第五章・揺心 #1

 週明け。

 比較的大きな事件も揉め事もなく、日中の業務を終えた野崎と白石は、河川を遡って過去の事件や事故を調べてみることにした。

 退勤時刻になり、当直勤務以外の人間が出払ったのを見計らって、二人は署の資料室へ行った。

「お前、今日当直だっけ?」

「変わってもらった」

 資料室の明かりをつけて、白石が言った。

「別に俺一人で調べるからいいのに…」

 野崎がそう言うと、「俺だってウサギちゃんの力になりたいもん」と白石は口を尖らせた。

「あのさぁ…」

 年代別に分けられたファイルの棚の間を、ゆっくりと歩きながら野崎は言った。

「協力してくれるのは助かるけど、あいつに変な気起こすなよ」

「彼、可愛いな。想像以上にタイプなんだけど」

 棚の影からひょっこり顔を出す白石に、野崎は呆れたように言った。

「パートナーがいるんだろう?」

「…」

 そう言われて、白石は黙って俯く。

 過去の事件や事故のファイルを手に取りながら、小声で呟いた。

「最近うまくいってないんだ…」

 え?と野崎は視線を向けた。

「そうなの?」

「たぶん…浮気されてる」

「——」

 野崎は黙って書類の棚の間を移動した。年代の古いものをいくつか手に取り、パラパラとめくる。

「そうか…」

「しかも相手は女だぜ、信じられるか?」

「…」

 野崎は何とも言えず、黙っていた。

「寄りにもよって浮気相手が女ってなんだよ——」

 怒ったようにファイルを机に投げ出して、白石は言った。

「あいつ、ゲイだって言っときながら、バイだったんだ」

「そりゃ気の毒だったな…けど、それ言ったら宇佐美だってゲイじゃないぞ」

「分かってるよ」

 白石はそう言って野崎を見る。

「俺だってノンケに手を出すほど馬鹿じゃないよ。彼は心の観葉植物だ」

「なんだよそれ」

「見てるだけで癒される」

 ははは、と野崎は笑った。

「ウサギちゃん、俺がゲイだって知ってる?」

 野崎は首を振った。

「そういうことは自分の口から言えよ。俺は言わない」

 それを聞いて白石は嬉しそうに笑った。

「俺、お前のそういうとこ好きだなぁ」

 すり寄ってくる白石を、野崎は鬱陶しいなぁ…という顔をして振り払う。

「いいからサッサと調べろよ」

「はいはい」


 午後8時。

 二人は、河川周辺で起きた変死事件を中心に探してみたが、これという手ごたえは感じられなかった。

「管内では気になる事案はもうなさそうだな」

「これ以上川を遡れば管轄外だ。そっちを当たった方がいいかも」

 野崎は地図を見た。

「相模川を源流まで遡ると山梨の方までいくのか…」

「県外だな」

 そこまで遡る必要があるのだろうか?

 じっと考えていた野崎は、思わずブルッと身震いした。

「なんか…寒くないか?」

「エアコンの設定温度、変えた?」

 白石がコントロールパネルを覗く。設定温度は26度のまま変わっていない。

「26だけど」

「そんな体感じゃないな…」

「外の気温が落ちたとか?」

 そう言って、白石が外気の確認をしようと窓に近づいた時、突然——資料室の電気が消えた。

「!?」

 二人は思わず身構えた。

「停電?」

 真っ先に浮かんだのは、署内で何か起きたのか——ということだったが…

 仮に停電だとしても、すぐに予備電力で復活するはず。

「なんでつかないんだろう?」

 白石は署内の異変を感じ取ろうと、じっと耳を澄ましている。

「ただの停電じゃないのかも…」

 野崎はそう呟いた。

 微かにだが、耳鳴りがする——

「なぁ…脅かすわけじゃないけど」

 そう前置きしてから野崎は言った。

「この部屋にいるの…俺たちだけだよな?」

 白石は目を剥いた。

「おい…よせよ。何言ってんの?」

「さっきから、視線を感じるんだ」

 野崎はそう言って、薄暗い資料室を見回した。窓の近くは外の明かりで多少見えるが、光が届かない部屋の奥は真っ暗だ。

 その暗がりに誰かが潜み、じっとこちらの様子を伺っているように感じた。

 これは気のせいだろうか?

