第三章・遭遇 #1

 てん、てん、てん———


 水滴が落ちる音がして、宇佐美は目を開けた。

 室内はまだ暗い。

 スマホを見るとまだ夜明け前だった。

(クソ…)

 なかなか寝付けず、ようやく眠れそうだと感じた寝入り端に、突然叩き起こされたようで、宇佐美は布団を被った。

 てん、てん、てん——と、また水滴の音がする。気づかぬ振りしてこのまま眠ろう…そう思うが、どうにも気になって眠れない。

 再び水滴の音。宇佐美は「うーん…」と唸ると、勢いよくベッドから身を越した。

「…」

 じっと耳を澄ます。

 暫くするとまた、てん、てん、と聞こえてきた。

 どこだ?台所?浴室?

 仕方なく起き上がり台所の明かりをつける。流し台に寄って見るが濡れていない。蛇口も締まっている。

 するとまた、水滴の音が聞こえてきた。

(浴室か?)

 シャワーの蛇口の締め方が緩かったかな?

 宇佐美は浴室の明かりをつけた。

 壁に掛けられているシャワーヘッドを見上げるが濡れてはいない。床も。

(?)

 変だな…というように首をかしげると、どこからかまた水滴の落ちる音がした。


 それは——


 自分の、すぐ背後で聞こえたような気がして、瞬間、体が硬直した。

「!?」

 ——背中が濡れる。

 てん、てん、てん…と上から水滴が落ちてくる。

 雨漏り?

(いや…違う)

 首筋に生ぬるい感触があり、宇佐美は手で触れた。

 その指先が赤く染まっているのを見て、振り向き天井を見上げる。

 そこには一面、真っ赤な血溜まりがあり、赤い水滴がゆっくり糸を引きながらてん、てん、てん——と床に落ちている。

「うわ!」

 思わず声を上げて宇佐美は後ずさった。

 なんだ!?これ——

 後ずさりしたまま、台所の流しで手を洗おうとして蛇口をひねるが水が出ない。

「え?」

 なんで!?

 焦って何度も蛇口を動かすが出てこない。

 どうして?

 水が出てこない!

「———!!」

 宇佐美は目を閉じた。

(落ち着け——!落ち着け——!)

 目を閉じたまま流しに両手を置いて、必死に深呼吸を繰り返す。

(大丈夫——これはきっと幻覚だ)

(大丈夫だから。落ち着け…)

(落ち着け…)


「…」

 何度か呼吸を繰り返すうち、いつのまにか水滴の音はやんでいた。

 代わりに、開いた蛇口から水が出てきて宇佐美は我に返ると、慌てて蛇口を締めた。

 僅かに残るしずくが、ステンレスのシンクを叩く音だけが室内に響く。

 宇佐美はゆっくりと自分の手を見た。

 何もついていない。

 恐る恐る、浴室の天井を見に行くが、やはりなにもなかった。

(なんだったんだ…?)

 夕べ野崎から、凄惨な事件現場の話を聞いたせいだろうか?

 だとしても…

 背中と首筋に感じた、生ぬるい感触——それはまだハッキリと残っている。

「はぁ…」

 宇佐美はため息をつくと、重い体を引きずって、そのままベッドに倒れこんだ。

(ただの夢だ——そう…ただの夢——大丈夫…)

 自分にそう言い聞かせながら——


 いつのまにか、宇佐美は深い眠りに落ちていた。



「大丈夫?」

 そう聞かれて宇佐美はハッと顔を上げた。

 事件現場へ向かう道中の車内。運転席から野崎が心配そうにこっちを見ている。

「夕べ、ちゃんと寝れた?」

「え?なんで?」

「なんか…寝不足の顔してるよ」

 そう言われて、宇佐美は思わず苦笑いした。

 昨夜の出来事はさすがに話せないな…と思い、「寝ましたよ」とだけ答えて窓の外を見る。

 車はかしわ台駅前を通過し、跨線橋を超えてしばらく走る。

 ぼんやりと車窓の景色を眺めながら、宇佐美は聞いた。

「あの…」

「なに?」

 前方を見つめたまま、野崎は聞いた。

「参考までに聞きたいんですけど…殺された女性って——どこ刺されました?」

「え?」

 何故そんなことを聞くのか不思議そうな顔をしたが、野崎は隠さずに言った。

「首と背中です」

「首と…」

(背中——)

