第四章・迷動 #2

 アパートの容疑者が焼身自殺を図ってからひと月が過ぎた。

 事件は被疑者死亡のまま、若干不審な点は残しつつも捜査は終了。野崎達は、新たに発生した事件に日々忙殺されていた。

 その日。

 宇佐美は警察署の談話室にいた。

 7月上旬。例年よりだいぶ早く梅雨明けしたが、開けた途端真夏のような日が続いている。

 節電の為なのか。署内はあまり冷房が効いておらず、談話室も例外ではなかった。開け放した窓からは、僅かだが風が入り込む程度だ。

 宇佐美が何となく所在なげに椅子に腰かけていると、ふいにノックと共にドアが開いた。

「ゴメン、待たせた」

 野崎がそう言いながら入ってくる。

 時折メールでのやり取りはしていたが、こうして顔を合わせるのは公園で会って以来だった。

 久しぶりに互いの姿を見て、妙に気恥しい思いがする。

「元気そうだな」

 そう言われて宇佐美は肩を竦めた。

「まぁね。あなたは…少しやつれた?」

 以前にはなかった無精ひげをからかうように宇佐美は言った。野崎は笑った。

 笑いながら、背後にいるもう一人の男を振り返って言った。

「紹介するよ。同僚の白石だ」

 そう紹介され、白石は軽く会釈をする。

 野崎よりやや細身で長身の、優男といった風貌だ。年は野崎と同じくらいだろうか。

「どうも、白石です。以前ここでチラッとお姿を」

「どうも…」

 緊張のため、若干警戒気味の宇佐美に、野崎は「安心していいよ。こいつは神原先生のことも知ってるし、俺たちの事情も知ってる。宇佐美のことも——話してある」と言った。

「…」

 じっと自分を見る宇佐美の視線に、白石は苦笑すると、「そんなに見つめないでよ、ウサギちゃん」とからかった。

 慌てて俯く宇佐美を見て、野崎は白石を小突いた。

「そういう言い方するな」

「だって…」

 野崎に諌められ、おどけたように首を竦める。

 野崎と白石は、宇佐美と対面するように椅子に座った。

「メールで聞かれた件、調べてみたよ」

 野崎はそう言うと、手帳に書きつけた内容を見て言った。

「佐々木以外に、あの河川周辺で焼身自殺があったかどうかってことだけど——」

「…」

「ずばり一件ヒットした」

 野崎は白石と顔を見合わせ頷いた。

「俺がまだ、ここの所轄に配属される前の事案で、約7年前だ。場所は今回の現場の対岸。管轄は隣の市になるけど、死んだのはうちの管轄の人間だった」

「実は俺が通報を受けて、最初にその現場に駆けつけてる」

 そう白石が言った。宇佐美は思わず目を見張った。

「そうなんだ——すっかり忘れてたけど、聞かれて思い出した。当時、俺は隣町の署に勤務してたんだ。確か早朝だったな…通報を受けて行った時にはもう死んでて、手の施しようがなかった…」

 白石は腕を組みながら、当時のことを思い出している様子だった。

「死んだのは井上和哉、当時37歳。調べによると、市内の戸建てに母親と二人暮らし」

 野崎は調書の一部を書き写したものを読み上げた。

「父親は幼い頃に失くしていて、ずっと母子家庭だったらしい。母親は体が悪くて、井上が世話をしていたようだ。いわゆるヤングケアラーってやつかな?」

「…」

 宇佐美は黙って聞いていた。

「自殺を図る少し前に、母親が亡くなってる。死因は急性心不全。解剖したようだけど、特に不審な点はない」

「ようやく親の世話から解放されたってのに…後を追ったってことかな?」

「——」

 野崎は、ずっと俯いて黙り込む宇佐美の表情が少し気になったが、気づかぬふりをして言った。

「長いこと介護をしていると、その対象者がいなくなった途端、生きがいを失くして抜け殻みたいになるらしい。恐らく…井上もそんな感じだったんじゃないか?」

「…」

「生活のために必死で働いて、母親の面倒を見て…それがいなくなって働く気も失せて…引きこもって」

 調書には、井上の自宅の様子が記されていたが、室内はゴミだらけ、電気もガスも止められており、銀行口座には数千円しか残っていなかったとある。

 そんな男が孤独に耐え切れず死を選んだ——


 そいつが?

 そいつが一連の事件を引き起こしている、幽霊の正体なのか?


 野崎はずっと黙っている宇佐美を見て言った。

「どう思う?」

 宇佐美は黙って視線を向けた。

「宇佐美が夢で見たっていう、その男——彼だと思う?」

 目の前で、黒煙を上げながら燃えて崩れ落ちた男の姿を思い出して、宇佐美は身震いした。

 口から放たれた絶叫が、今も轟音になって聞こえてくる。

 ちなみに…と言って、野崎はスマホの画面を宇佐美の方に向けて言った。

「これが井上の顔写真だけど」

「…」

「どうかな…似てる?」

 宇佐美はじっとスマホの画面を見つめた。

 暗い目をした男だ。いつ頃撮影したものか分からないが、37という年齢にしては老けて見えた。

 病弱な母親と二人きり。家と職場の往復で、人生を費やしてきた。行政を頼ることもできたのに、それもせず。世界を閉ざして引きこもっていた。


 絶望の果てに死を選び——その恨みを川に流したか?


