第二章・邂逅 #2
宇佐美との対面からちょうど一週間後。
市内のアパートで事件発生の一報が入った。
殺人の可能性アリということで、野崎は白石と共に現場入りした。
既に鑑識班が到着し、現場保存と証拠の採取を行っている。
場所は市内を流れる川沿いのアパートの一室。築30年。2階建ての2階角部屋。
住んでいたのは30代と40代の男女二人。夫婦ではないようだった。
死んだのは30代の女の方で、刺したのは男の方らしい。
「室内は大量の血で凄い有様ですよ」
二人は鑑識員に導かれて室内に入った。マスク越しでも、むせ返るような生臭い血液臭がした。
「包丁は女の背中に刺さっていました。指紋は判別できるもので1つ」
「男のものかな?彼の意識は?」
「ありませんでした。発見時は玄関付近に倒れており、目立った外傷はありません。意識不明のまま、先程搬送されました」
そうか…と野崎は呟いて室内を見回した。物が乱雑に置かれていて、正直足の踏み場もない。
女の遺体は、ダイニングの隣にある寝室にあった。
頸動脈を刺されたのか、大量の血液を吸った布団の上にうつぶせで倒れている。
「久々だな…これ」
白石がマスクの上から軽く鼻を押さえた。
「頸部の刺し傷が致命傷でしょうね」
鑑識員がそう言って、女の首筋を指差す。
野崎と白石は軽く手を合わせると、共に部屋の外に出た。
「聞き込みに回ろう」
駆け付けた他の捜査員にも指示を出し、野崎はまずアパートの大家に話を聞くことにした。
時刻は午前10時過ぎ。
普段は静かな住宅街の一角だが、今は事件を知り、駆け付けた報道機関が現場付近に集まっていた。
野崎と白石はその様子を尻目に、アパートの隣に住んでいる大家の60代女性から話を聞いた。
「初めは男の方だけ住んでいたんですよ。それがいつのまにか女性と一緒で…もう3年くらい経つかしら?大人しい方でしたけど、今年に入ってから喧嘩が絶えなくて」
「喧嘩ですか?」
「ええ。他の部屋の方からも苦情がくるくらい…夜中に大声で凄い喧嘩してるって」
一度警察に通報した事ありますよ、と聞いて野崎は白石に目配せした。事実確認のため、白石はその場を離れた。
「喧嘩の内容は分かりますか?」
「それが、急に佐々木さんが暴れ出して手が付けられなくなるって、女性の方が言ってました」
佐々木というのが意識不明で搬送された男性で、目下殺人容疑がかかっている男だ。
「酒を飲んで暴れてる感じですか?」
「いいえ。佐々木さん、お酒は飲むけどそんな暴れるような方ではなかったですよ。本当に大人しくて…ただここ最近はお仕事が少なくて大変だったみたいですけど」
「なるほど——今朝はどうでした?」
「いつもの喧嘩だと思っていましたよ。でもね…」
大家はそう言うと、ブルッと身震いした。
「凄い悲鳴が聞こえたの。助けてー!って…これは尋常じゃないわと思って」
怖くて一人で様子を見に行けず、隣室の住民男性を伴って様子を見に行ったという。
その男には今、別の捜査員が話を聞いている。
そこへ白石が戻ってきた。
「2月に一度、先月も一回、110番通報がありますね。その際、交番の警官が様子を見に来ている」
「そうか…あとで詳しく聞こう」
野崎はそう言うと、「二人以外に、室内にどなたかいましたか?」と聞いた。
「いいえ。大体いつもお二人だけでしたよ。他に出入りしてる人は見たことないわね」
「部屋の鍵は?開いていましたか?」
「いいえ。呼んでも応答がないので心配で…合鍵を使って開けてしまいました」
いけなかったかしら?と不安げに尋ねる大家に、野崎は大丈夫ですよと笑ってみせた。
室内の様子を確認したのは一緒に入った男の方で、自分はあまり見ていないという。
「佐々木さんが玄関の近くに倒れてて…」
そう呟いてから、大家は恐る恐る聞いた。