 宇佐美は生ぬるい感触を思い出して身震いした。

「首は頸動脈を一突き。多分それでほぼ即死。背中はその後刺されたようで——」

 隣で、目を閉じて俯く宇佐美を見て、野崎は慌てて言葉を切った。

「あぁ、ごめん!こういう話はダメか」

「い、いえ、大丈夫です」

 宇佐美も慌てて手を振る。余計な心配をされたくない。そう思って「今日って、お休みだったんじゃないんですか?」と聞いた。

「休み?」

「土曜日ですよ?」

「あぁ…」

 野崎は軽く笑った。

「残念ながら休みじゃないんだ。一応、週休2日を謳っちゃいるけどね」

「…そうなんだ」

「休みはあるけど、いつも週末ってわけじゃないし」

「お休みの日に連れ出したんじゃなければいいです」

「——」


 車は川沿いの道に入り、しばらく走って、止まる。

「ここです」

 野崎は、道のすぐ脇にあるアパートを指差した。

 宇佐美はジッとその外観を見つめた。2階の角部屋に規制テープが張られている。現場はあの部屋だ。

「ここには停められないから裏に回ります。少し歩くけど」

 野崎はそう言うと、通りを一本奥に入った場所にある路肩に車を寄せて停車した。

二人は車から降りてアパートまで歩く。

「この辺りは静かですね」

「住宅街だけど駅まで距離があるし…ちなみに、駅のホームに飛び込んだ男が住んでいたアパートが、ここから500メートル程離れた所にあります」

 その方角を指差して野崎が言った。

「案外近かったんだ」

「もしかしたら、顔ぐらいは合わせたことがあるかもね」

「でも接点はないんだ?」

「今のところは」

 アパートにつくと、二人はそのまま建物の裏手にまわった。

「あの部屋がそうです」

 野崎に言われ、宇佐美は2階の部屋の窓を見上げた。

 カーテンが閉まっていて内部は伺い知れない。

「本当は中を見せたいんだけど…」

「見張りの警察官とかはいないんですか?」

「巡回をしてる。いつもより重点的に」

 ふぅん…と鼻を鳴らして、宇佐美は周囲の様子を伺った。

 現場の部屋の真正面に立ち、その対角線上にある植え込みを見た。

 その植え込みだけ、並んでいる他のものより色味が悪い。

「こいつだけ元気がない。枯れそうだ」

「…本当だ——気づかなかった」

 他を見るが、明らかに枯れかけているのは部屋の向かいにあるその植え込みだけだ。

「階下に人は?」

「現場の真下は空き室だ。他は埋まっているのに、空いてるのはそこだけ」

「いつから?」

「半年ぐらい前からって言ってたかな?」

「なんで出て行ったの?」

 いやに拘るな、と思ったが「契約更新が切れて、更新しなかったからってだけだよ。今も入居者を募ってるけど…あんな事件のあった階下じゃ、どうかな」と首をかしげる。

 大家にとっては、とんだ災難だ。

 宇佐美は植え込みの葉を触って、その場にしゃがみ込む。

 根元の土に触れて何か考えているようだった。野崎は、相手が一体何をしているのかさっぱり分からず、ただ不思議そうに眺めている。

 宇佐美はしゃがんだまま、視線を部屋の窓に向けた。そして、「あっ」と小さく声を出した。

 その視線に誘われるように、野崎も部屋の窓を見上げる。

 そして思わず「え?」と声を上げた。

 ——部屋のカーテンの向こうに、人影があった。

 それが、スーッと動いて部屋の奥へ消えていく。

「———」

 野崎は呆気に取られてしばらく見上げていたが、すぐに階段の方へ駆け出すと、2階へ駆けあがった。

 部屋のドアには規制テープが張られ、中には入れないようになっている。

 当然、鍵もかけてある。

 確認したが、テープを切った痕跡はないし、鍵もかかっていた。

(どういうことだ?)