 宇佐美は首を振った。

「分からない…顔は見てないから」

「そうだったな…」

「でも雰囲気は似てるかも」

 駅や橋の犠牲者たちと、自分を襲ったものが同一だと断言はできないが、この男から漂う暗い雰囲気は非常によく似ている。

「でも…もし仮にこいつが幽霊の正体だとして——こいつの姿を見て死ぬなら、写真見て、顔を知った俺たちはどうなるの?まさか殺されるの?」

 白石の疑問はもっともだった。

 姿を見て死ぬなら、正体を知った時点で消されそうだが…

「俺たちは襲われてないし、宇佐美も姿は見ていない。まだこいつだと、決まったわけじゃない」

「じゃあ断定したら?どう立件する?」

「それだよなぁ…」

 野崎は頭を抱えた。

 そもそも死んでいる人間で、しかも確たる証拠もない。

「こいつが死んだのが今から7年前。その間に、こいつが原因で死んだ人間がいたとしても、すでに自殺か不審死で片が付いてる」

 現実には立件不可能。でも放っておいていいものか——

「成仏させてみたら?」

 白石の提案に、野崎は思わず笑った。

「だって、幽霊だろう?それしかなくねぇ?」

「そうだけど」

 野崎は、黙っている宇佐美を見て言った。

「これだけのことをしでかす奴なんだから、なにか相当な恨みを持っているんだろう…世間に対してなのか、何に対してなのかは分からないけど」

「——」

 宇佐美は黙っている。

「放っておいたらきっとまた同じような不審死があるかもしれない。けど、迂闊にかかわって危険な目に合うなら…いっそ、ここらで手を引いた方が無難かも——」

「…」

「どう?そう思わない?」

 聞かれて宇佐美は視線を向けた。野崎の目が不安に曇っている。

「お前はまだヤツの姿をハッキリ見ていない。今ならまだ引き返せるんじゃないの?」

「俺の事…心配してくれてるの?」

「そりゃ——」

 言って、野崎は少し照れたように笑った。

「これで死なれたら夢見が悪い」

 その言葉に宇佐美は微笑を浮かべた。

 が。すぐに真顔になると、静かに首を振った。

「残念だけど…たぶん手遅れだよ。俺たち——」

 そう言って、目の前にいる野崎と白石、両方を見て言った。

「もう目をつけられてる」


「え?」

 野崎と白石は、思わずそう聞き返した。

 談話室の中は無風状態で、堪らず白石は席を立つと、窓を閉めてエアコンをつけた。

 冷たい風が汗を乾かしていく。

「手遅れって…どういうこと?」

 野崎がそう聞くと、宇佐美は言った。

「ヤツは俺の存在に気づいてる。こっちが無視しても、多分放っておいてはくれないと思う」

「俺たちってことは、俺も?」

 そう聞く野崎に、宇佐美は頷いた。

「俺を通して、たぶん野崎さんの存在にも気づいてる。同様に——」

 宇佐美は白石に視線を向けると、言った。

「もし幽霊の正体が井上なら、あなたも関わってる」

「なんで?だって今まで何ともなかったぜ?!」

「俺と今こうして繋がったことで、紐づけされたと思う。現場に最初に駆けつけたのが野崎さんの同僚なんて…都合がよすぎる」

 白石は息を飲んだ。

「偶然じゃないよ、きっと」

「マジか…」

 白石はそう呟くと、ブルッと身震いした。

「嘘だろ…なんか——寒い」

「エアコンつけたからだろう?」

 野崎の冷静な突っ込みに、白石は顔をしかめた。

「俺はただ情報提供しただけだぜ?幽霊のことなんて、これっぽっちも考えたことないのに」

 白石はそう言うと、何もない空中に向かって主張した。

「俺は何もしないから。君に危害を加えたりしないよ。ねぇ、聞いてる?」

 野崎と宇佐美は顔を見合わせて笑った。

「そうか…じゃあ無視するって選択肢はなくなったな。かくなる上は成仏か?」

「俺は除霊なんかできないよ」

 宇佐美がそう言うと、「エクソシスト呼ぼうぜ」と白石が言った。

 その言葉に野崎は笑った。

「あれは悪魔祓いだろう?」

「悪魔みたいなもんだろうが」

「幽霊が気を悪くするぞ。呼ぶなら坊さんだよ」

 野崎と白石のやり取りを、微笑まし気に見ていた宇佐美だったが、ふと何か思いついたように言った。

「彼と接触してみようかな…」

 え?というように二人は宇佐美を見た。

「そんなことできるのか?」

「さぁ…やったことはないけど」

 宇佐美は首をかしげたが、でも——と呟いて、言った。

「相手の素性が分かれば可能かも」

「おぉ、凄いな」

 驚く白石に対して、野崎は心配そうな顔をして言った。

「でも、そんなことして危なくないか?」

「どうかな…」

