第四章・迷動 #1

 朝靄あさもやにけむる川沿いの道を、宇佐美は足早に歩いていた——

 足音以外は何も聞こえない。

 すれ違う者もいない。

 目の前を歩く男と、自分以外は誰も…

(これは夢?)

 前を歩く男の後を、宇佐美はついていった。

 歩きながら、男が背後を気にしているのが分かる。背中に走る緊張感が、周囲の空気を震わせているからだ。

 自分たちを取り巻く空気が、徐々に張りつめてゆく——


 ふいに——目の前の男が立ち止まった。

 宇佐美も足を止める。

 男がゆっくりとこちらを振り返った。

 だが、顔が見えない。黒いシルエットだけがユラユラと揺れている。

(——!?)

 宇佐美は思わず後ずさりした。

 振り向いた男の体から、陽炎のような黒い炎が湧き出てくる。

 それが突然、激しい黒煙を上げて一気に燃え上がった。

 目の前で男が大きく口を開け、轟音のような絶叫をあげる。

 それを見て、宇佐美も声を上げた。

「うわぁぁぁぁぁ———!!」


「———!!」

 宇佐美はベッドから跳び起きた。

 枕元でスマホのアラームが鳴っている。

 が…

 自分の目を覚ましたのは、自分自身の絶叫だと気づいて、ゆっくりと項垂れた。

「はぁ…はぁ…」

 激しく息をついて、両手で顔を覆う。

 夢だと分かっているのに、体の震えが止まらなかった。まるで今、その現場を見てきたような感覚だ。

 目の前で、男が燃えていく姿を。

(…あんな現場を見に行くからだ)

 わざわざ雨の中、行く必要などなかったのに——どうしても行かずにはいられなかった。

 を連れてきてしまったんだろうか?

 でも…何か違うような気もする。

 アパートの容疑者ではない感じがした。もっとも、宇佐美は容疑者の姿も何も知らないから、ハッキリと断言はできないが。

 スマホを手に取りアラームを止める。そして、メッセージの着信があるのに気が付いた。

 野崎からだった。


 >少し話がしたい。これに気づいたらでいいので連絡ください。


 着信は3時間ほど前だった。

 宇佐美は時計を見た。もう午前9時を回っている。


 >すみません。今気づきました。


 宇佐美は返事を返したが、なかなか既読がつかない。なんせ昨日の今日だ。忙しいのだろう…そう思い、宇佐美は焦らず待つことにした。

 その野崎からようやく返信が来たのは、もう夕暮れ時だった。


 >遅くなってすみません。昨日現場で姿を見たけど、近くに住んでるの?


 宇佐美は

 >歩いていけないことはないかな。

 と返す。


 >今、あの現場近くの公園にいる。来られそう?


(今…?)