 ゆっくりと階段を上がってきた宇佐美は、部屋の前で困惑している野崎を見て言った。

「誰かいましたか?」

 野崎は振り向いて宇佐美を見た。そして静かに首を振る。

「いるわけない…鍵が閉まってる。テープも切れてないし」

「じゃあ誰もいないよ」

「でも誰かいた。見た——よな?」

 そう問いかけてくる野崎の目を、宇佐美はじっと覗き込んだ。

 そして、言った——

「そうか…野崎さんにも見えたんだね」

「え?」

 それどういう意味?と眉を寄せる。

 が、宇佐美は答えずに周囲を見回すと、「もう行こう」と言った。

「これ以上ここにいても何もなさそうだ」

「でも…誰か中に——」

 考えをまとめようと必死になっている野崎を見て、宇佐美は「うん。」と頷く。

 そして困惑している野崎を静かに促した。

「どこかで少し休みませんか?」

「…」

「おなかも空いたし。何か食べよう」

 促されるまま野崎は階段を降りると、もう一度2階の窓を見上げた。

 カーテンの向こうにはもう何も映ってはいない。

 じっと見上げる野崎の後ろ姿を、宇佐美は黙って見ていた。


 二人は車に戻った。

 道中、野崎はずっと無言だった。先程見たものが何だったのか、しきりに考えているのだろう。

 今は何を言っても無理だろうなと思い、宇佐美も黙っていた。

 警察署の近くにあるコーヒー店まで移動して、二人は店内に入った。

 昼は少し過ぎているが、店内は満席に近かった。

 窓際のテーブルに座り、軽食を注文すると野崎は頬杖をついたまま、じっと考え込んでいた。

 カーテン越しだったが、そこに映る人影を野崎はハッキリと見た。

 それが動いて、部屋の奥に消えてゆくのも…

 あれは夢じゃないし、幻でもない。

 自分だけじゃなく、宇佐美も見ている。そうだ宇佐美も———

 あれ…?

 もしかして——


(の…せいか?)