「そういうのはやめろよ…俺たち以外いるわけないだろう」

「分かってるけど、感じるんだよ」


 ———と。


「出よう…」

 嫌な予感がして部屋を出ようと、野崎は白石の腕を掴み、ドアノブに手をかけた。

 が、開かない。

「え?」

 ガチャガチャとノブをまわす。

「なにやってんだよ」

 白石が変わってノブを回す。

「なんで開かないんだよ!?」

「鍵は?」

「かかってねぇよ!」

 野崎は振り向いた。

 何かが、ゆっくりと自分たちに近づいてくる気配がした。

「…なにか…来る——」

「え!?」

 白石も振り返った。部屋の奥の暗がりで、何かがゆらっと揺らめくのが見えた。

 それが、周囲の空気を揺らしながら、徐々に二人の側へ近づいてくる。

「嘘だろ…」

 白石は信じられないものを見るような目で言った。

「野崎にも見える?あれ…」

「あぁ…見える…」

 互いに目を見張ったまま、動くことが出来なかった。

 もしかしてこれが…幽霊なのか?

「なぁ…これって、夢じゃないよな?」

「違うと思うけど…」

 被害者たちが見ていたものと同じものなら、俺たち今からこいつに殺されるのか?

「わぁ、ごめんなさい!もう君の事詮索したりしないから!」

 白石はそう言うと、両手で頭を抱えて蹲った。

 野崎は白石を庇うように間に入ると、その黒い影と対峙した。

 生身の人間相手なら何とかなるが、実体がなさそうな相手に何ができるだろう…

「なぁ…あいつに逮捕術って効くと思う?」

「知るか!」

 野崎は苦笑すると、静かに身構えた。

 ゆらゆらと、陽炎のように揺れながら。

 それは暗闇の中から野崎の方へと向かってくる。


 ———!!

 野崎は一瞬目を閉じた。



 ブーン、ブーン、ブーン……

 机に置かれていたスマホのバイブレーションが、室内に鳴り響いた。

「!!」

 野崎はハッとなった。

 ブーン、ブーン、ブーン…っと、それは振動するたびに机を叩き動いている。

 野崎は駆け寄ると、スマホを掴んで画面を見た。

 宇佐美からの着信だった。

「もしもし?」

『野崎さん?大丈夫ですか?』

 開口一番にそう聞いてきた宇佐美に、野崎は思わず笑った。

「なんでそう思うの?」

 宇佐美は、しばらく黙っていたが、『さっき、がここに来て…』と言った。

『すぐに気配が消えた…なんとなくだけど、野崎さんの方へ行ったような気がして——』

「そうか…」

 野崎はため息をつくと、「大丈夫だよ」と言った。

「お前の電話に驚いてどっか行ったみたいだ」

 そう言いながら周囲を見回す。先程までの気配は消えていた。電気もいつのまにか、ついている。

『なにもされなかった?』

「何もされてない」

 そして、背後で怯える白石を見て笑う。

「まぁ…約一名、変なトラウマ出来そうだけど」

 それを聞いて、電話の向こうで宇佐美が笑った。

『もしかして…白石さんも一緒だった?』

「あぁ」

『それは気の毒に』

 二人は笑い合った。

「ともかく助かったよ…ありがとう」

『…』

 宇佐美は一瞬ためらったが、恐る恐る聞いた。

『野崎さん——そいつの姿、見た?』

「…」

 宇佐美の言わんとしていることは分かった。

 姿を見たかどうか。

「ハッキリとは見てない。黒い…陽炎みたいだった。影かな?」

『そう…』

 宇佐美が何か言い淀んでいるように感じた。

 その気持ちが何となく伝わり、野崎は先手を打った。

「宇佐美のせいじゃないから気にするな」

『野崎さん…』

「お前も言ったろ。俺たちも関わってる。今のでそれが証明されたよ」

『…』

「乗り掛かった舟だ。今更下船できない」


『行ける所まで行くしかないよ』

 電話の向こうのその言葉に、宇佐美は小さく頷いた。

『また連絡する』

 そう言って通話が切れた。

 宇佐美はしばらく、通話の切れた画面をじっと見つめていた。

(あいつ…)

 何故わざわざここへ姿を現したんだろう。

 直接野崎の元へは行かず、まるでこれから襲ってやるぞ、と予告でもするみたいに。

(挑発してるのか?)