「女性の方は亡くなったって…本当ですか?」
野崎は、残念ですが…と頷いた。
「嫌だわぁ…事故物件になっちゃう!」
その台詞に白石は思わず苦笑した。
二人はひとまず礼を言って現場の方へ戻った。
「事故物件になっちゃうってさ」
「大家としては死活問題だろう」
「第三者の介入は?」
「それはなさそうだけど…男が殺したとして、意識不明で倒れてた原因は?」
「慌てて逃げようとして…滑って転んだ?」
「外傷はなさそうだって言ってたけどね」
野崎はアパートの外観をジッと見上げた。
車2台がすれ違えるくらいの道路を挟んで、すぐ向かいを川が流れている。
相模川に流れる支流のひとつ、目久尻川だ。
「こんな長閑な場所で、凄惨な事件が起きたもんだな」
「病院行くか?」
白石に聞かれ、野崎は「そうだな」と呟いた。
「意識が戻ればいいけど——」
市内の総合病院に搬送された男の意識は、まだ戻っていなかった。
医師の所見では、後頭部に強い衝撃を受けた痕跡はあるが、僅かな内出血があるのみで骨に異常は見られないという。
「水か砂を詰めた重い袋状の物で衝撃を受けたような…瞬間的な圧がかかった感じです」
医師の言葉に、「それってなんなの?」と二人は呟いた。
「いや、そもそも誰にやられたのよ?」
病室に運ばれ、意識を失ったままの男の様子をジッと見ながら、白石が言った。
「女にか?頸動脈刺されて、さらに背中を何度も刺されて、瀕死の重傷負った女が、背後から逃げる男を殴りつける——できるか?そんなこと」
「最初の首の一撃で、それどころじゃないだろうな…」
女を刺し、慌てて逃げようとして転倒。その時に後頭部を打ったのなら仰向けに倒れるだろうが、発見時、男は玄関付近にうつぶせで倒れていたそうだ。第一発見者の二人も鑑識員もそう言っている。
「仮に現場に第三者がいたとして。佐々木が女を殺した後、その佐々木を後ろから殴って——どこから逃げる?玄関は施錠されてた」
「大家さんたちが入ってきた時、窓から逃げた…とか?」
「それまで室内に潜んでた?でも窓も施錠されてた。現場に第三者の痕跡はない。凶器になりそうな物も」
野崎はあの凄まじい血痕を思い出した。
「女を刺したのが別の奴だったとしても、あの場にいたら少なからず返り血は浴びてる。そんな奴が現場付近で目撃されたら騒ぎになるだろうが、そういう目撃情報も今のところ出てない」
「後頭部を自分で殴りつけるのは?」
「なにで?どうやって?自分で意識失うまで打ち付けるのは難しいぜ」
白石は、お手上げというように肩を竦めた。
男の意識が戻れば詳しい状況も分かるだろうが…
大人しかった男が急に暴れ出してパニックになる——
この状況。
直近で似たようなケースを見たな…
(でもまさかな——)
伝染病じゃあるまいし、同じようなことがそうたびたびあってたまるか。
野崎は釈然としない面持ちで、昏倒している男を黙って見つめていた。
翌日の捜査会議では容疑者の佐々木、被害者の女とその解剖所見について詳しく挙げられ、野崎たちは捜査方針に乗っ取ってそれぞれ動き出した。
とはいえ、佐々木はまだ意識が戻らず、実際現場で何があったのかは推測の域を出ない。
ただ、状況から第三者の介入はなく、凶器の指紋からも女を殺害したのは十中八九佐々木であると断定された。
問題は、意識不明に陥った原因と、殺害に至る動機だった。
まずは佐々木の職場での様子や被害者の勤務先、二人の生活の様子など聞き込みに回る。野崎は白石と一緒に二度の110番通報で現場に駆けつけた警官から事情を聞くことにした。
現場アパートの最寄り駅はかしわ台駅になる。
その駅前交番に向かう道すがら、「そういえば…」と野崎は呟いた。
「ホームに飛び込んだ男が住んでいたアパートも、この近くじゃなかった?」
「あぁそういえば」
