったけど」
顔をしかめる宇佐美に、野崎は詫びた。
「あれって手加減してるっていう?」
白石に言われ、野崎は「しょうがないだろ」と嘯いた。
「あのくらい思いっきりやらないと意識とばねぇもん」
「可愛そうに…腫れちゃってるじゃん」
ちゃんと冷やしときな、と言って、白石は保冷剤を宇佐美の頬に優しくあてがった。
「ごめんな」
「いいよ、殴れって言ったの俺だし…」
申し訳なさそうに自分を見る野崎に、宇佐美はそう言った。
「何があった?」
野崎は聞いた。
宇佐美は頬を擦りながら、殴られる直前の記憶を必死に手繰り寄せた。
「なんとなく気配は感じた。だからずっと呼びかけていたけど…まったく反応してくれなくて…」
「…」
「もう無理かもって諦めて振り返ったら——」
宇佐美は野崎の目を見て、言った。
「そこにいたんだ」
「…」
「目の前に。黒い影が…」
宇佐美はそう言うと、ブルッと身震いした。
「あれは…井上じゃないと思う」
野崎と白石は、え?っという顔をした。
「あの影は井上じゃない。もっとなにか…別の——」
両腕で自分を抱くように宇佐美は身を縮ませると、「暗い思念だ…」と呟いた。
「たぶん井上も…犠牲者の一人だよ」
野崎と白石は顔を見合わせる。
「彼は自分を襲う幽霊の存在を知ってた。そいつが…自分を死に追いやろうとしていることも」
だから…
宇佐美はそう言って、野崎に視線を向ける。
「生きることに絶望して、死を決意した時——自分に付きまとうヤツも道ずれにしようとしたんだ」
あの場所へおびき寄せた——が。
「結果、死んだのは井上一人だったけどね」
「…」
「…」
三人はしばらく無言のまま、カーステレオから聞こえてくるパーソナリティの陽気な曲紹介を聞いていた。今この場の雰囲気には似つかわしくない、サマーソングが流れてくる。
このまま海岸線を走りたい気分だったが…野崎はラジオを消すと、腕を組んで言った。
「じゃあ元凶は他にいるってことか…」
「そうだと思う」
「なにか…手がかりないの?」
白石がそう聞くと、宇佐美はしばらく黙っていたが、いつだか図書館で感じた事を話した。
「水のイメージを強く感じたんだ。それで調べてみたら、自殺や不審死は、川の流れに沿って起きてる…」
二人は黙って宇佐美の言葉を聞いていた。
「太い河川から、細い支流へ…暗い思念が、血液みたいに、水の流れに沿って広がっていくように見えた」
野崎はじっと宇佐美の横顔を見ている。
「地図を見ると分かるよ…川の流れはまるで——毛細血管みたいだ」
「だから川沿いで起きた焼死について聞いてきたのか」
宇佐美は頷くと、「夢のことがすごく気になったし、同じような焼身自殺で——しかも繋がりのある人が関わっているって知ったから…」と言いながら白石を見る。
「てっきりこいつだと…でも違ったみたいだ」
宇佐美は俯くと、「ごめんなさい」と謝った。
「なに謝るんだよ」
「だって…せっかく休みを合わせて、わざわざ付き合ってくれたのに——俺…なんの役にも立ってない」
「そんなことない」
「そうだよ、気にするなって」
白石はそう言うと、優しく宇佐美の肩を撫でた。
「でも——」
「ほっぺた腫らしてまで力になってくれようとしたんだから、十分だよ」
そう言いながら宇佐美の頬に触れる。その手を野崎はやんわりと除けると、たしなめる様に白石を睨みつけて言った。
「井上じゃないなら、他の可能性を探ればいいだけの話だ。宇佐美の言うように、川の流れに沿って起きていることなら、もっと上流へ遡って調べればいい。だろう?」
宇佐美は野崎を見た。
不甲斐ない気持ちで泣きたくなったが、野崎の目を見ていると不思議と気持ちが安らぐのを感じた。許されているような安心感だ。
目には見えないものは信じないと言ったのに…
なぜこの人は、ここまで自分を信じてくれるんだろう——
「ともかく、いったん仕切り直そう」
「だな…」
そう言うと、白石はアクセルを踏んだ。
「そういやお前、耳鳴り治ったの?」
「あぁ…いつのまにか治まってた」
何だったんだ?という顔をして二人は首をかしげる。
宇佐美はそれを黙って聞いていた。リアシートに体を預けて車窓に目を向ける。
頭の奥に、何かが燻っていた。
それを形にしようとするが、うまくまとまらずに消えてゆく。
イライラして、何度も姿を捕えようとするのに、掴むことが出来ない。
もどかしい——もどかしい——
俺は知っているはずなのに…
「このままドライブでもするか」
「いいね、朝飯食いに行こうぜ」
盛り上がる二人とは対照的に、宇佐美は物憂げな面持ちで流れる景色をぼんやり眺めていた。
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