 宇佐美は時計を見た。じきに17時になる。日が高いのでまだ充分明るいが…


 >行きます。


 それだけ送ると、外に出る。雨は朝から降ったり止んだりだったが、今は幸い止んでいた。

 遠く西の空が明るい。明日は晴れそうだ…そんなことを考えながら、河川敷の方へ向かって歩く。

 野崎の指定したその公園は、飛び降りがあった橋より更に上流にある。

 大きな遊具や、多目的グラウンドなどもある公園で、休日ともなると大勢の家族連れで賑わう場所だ。桜の時期もきれいだったが、新緑の今も気持ちが良い。

 宇佐美は敷地内に入り、子供たちが遊ぶ遊具を脇に見ながら河川敷の方へ向かった。

 夕べ、あの現場を見ていた土手の上に立つ。

 男が自らに火を放った現場は、敷地より更に河川の方へ降りた場所だった。

 その辺一帯は草に覆われていて、正直、何か起こらなければ誰にも気づかれることはない。

 今は現場にブルーシートと規制線の黄色いテープが張られていて近づくことができなくなっている。

「意外と早かったな」

 そう声をかけられて宇佐美は振り向いた。

 野崎が笑って、手にしていた缶コーヒーを1本、投げて寄越した。

 宇佐美は慌ててキャッチする。

「あっちにベンチがある。そこに座ろう」

 二人は連れ立って近くのベンチに腰を下ろした。

 ジャケットを脱ぎ、ノーネクタイのワイシャツの第一ボタンを外して、ベンチに浅く腰掛ける。野崎は缶を開けて一口飲んだ。そしてくたびれたように項垂れる。

 宇佐美は、その様子を隣に座ってじっと見つめた。

「平気ですか?」

「え?」

「寝てないんじゃない?」

 野崎は笑って言った。

「仮眠は取ってるから大丈夫」

 そうは言ったものの…襲い掛かる疲労感に打ちのめされるように、野崎はため息をつく。

「参ったよ…せっかく意識が戻ったのに」

「…残念でしたね」

「どう思う?」

 ふいに聞かれて宇佐美は「え?」と言った。

「ただの焼身自殺だと思う?」

 宇佐美は黙っていた。缶を開けて自分も一口飲む。

 嫌な予感はあった——でも確信を持っていたわけじゃない。もしかしたらそうなるかも…という漠然としたものだ。

 宇佐美は「さぁ…どうだろう」と曖昧に言葉を濁した。

 遊んでいた子供たちが帰り支度を始めている。日が伸びたとはいえ、じき18時だ。

「話って、これだけですか?」

 宇佐美に聞かれて、野崎は顔を向けた。

 何となく不安げな表情が見て取れる。少し言い淀んでいたが、宇佐美の視線に促されるように野崎は言った。

「君は…そいつを見ていないんだよな?」

「幽霊を?えぇ」

「本当に?」

「——」

 なにか言おうとした宇佐美を、野崎は慌てて遮って言った。

「いや、分かってる!嘘をついているとは思ってない。本当に見てないならそれでいいんだ」

 っていうか…と、野崎は呟くと、「見てなくてよかった…」と頷く。

「姿を見た奴がみんな死んでる」

「…」

 宇佐美は黙り込んだ。

「目撃者は消せ、じゃないけど——もしそんな法則があるなら次は…」

 野崎はそう言うと、思わず苦笑した。

 自分が言っていることが、いかに非現実的か。

 でも、もし当たっていたら次は宇佐美の番だ。

「本当に見てないんだよな?」

「大丈夫。見てないよ」

 まっすぐに、自分を見てくる。あの網膜を貫くような強い視線。その目に、嘘はなさそうだった。

「そうか…よかった」

 野崎は心底ホッとしているように見えた。

(もしかして…心配してくれていたのか?)

 大事な目撃者——というより、現実では殺人の容疑者だ。その男が死んで、現場はきっと大変だったろう。

(俺の心配なんかしてる場合じゃないだろうに…)

 安心した様に笑う野崎を見て、何故だか、ほんの一瞬胸が痛んだ。

「わざわざ呼び出してごめんな」と野崎は言った。

「なんかさ…誰かと話がしたくて——でもこんな話、他の人にはできないし。そう思ったら、急に宇佐美のことが頭に浮かんで」

「…」

「思わず呼んじゃった…」

 野崎は照れたように頭をかく。

「でも、来てくれてありがとう」

 宇佐美は一瞬言葉に詰まり、すぐには何も言えなかった。


 この人は———

 なんでこんなに真っすぐなんだろう…


 意地っ張りでプライドが高そうだけど、でも基本的には素直で真っすぐな人なんだ。

 自分なんかより、はるかに地に足の着いた仕事をして、責任感もあって、人に信頼されて…

 一緒にいると、劣等感でいっぱいになりそうなのに…

(ありがとうなんて…俺は言われるような人間じゃないのに)

 宇佐美は答える代わりに黙って微笑んだ。


 空き缶を捨てるため自販機まで歩いている途中、宇佐美はふと、前を歩く野崎の足元に小さな黒い影が寄り添っていることに気が付いてハッとした。

(アイツだ——)

 いつだったか、野崎と入ったコーヒー店で見た。初めは猫かと思ったが、こうしてよく見ると、やはりそれは小さな子供のようだ。

 野崎が手に持っているジャケットの端を握って、一緒に並んで歩いている。

「…」

 宇佐美は無言でその様子を見つめていた。

「飲んだ?缶、捨てるよ」

 野崎が自分の方へ手を差し出していることに気づかず、宇佐美はじっと小さな影を見ていた。小さな影は、差しだされている野崎の手に向かって、必死に両腕を伸ばしている。まるで抱っこをせがんでいるようだ。

「おーい」

 呼びかけられて、宇佐美はハッと我に返った。

「大丈夫?何か見えるの?」

「え?あぁ…いや、なんでも」

 ないよ——と呟いて、周囲を見回す。

(あれ?消えた…?)

 野崎は宇佐美の手から空き缶を取るとゴミ箱に捨てた。

「あ、ごちそうさまです…」

 慌てて礼を言う宇佐美に、野崎は「君といると退屈しないよ」と苦笑いを浮かべた。


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