白石はハンドルを握りながら、ついこの間起きたばかりの出来事なのに、もうすっかり記憶の中から消えかけていることに驚きを隠せずにいた。
あの時はまだ桜の咲き始めだったが、じき梅雨入りだ。
「駅と橋の件は自殺の方向で片が付きそうだけど、今回はさすがにそうはいかないな」
「テレビ局が何社か取材に来てたぜ。今朝も現場にカメラが来てたって…」
「ローカルエリアじゃ珍しく凄惨な事件だからな」
やりにくいな…と感じで野崎はため息をついた。
交番の警官から、二度にわたる通報で駆け付けた際の状況は以下の通りだった。
一度目は2月。明け方6時頃。
佐々木が夜勤から帰宅すると、室内に男の気配がしたので、女が連れ込んだと思い込み口論になったという。しかし女はそんな事実はないと説明。実際、室内には女以外誰もおらず、最終的には佐々木の勘違いで終わったのだが、この出来事をきっかけに、佐々木の様子が少しずつおかしくなったと言う。
先月は深夜2時ごろ。
寝ていたら突然佐々木が起きて、室内に誰かいると騒ぎ出し、止める女を興奮して殴りつけたという。
その後もたびたび似たような幻覚を見るようになって、事件を起こす5日ほど前に一度精神科へ行っている。
診断は軽度のうつ状態——
「橋の被害者に似てるな…」
錯乱して橋から飛び降りる被害者の姿が、一瞬野崎の脳裏をよぎった。
今回は錯乱して刃物を取り出したか…
「軽度のうつで刃物振り回して人を殺害って…それって軽度っていうのか?」
「何日もまともに眠れないと、幻覚と幻聴でおかしくはなるらしいよ」
それにしたってだろう…と白石は言った。
「被害者が生きていればもっと詳しい状況を聞くことができただろうけど…せめて男の意識が戻ってくれればな」
だがもし死んだら——謎は謎のまま、このモヤモヤした気分を抱えて事後処理しなければならない。
「なんだかスッキリしないな…」
野崎は走行中の車窓から、遠くに広がる山並みを見た。
その空もまた、今にも一雨来そうな雲に覆われてスッキリしない色をしている。
明日からしばらく、雨が続くと予報が出ていたことを野崎は思い出した。
相変わらず大きな進展もないまま、事件から五日が過ぎた。
佐々木の意識はいまだ戻らず。
それだけにかかわってもいられないので、日々の業務は淡々とこなしつつも、野崎はどこか心ここにあらずの心境でデスクに座り調書をめくっていた。
駅のホーム飛び込み事案から橋の事案、そしてアパートの事件。
これらが一つの線でつながっているとは思えない。
関係者同士、どこにも接点がないのだ。近所に住んでいたという事実はあっても、互いに顔見知りだったわけではなく、職場が同じだったというわけでもない。
同じ市内に住んでいても生活エリアは違う。
唯一、共通点があるとしたら、事件を起こす過程がなんとなく似ている——という至極あやふやな感覚だけだ。
(俺に分からないだけで、何かあるんだろうか)
見えていないものが——何かあるのか…?
野崎はふと自分のスマホを見た。
宇佐美と別れる際、メッセージアプリのアドレスを交換し合った。
仕事以外の、プライベートでやりとりをする相手にのみ教えているものだが、そこへ新たに追加されたアイコンを見て、しばし考え込む。
USAMIと表記された白いウサギのアイコン。
(シャレのつもりか?)
タップしてトーク画面を開く。
まだ何も会話展開されていない。
野崎は時計を見た。金曜日の午後6時過ぎ。
どうしようかと暫く迷ったが——
>こんばんは。先日お会いした野崎です。
とメッセージを送ってみた。
すると意外にもすぐに既読マークがついた。
(お?)
野崎は驚いて、少し間を置いたが、返信が来ないので続けて
>この後、時間ありますか?
と入れてみた。
既読は付く。だが返信はない。
仕方なく続けて入れてみる。
>飯でも食いに行きませんか?