 俺を?でもなぜ?

 宇佐美は、部屋の隅に置かれた小さな仏壇に目をやった。

 そこには、遺影代わりにスナップ写真が飾られている。

 寂しそうに微笑む一人の女性。その目がじっと宇佐美のことを見ている。

「…」

 心配そうに自分を見るその目に、宇佐美は「大丈夫だよ」と言って笑った。


「心配しないで——」



 8月下旬。

 この日も日中は35度を超える猛暑日だった。

 今年の夏は気温が高く、降水量は少ないという予報通り。梅雨明けしてからは雨が降る日はほとんどなく、町は渇水対策のため至る所で節水をよびかけている。

 アパートの事件以降、気になる事故や事件もなく、表面的には落ち着いて見えた。

 とはいえ、日常的な小競り合いや事件は後を絶たない。

 例の件を調べたい気持ちはあれど、目に見える事件に忙殺されてしまう。

 宇佐美と知り合う前は、これが自分の日常だったが…

(奴と知り合ってまだ半年も経ってないのに)

 早くも自分の人生観が変わりつつあることに焦りを感じていた。

 連絡を取りたい気持ちはあれど、関わることをためらう自分がいる。

 スマホのメッセージアプリを何度も開いては閉じる…を繰り返して、野崎はため息をついた。

 スマホが微かに鳴動する。

 メールが一件。

 神原からだった。

 近況を尋ねる内容のメールだ。

 野崎は、宇佐美を紹介された時以来会っていないことを思い出して、早々に返信した。

 幸い今は大きな事件を抱えていない。

 懸案事項もないので、野崎は定時で上がると久しぶりに神原の出版社へ向かった。

 連絡はしておいたので、神原はまだ退社していなかった。

「久しぶりだね」

 そう言って事務所の応接室へ招き入れた。

「ご無沙汰してしまってすみません」

 気にするな、と神原は笑って手を振ると、「色々事件が起きて君も大変だったろう。今は少し落ち着いたようだな」と言って座るよう促した。

「望月さんが帰ってしまったので、申し訳ないが飲み物はこれで」

 そう言ってペットボトルのお茶を差し出す。野崎は笑って受け取った。

「実は、近況は宇佐美君から少し聞いているんだ」

 そう言って向かい合わせに座る神原に、野崎は頷いた。

「彼自身もだいぶ戸惑っているようだった。恐らく、今まで自分の力をそこまで意識したことがなかったんだろうな…」

「俺も戸惑ってますよ…」

 それを聞いて神原は嬉しそうな顔をした。

「宇佐美君の感想は聞いたが、野崎の感想を聞いていなかったな。彼をどう思う?」

 野崎は苦笑した。すぐには答えられず、腕を組んでしばらく考える。

「そうですね…」

 そう呟いてから、「先生の言った通り、【変わった子】だと思いました」と答える。

「あはは、やはりそうか」

 思っていた通りの答えが返ってきて、神原は嬉しそうだった。が、すぐに真顔になると、「でも過去形だな」と指摘する。

 野崎は肩を竦めた。

「もちろん、今でも変わった奴だとは思ってるけど…初めの頃程ではないかな」

「そんなに認識が変わるほど、一緒にいるのかい?」

 そう言われ、野崎は慌てて言った。

「そんな頻繁には会っていませんよ」

「…」

「会ってはいませんけど——」

 神原の視線に促されるように、野崎は言った。

「彼と一緒にいると、何が現実で、何がそうじゃないのか…分からなくなるんです」

「…」

「自分が何を信じて動けばいいのか…」

「彼の力を信じているんだね」

「——」

 野崎は黙った。

 じっと俯いたまま、眉間を寄せている。

 20年以上警察官として現実の世界と向き合ってきた。時には不思議に思うような事件にも遭遇したが、調べれば納得のいく答えが出る。

 仲間内に霊感が強いと豪語する奴もいたが、話だけで実際に霊を見たことなど一度もなかった。

 神原との付き合いでもそうだ。不思議な直感力に驚かされることも多々あったが、それを目の当たりにしたところで、本気で見えないモノの存在を信じたことはない。