 野崎はふと何かに気づいたように宇佐美を見た。

 宇佐美は退屈そうに窓の外を見ている。

 が、野崎の視線に気づいて目を向けた。

「君も…見たんだよな?」

「なにを?」

「なにって…さっきの人影だよ」

 あぁ——と頷いて小さく笑った。

「見たよ」

「そうか…」

 野崎は目を閉じて頷くと、思わず苦笑した。

「そういう力を持っている人の傍にいると、影響を受けることがあるって聞いたけど…まさか…こんなに早く経験するとは思わなかったな——」

「ひょっとしたら俺たち…相性がいいのかも」

「それって波長が合うってこと?」と、互いを交互に指差して野崎が聞いた。

 宇佐美は笑って頷く。

「あんまり嬉しくないな」

「なんでさ。もっと喜んでよ」

 甘えたような言い方をする宇佐美に、野崎は顔をしかめて腕組みをした。

「そう簡単に人生観変えられてたまるか」

「でも少しは信じる気になったでしょう?」

「…」

 宇佐美はふいに真顔になると、「さっきのアレは気のせいじゃないよ」と言った。

「誰かいた。窓から、俺たちの様子を伺ってた」

「誰?」

「分からない…でも——男だと思う」

「男?女じゃなくて?」

 死んだのは女で男はまだ生きている。幽霊だとしたら女の方だと思っていたが。

「ちなみに聞くけど…その男っていうのは、死んでる男ってこと?」

「鍵のかかった部屋を、すり抜けて出入りできるなら…生きてる男でもいいけど?」

「じゃあ、奇術師マジシャンかな?」

 あくまでも幽霊とは認めたくない野崎に、宇佐美は「だったらいいね」と笑った。


 軽食で空腹を満たし、食後のコーヒーを飲みながら、話題はいつしか先に起きた二つの事案に移っていた。

「あの橋の動画を初めて見た時」

 現在は閲覧できないように削除されているが、スマホにコピーして保存しておいた宇佐美はそれを開いて野崎に見せた。

「姿は見えないけど、何かいるのは感じたんだ」

「男の視線の先か?」

 宇佐美は頷いた。

「彼の視線はずっとここに向けられている。たまに彼の視線が動くのは、それがそう動いているから…」

 近づこうとする何かを振り払うような素振り。

「襲われているんだと思う。必死に抵抗している」

「何も見えないけどな…」

 野崎は何故だか寒気がした。あの時は奇妙だとしか感じなかったが…今こうして宇佐美と共に見ていると、見えないはずのものが見えてきそうな気がしてくる。

 男が橋から飛び降りたところで、宇佐美は動画を閉じた。

「他の人には見えてないだけで、動画の男には何かが見えていたんだ。たぶん、駅の男にも」

 それを聞いて、野崎は仕事用のスマホを取り出すと、「防犯カメラの映像がある」と言って宇佐美の方へ差し出した。

 短い映像だが、宇佐美はそれを凝視すると静かに頷いた。

「これも姿は見えないけど、男の背後から何かが急に近づいてきて…襲い掛かろうとしてるように感じる」

「橋のヤツと同じ?」

「そうだね…感じがよく似てる」

「…」

 しばらく互いに押し黙ったまま、何かをじっと考えていたが、ふと気づいたように野崎が言った。

「今回の容疑者にも、何か見えていたのかな?」

「…」

 宇佐美は黙って野崎を見た。

「あの二人の男と同じように、何かが見えてて…錯乱して女を刺した。自分は——」

 そう呟きながら頭部に手をやり、殴る仕草をする。

「自分の頭を殴りつける」

 ——が。言ってすぐに首を振った。

「いや、それは違うな」

自分で意識をなくすほど強く殴りつけるのは難しい。殴った物も見当たらない。

 だがそもそも、何故そんなことをする必要がある?

 殺したことを悔やんで後を追うなら、女を刺したナイフを使えばいい。その方が手っ取り早い。

 女はすでに絶命寸前。現場に第三者はいない。

 いったい誰が、男の頭を殴り昏倒させたのか——

 まさか幽霊に襲われて、そいつが殴ったとでもいうのか?


「多分、そうなんじゃない?」


 ふいにそう言われて野崎は我に返った。

「え?」

 今——自分が頭の中で考えていたことに呼応するように、宇佐美が言う。

「なに?」

「だから…幽霊が彼を襲ったんじゃないの?」

「…」

「何かが彼を襲った。男は混乱して、女を刺して…怖くなって逃げようとした」

 その何かは、逃げる男を背後から襲う。

 男は頭部に衝撃を受けて昏倒する…

 その光景が。ふと目の前に見えたような気がして、野崎は一瞬身震いした。

 これも、この男が見せているものなのか?

 今目の前にいる、宇佐美この男が———


 野崎は改めて宇佐美を見た。

 端正な顔立ちであればあるほど、どこか冷ややかで恐ろしく見えてくる。

 そういえば、初めて会った時にも感じた。

 網膜を通して何かを見ている、その目———

(こいつの目…)

 野崎は、これ以上一緒にいると何もかも見透かされてしまいそうで怖くなった。

 その動揺をなるべく悟られまいと、大きく息をつき、極力落ち着きを払った態度で言った。

「もう行こう。そろそろ戻らないと…」

 伝票を手に取ろうとしたが、取り損ねて落としてしまう。

「いいよ、俺が取る」

 宇佐美は、テーブルの下に落ちた伝票を取ろうと覗き込み、ギョッとした。


 野崎の足元に、何かいる———


 小さな黒い影。

 一瞬、猫かと思ったがそうではない。

 手で、じゃれるように野崎の靴を触っている。

(なに?子供…?)

 伝票に伸ばしかけた手を止めて、じっと見つめる自分の視線に気づいたのか、はゆっくりとこちらを見たような気がした。

「…」

 宇佐美は思わず息を飲んだ。野崎の靴を触っていた小さな手が、スーッと自分の方へ伸びてくる——

「——!!」

 ゴンッ!

 慌てて手を引っ込めた拍子に、テーブルに思いきり頭をぶつけて宇佐美は呻いた。

「っ!?」

 野崎は思わず飛び上がって驚いた。

「お、おい——大丈夫?」

「痛ってぇ…」

 顔をしかめながら頭をさする宇佐美に、野崎は「なにやってんの?」と苦笑した。

「だって…」そう言いかけて宇佐美は口をつぐんだ。

 野崎は、どうした?という顔をして自分を見ている。


 気づいていない?

 何も感じていないのか?


(そうか…見えていないんだ)


 言いかけた言葉を宇佐美は飲み込んだ。

 野崎はその様子を心配そうに見ている。

「平気か?頭…結構思いっきり打ったけど」

「あ…あぁ…」

「伝票あった?」

「…」

 宇佐美は恐る恐るテーブルの下を覗き込んだ。

 足元にいた、あの小さな影は消えていた。

(いない…)

 急いで伝票を拾い上げ、釈然としない表情を浮かべる宇佐美を、野崎は本気で心配した。

「本当に平気?」

「え?…あぁ…うん…」

 答えながらも、どこか上の空だ。そんな様子に野崎は「ならいいけど」と呟く。


 ほんと変な奴だな——


 野崎の、声にならないもう一つの呟きが聞こえたような気がしたが、宇佐美は黙っていた。


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