既読は付いた。が応答はなし。
(…)
腕を組んでしばらく待つが、やはり無反応だ。
「うーん…」
スマホを睨んだまま腕組みをする野崎を、向かいのデスクから白石がじっと見ている。
何かあったのかと心配して寄ってきた。
「どうした?」
「既読無視に耐えてる…」
トーク画面を覗き込んで白石は笑った。
「こないだ会ったって言ってた…例の人?」
「あぁ…」
宇佐美の事は白石にも話していた。署内でも、こういう話ができるのは白石だけだ。
「ダメか…」
「あはは、振られたな」
「警戒心剥き出しだったからなぁ…」
大きく伸びをして、「仕方ない」と呟くと、立ち上がってスマホを鞄に突っ込んだ。
すると、通知音が鳴った。
野崎は慌ててスマホを掴んで画面を見た。
>いいですよ。何時ごろですか?
「キタ—―」
白石の台詞に野崎は笑うと、
>これから署を出ます。すみません。急すぎましたか?
と送る。
>大丈夫です。どこに行けばいいですか?
>車で迎えに行きます
>では駅のロータリーにいます
野崎は
>了解です
と送った。
既読が付いて以降、返信はない。
「よかったな。たぶん、脈アリだぜ」
白石が楽しそうに肩を叩く。
「そっけない男だよな——ていうかさ…まずは『こんばんは』の挨拶が先だろう?」
宇佐美のアイコンの白兎を見て、野崎は悪態をつく。
「まぁデート楽しんでこいよ」
「お前も来る?」
白石は首を振ると、「遠慮しておく」と言った。
「金曜の夜に怪談話は嫌だ」
ウサギちゃんによろしく——と手を振って自分のデスクに戻る白石を見て、野崎はため息をつくと、「じゃ、お先」と言って部屋を出た。
宇佐美は駅のロータリーに佇んでいた。
駅近くのカフェで原稿の下書きをしながら、自分宛に届いた読者からのメールを一つずつ丁寧にチェックしていたら、急にスマホにメッセージが入り驚いた。
半分は社交辞令のつもりで交換したアドレスだったが…
まさか本当に声をかけてくるとは思わなかった。
だが——なぜ飯の誘い?
てっきり事件について話がしたいのかと思ったが…市内で起きた殺人事件については、宇佐美も知っている。
恐らく野崎たちが捜査に当たっているんだろう。詳細は分からないが、犯人らしき人物はまだ捕まっていない。
まだ解決していないのに、のんきに俺を食事に誘ってる暇があるのか?
それとも——
白いSUVが軽くクラクションを鳴らして近づいてきた。
一度会っただけだが、運転席から手を振っている男を見て、すぐに野崎だと分かった。
宇佐美が助手席側に立つと、乗ってと合図をする。
宇佐美はドアを開けて乗り込んだ。と同時に、車は滑るように走り出す。
「待ちました?」
「…いいえ。そんなには」
宇佐美は小さく首を振る。
野崎はさりげなく助手席の宇佐美を目視した。
前回と違い、今日は白いシャツにベージュのパンツ、草色の薄手のカーディガンを羽織っている。膝の上には黒いトートバッグ。
こういう
「何か食いたいものあります?」
「別に…なんでもいいですよ」
何でもね…と野崎は呟いた。
「今日は金曜だし、繁華街は混んでるだろうから、ちょっと郊外まで走ろう」
そういうと、慣れた様子で市街地から離れていく。
このあたりは、駅周辺から離れた所にも飲食店がたくさんある。
その中で、なるべく周囲を気にせず話が出来そうな場所——そう思って野崎が選んだのは、駅から少々離れた所にある、落ち着いた雰囲気の和食処だった。
大衆的な店だが、個室もある。
野崎は受付で迷わず個室を選んだ。
「飲みたかったら飲んでもいいですよ。俺は車だから飲めないけど」
個室に通されると、野崎はそう言ってジャケットを脱いだ。
「いいですよ。俺、そんなに飲めないんで」
「へぇ、そうなんだ」
飲めないのか…と野崎に言われ、宇佐美は肩を竦めた。
仕事帰りにそのまま来た野崎は、一見するとごく普通の会社員に見える。
制服警官と違って、私服警官は見ただけでは分からないな…と、宇佐美は目の前の野崎を見て思った。