 なのに——

「この目で見ました」

「ほぉ…そうか」

 神原は目を見張った。

「早くも人生観が変わりそうで…怖いですよ」

 45の男が、本気で戸惑っている。その様子に神原は黙って頷いた。

 どこかで花火でも打ち上げているのか。

 時折ドーンという音が窓ガラスを振動させる。

 神原は窓辺に寄って外を見たが、この角度からは見えそうになかった。

 それでも諦めず、しばらく遠くを眺めていたが、ふと思い出したように言った。

「宇佐美君は両親を共に自死で亡くしている」

「…」

 野崎は顔を上げた。

「父親は幼少期だと言ってたかな?あまり記憶にはないようだったが…」

「——」

「以来、ずっと母子家庭で育ってきたそうだ」

 音はすれど花火の姿は見えないので、神原は諦めて再び野崎の前に腰を下ろした。

「彼のあの力はどうやら母親譲りのようだ。彼の母親にもそういう能力があったと聞いたよ。彼女はとてもセンシティブな一面を持っていて…でもそれが原因で、夫亡き後、無理がたたって体を壊してしまったらしい」

「…」

「宇佐美君はずっとそんな母親の面倒を見ながら、生活を支えていたようだ。高校時代は学校へ行きながらバイトをして…まるで苦学生だな」

「ヤングケアラーですね…」

 野崎はそう言って、ふと思い出した。

 井上の話をしている時、どこか神妙な面持ちで話を聞いていた宇佐美の姿を——

 奴はあの時、何を思って聞いていたんだろう?

 もしかしたら、自分と井上を重ね合わせていたのでは…

「そんな母親も、彼は8年前に亡くしている。ちょうどその頃だ、私が彼と出会ったのは」



 宇佐美は人ごみの中を歩いていた。

 こうして街の中を歩いていると色々な声が聞こえてくる。その多くは現実の会話だが、時折聞こえてくる——囁くような声。

 それが幾重にも層になって襲ってくる。

『こいつ、マジでムカつく!』

『なんなの?あの子、気に入らない』

『ふざけやがって!一発ぐらいヤラせろよ』

『もういい加減にして!ウンザリだわ…』

『早く死ねよ!』

『死んじまえ』

『死ねばいいのに』

『みんな死んじゃえ…』

『死ね』

『しね』

『シネ』


「———」

 宇佐美は耐え切れず、耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。

(もういやだ…)

 耳を塞いだまま、人の流れの中に埋もれるように身を震わせ蹲る。

 こんな世界から、早く消えてなくなりたい。

 もうこれ以上耐えられない…

 自分の存在など、路傍の石ころみたいなものだ。その証拠に、誰も気にすることなく通り過ぎていくじゃないか。自分一人がこの世から消えたところで、悲しむ人など誰もいない。

(そうさ…誰もいない——)

 ——ふと。

 何かの気配を感じて目を開く。目の前に足が見えた。

 ゆっくりと視線を上げると男が一人、心配そうに自分を見下ろしている。

「大丈夫かい?気分でも悪いの?」

 優しい目をしたその男は、そっと手を差し伸べてきた。

 怯えた目で自分を見上げる宇佐美に、男は「大丈夫だよ」と言った。


 君だけじゃない———と。



「彼は路上で蹲っていた。母親を亡くしたばかりで、精神状態はボロボロだったよ。完全に世界を遮断していて…周囲の人は誰も彼の存在に気づいていなかった」

「…」

「もしあの時、私が彼に気づかなかったら、きっと自ら命を絶っていただろう。そのくらい危うい状態だった」

 野崎は黙って聞いていた。

「彼が不思議な力を持っていることはすぐに分かったよ。私も似たような感覚を持っているからね。でも彼はコントロールを失っていた。母親の死がきっかけだろうが、ありとあらゆる声や気配を感じてしまっていて——あれでは気が変になるだろうと思ったよ」