「変に刺激して、この前の痣より酷い目に遭ったらどうすんの?」

「その時は守ってよ」

 甘えたような目を向ける宇佐美に、野崎は思わず黙り込んだ。その様子を見て白石はニッと笑う。

「俺の様子が変だと思ったら、ぶん殴ってでも意識を飛ばしてほしい」

「それで…平気なのか?」

 多分——と曖昧な返答をする。野崎は眉間を寄せたまま、不承不承頷いた。

「彼の思念が一番強そうな場所に行きたい」

 そう言われて野崎は言った。

「井上の実家は既に取り壊されている。あるとしたら、ヤツの墓か…自殺現場か」

「現場なら俺が案内できる」

 俺も一緒に行くよ、と白石は宇佐美に笑いかけた。

 野崎が驚いたように目を丸くする。

「お前、幽霊NGじゃないのかよ?」

「市民を守るのが俺たちの役目だ」

 こいつ——

 野崎は呆れた顔をして、机の下で白石の足を蹴っ飛ばした。

「痛て!」

 そのまま肩に腕をまわし、宇佐美には背を向けるようにして白石の耳元で囁く。

「手、出すなよ」

「…あいつ可愛い」

 野崎は白石の脇腹に軽く拳を入れると、宇佐美の方を振り返って言った。

「現場を見に行く算段が付いたら、また連絡するよ」

「え?あ…はい」

 宇佐美は、目の前のやり取りに一瞬呆気にとられたが——大して驚いた様子もなく、じっと二人の男を見比べている。

 その口元に、微かな笑みを浮かべたまま。



 その日の帰り。

 野崎はショッピングセンター内にあるクリーニング店へ、仕上がったスーツとワイシャツを取りに行くついでに、ふらりと本屋に立ち寄った。

 学生時代はよく漫画雑誌を読んでいたが、大人になってからはあまり読まなくなった。

 グラビア雑誌なども、余程気になるものでなければ手に取ることはない。試験絡みの参考書などはよく買っていたが、小説も最近はあまり読まなくなった…

 本屋に来るなど、本当に久しぶりだ——

 野崎は、ゆっくりと店内を歩き回った。

 実用書などが置かれているエリアを通り過ぎ、趣味や実益、占いやオカルトなど…普段はあまり手に取ることのない本が並ぶ棚の前に来る。そしてふと足を止めた。

 除霊の仕方——と書かれた本が目に留まる。手に取り、何となくページをめくった。

「…」

 真剣な目でページをめくっていると、「あら、こんばんは」と声をかけられて、野崎は視線を向けた。

 眼鏡をかけて、髪を一つに束ねた小柄な女性が、にっこりと微笑んでいる。

 彩子の友人で、よく一緒に旅行や食事に行く仲間の一人だ——名前は確か…信子のぶこさん…だったかな?

「あ、どうもこんばんは」

 野崎は慌てて手にしていた本を、さりげなく手元に伏せた。

「こんな所でお見掛けするなんて…今お帰りですか?」

 えぇ、まぁ…と頷きながら、「いつも妻がお世話になっております」と頭を下げる。

 いえ、とんでもない、と信子は人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「ご主人も、いつもお忙しそうで——大変ですね」

「——」

 野崎は苦笑して俯いた。

 当たり障りのない挨拶をして、そのまま立ち去りかけた信子に、野崎はふと「箱根、いいお天気で良かったですね」と言った。

「え?」

 信子は振り向いた。何のことか分からず、キョトンとした顔をしている。

 その表情を見て——野崎はゆっくりと笑みを浮かべた。

「あぁ…すみません。信子さんたちじゃなかったのかな?」

「…」

「てっきりそうだと思ってて。ごめんなさい」

「——」

 信子は一瞬、何かマズいことをしてしまったかな——という顔をした。

 野崎は気にしていない風を装い、手にしていた本を棚に戻すと、「失礼します」と言ってその場を立ち去った。

 信子が不安そうに、店から出て行く自分の背を見送っているのが分かる。


 妻に友人に、妙な鎌をかけてしまったな…


 でも仕掛けた鎌が、見事に跳ね返ってきて自分の喉元に命中した。そのことを感じて、野崎は唇を噛んだ。

 今回は他のメンバーと行ったのかもしれない。

 きっと自分が知らない他の友人がいるのだ。

 必死にそう思おうとした。

 しかし一度胸にできた波紋は、さざ波のように広がっていき、抑えることはできなかった。


 ちゃんと向き合え…

 目を反らすな。


(そんなこと分かってる——!)


 野崎は乱暴に車のドアを閉めると、勢いよくショッピングセンターの駐車場を後にした。

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