初めて会った時のオフモードと違って、今日はオンモードなのだろう。ネクタイこそ外してるが、髪はキッチリと整えているし、ワイシャツとスーツも板についている感じがした。
「お互い飲めないんじゃ、しょうがないな」
残念そうに言う野崎に、宇佐美は「ノンアルコールがありますよ」と言った。
二人は差し向かいで料理を注文すると、先に届いたノンアルコールビールで喉を潤した。
「急に誘って、迷惑じゃありませんでした?」
小鉢の和え物をつまみながら野崎が聞いた。
「別に…予定ないから」
「彼女とデートとかは?」
そんなのいないし…と、宇佐美は苦笑いした。
「ホントに?」
「ホントだよ——あなたこそ」
そう言って野崎の左手を見て言った。
「早く帰らなくてよかったんですか?結婚してるんでしょう?」
薬指の指輪を見て、野崎は笑う。
「新婚ってわけじゃないから」
「お子さんは?」
「…いない」
一瞬、奇妙な間があったが宇佐美は気づかぬ振りをした。
子供の話題には触れてほしくない——そう感じたからだ。
話題を変えようと、宇佐美は聞いた。
「野崎さんって、刑事なんですよね?」
「そうだよ」
「じゃあこれ…なんで白バイなんですか?」
宇佐美はそう言うと、スマホのメッセージアプリを開いて野崎のアイコンを見せた。
「あぁ、それ」
野崎は頷くと、少し照れながら言った。
「実は俺、当初は白バイ隊員になりたかったんだ」
届いた料理を口に運びながら、アルコール抜きのビールを飲む。
「俺の親父は普通のサラリーマンだったけど、母方の祖父が元交通機動隊で、白バイに乗ってた」
「へぇ——お祖父さんも警察官だったんだ」
「あぁ。それで小さい頃からよく見てた」
颯爽と白バイに跨る祖父を見て、憧れを抱いていた野崎だったが、中学生の時に運命的な出会いがあった。
「でも、ある日テレビドラマを見て」
「ドラマ?」
「そう。知らない?あぶない刑事」
「え?」
宇佐美は思わず声を出して笑った。それにつられて野崎も笑う。
「あれ見て、やっぱり白バイ隊じゃなくて刑事になろう!って」
「ああいうの見て、本気で刑事目指す人っているんだ」
「そういうのって大抵憧れから入るんじゃないの?」
「そうかもしれないけど…ドラマは現実的じゃないでしょう?」
「そりゃそうさ。あんな街中でドンパチできるわけない」
「でも憧れたんだ?」
宇佐美は眩しそうに野崎を見た。
「だってカッコよかったろ、あの二人…あんな風にコンビを組んで捜査をしてみたかったんだ」
「俺はあんまり見てないからよく分からないけど…そうか——夢を叶えたんだね」
「ただ…現実はそこまでカッコよくなかったけどな」
少し疲れたように俯く野崎を、宇佐美はじっと見つめた。
連日の捜査で、本当は疲れてるのではないか…そんな気がして、宇佐美は少し心配そうな顔をする。その様子に野崎は気づくと、「そういう君もさ」と負けずにスマホのアプリを開き、宇佐美のアイコンを指差して言った。
「この…ウサギと宇佐美はシャレなの?」
今度は自分が指摘されて宇佐美は苦笑する。
「寒いオヤジギャグって言いたいの?」
「そうじゃないけどさ」
「昔飼ってたんだ」
なんだ、ペットか…と野崎は呟く。
「同棲してた女が連れてきて…出ていく時置いてった」
「——」
「可愛い置き土産だろう?」
そう言って、過去に撮った写真の一枚を見せた。白くてフワフワしている。なんていう種類かは分からないが、撮影者の愛おしさが伝わってくるような写真だった。
「2年前に死んじゃったけどね…」
「…」
寂しそうに俯く宇佐美に、野崎は言った。
「彼女作らないの?」
「もういいよ」
「なんで?」
「めんどくさい」
野崎は苦笑した。苦笑しながら、「そっか…」と呟く。
会話が途切れ、一瞬沈黙が流れる———
宇佐美は刺身を一切れ箸で摘まんだが、すぐに口には運ばず、しばらく弄んでから言った。
「で?」
「…?」
「なんなんですか?」
野崎と視線が合い、その目をじっと覗き込む。