 神原はそう言って小さく笑った。

「必要に応じて目を閉じること。耳を塞ぐこと。それを上手にコントロール出来るようになれば大丈夫…」

 そう言うと、神原は野崎の顔を覗き込んだ。

「ああ見えて、彼は真面目な男だろう?家庭の事情で進学できなかったが、頭もキレる。しっかりした意見も言うし、文章も書く。ちょうどこの出版社を立ち上げたばかりの頃で、試みにコラムを書かせたら、これが結構評判良くてね」

 神原は笑うと「彼なりの【目には見えない世界】はなかなか面白い。機会があったら読んでみるといい」

 そう言って神原は雑誌を一冊、野崎の前に差し出した。野崎はそれを手に取ると、パラパラとめくった。その様子を見ながら、神原はソファーに深くもたれると、まるで独り言のように呟いた。

「彼は素晴らしい力を持っているのに、それに気づいていない。むしろ恐れている。自分の力は人を傷つけるだけだと…だから人に心を開かない」

「…」

「8年も一緒にいるのに、私は宇佐美君のことをほとんど知らない。彼は自ら語ることもないし、見せてもくれない。この私の力をもってしても知りえない人間がいるとは…驚きだ!」

 そう言って、大げさに両手を広げる神原に野崎は笑った。

「もう気づていると思うが…彼は人の心を読むことが出来る——というより、聞こえてしまうらしい」

「やっぱり、そうですか…」

 野崎は雑誌をめくる手を止めて言った。そんな気はしたが…聞こえない声を聞くというのは、も含めてのことか。

「聞きたくない相手の本音を、無意識とはいえ聞いてしまうのは辛いだろう。良い事ばかりじゃないだろうからな」

「でしょうね…」

 聞かれる方もたまったものではないが、と野崎は思った。でもそんなことがあれば、嫌でも人と関わるのが怖くなるだろう。いくら本音で付き合いたいとは言え、建前が必要な時もある。

 人間関係は本音と建前のバランスだ。

「彼は自分の本心を決して明かそうとしないが、でも私には分かるんだ。彼は変わりたいと願っているんだとね」

「…」

「本当は人と深く関わりたい。人を信じて付き合いたい。誰かを本気で愛したい…とね」

「…」

「自分は一生独りでいいなんて強がっているが、あれは宇佐美君の本心ではないよ」

 笑っているのに、どこか寂しそうに見えたことを思い出す。そっけない素振りをしておきながら、時折甘えたような目で見てくることも。

 急に寄ってきて「おやすみなさい」と挨拶してきた時も…変な奴だとは思ったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 あいつなりに近づきたいと思っていたのだろうか?自分の急な呼び出しにも、文句ひとつ言わずにやってきたし、不満そうな顔をしながらも、協力は惜しまない。

 つかみどころのない、やりにくい奴だと思っていたが——

 何故だか唐突に、宇佐美と会って話がしたいと思った。

 そんな野崎の心境を察したのか、神原は言った。

「彼を救ってくれないか?」

「え?」

「今の野崎になら、きっとそれが出来る」

 野崎はじっと神原を見た。

「ずっと引き合わせるタイミングを迷っていたが、ようやく分かったんだ。今がその時だったんだと。時機到来だよ」

「…」

「彼の本質を見極めて、認めてあげることができれば、きっと最高のアシストをしてくれるはずだ」

「先生…」

「お互い、最高のパートナーになるよ。それは私が保証する。私のプライドを懸けてね」

 野崎は黙ったまま俯いた。

 自分が…宇佐美を救う?彼が変わる手助けをしろってこと?

 黙ったまま、野崎はしばらく手にしていた雑誌をパラパラとめくっていたが、「買い被りすぎですよ」と呟いて苦笑した。

「俺に彼を救う力なんてないです…自分のことだってちゃんと出来てないのに」

 夫婦間の問題を先送りにしている現状が頭をもたげる。

「心を開いてくれない相手を救うなんて…俺にはそんなこと——」

「——」

 じっと自分を見る神原の視線を避けるように、野崎はゆっくりソファーから立ち上がると「でも、努力はしますよ」と言った。

 神原は何も言わず。ただ静かに頷いた。

 それで十分だと思ったからだ。


 無理と言わないところが、この男の良い所だな…


 一礼して去っていく野崎を、神原は黙って見送った。

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