「まさか、おしゃべりがしたくて飯に誘ったわけじゃないですよね?」
「——」
野崎は黙っていたが、フッと笑うと「なんで?ダメ?」と聞いた。
「え?…いえ、ダメじゃないけど…」
「いきなり本題に入ってもよかったんだけど…ちょっとウォーミングアップしてからの方がいいかなと思って」
「…」
「だって宇佐美さんって、警戒心が野良猫みたいだったから」
「宇佐美でいいですよ…っていうか野良猫ってなんですか?」
「野良猫並みに警戒心が強くて扱いにくいってこと」と言った後にすぐ「気を悪くしたらゴメン」と詫びを入れる。
宇佐美は驚いたように目を丸くしたが、ゆっくりとその口元に微笑を浮かべる。
隣の個室から賑やかな人の声が聞こえてきた。
金曜の夜だけあって、さすがに店は混みあっている。が、その賑やかさが今は逆に有難かった。
野崎は軽く咳払いして居住まいを直すと、「でもこうやって誘いに応じてくれたってことは、多少警戒心を解いてくれたって思っていいのかな?」と聞いた。
「…」
宇佐美は黙っていたが、「約束しましたからね」と言った。
「あなたに協力するって」
相手の思いがけない生真面目な一面を見て、野崎は戸惑いながら笑った。
「会って二度目でそこまで思ってくれるのは有難いけど、そんな風に堅苦しく考えないで欲しいな」
「?」
宇佐美は首をかしげた。
「確かに——協力を仰ぎたい気持ちもあるけど、この関係は義務じゃないから」
「…」
「俺の方から用があれば連絡するし、君の——宇佐美の方から何かあれば遠慮なく言って欲しい。その為に、プライベートの連絡先を教えた」
宇佐美は何かを探るように、じっと野崎の目を覗き込んだ。
「呼び出されたからって応じなきゃいけないわけじゃない。嫌なら断ったってかまわない。実際——ちょっと迷ってたろう?」
逆に野崎の方から覗き込まれ、宇佐美は思わずたじろいだ。
その様子を見て、「でも既読無視されなくてよかった」と照れ笑いを浮かべる野崎に、宇佐美は戸惑いを隠せずにいた。
相手の気持ちを読み取ろうとするのに、いいようにはぐらかされている気がする。
宇佐美としては、用件だけ言ってくれればそれでいいのに、そこに至るまでのやり取りがもどかしくて仕方がない。
言わなくてもいい事や、知らなくてもいい自分の事など…話す必要があるのか?
(刑事になったいきさつなんて、別に聞いてないのに…)
ウサギの話や、ましてや自分が過去に女と同棲してたことなんて。
なんで言ったんだろう?俺が話題を振ったのか?
「本題に入ろう」
「——」
ふいに、ウォーミングアップはここまで、というような線引きをされて、宇佐美は我に返った。
互いの間に流れる空気が僅かに変わる。
野崎の顔からも笑みが消えていた。
自然、宇佐美も居住まいを直す。
「事件の事は知ってる?」
「殺人の?ニュースでならね」
「これはまだ捜査中の案件だから、詳しくは言えないんだ。でも——ちょっと」
「なにか気になることでも?」
言い淀む野崎を先回りして、宇佐美は聞いた。
野崎は苦笑すると「まぁね…」と頷いた。
「肝心の被疑者がまだ意識不明で、詳しい状況が分からない。だから分かっている範囲でしか推測できないんだけど…」
野崎はじっと宇佐美を見た。
「君の考えを聞きたい」
「…」
「今から言うのは、俺の独り言だと思って聞いて欲しい」
宇佐美は黙って頷いた。
野崎は、可能な範囲で事件の状況を話した。
大人しかった男が、数か月前から様子が変わったこと。
事件当日は錯乱して女を刺したこと。
その後、後頭部に何か強い衝撃を受けて意識を失くしたこと。
第三者の介入はない。現場には男女の二人だけ。
女は男より先に絶命していた可能性が高く、男の頭部外傷から見て、現場にはそれに相当するような凶器は見当たらないこと。
「男が自分で自分の頭を殴打する以外に説明がつきそうにないけど、状況から見てそれは難しい」
「何か薬を飲んでいた?」
「事件の数日前に精神科に行ってた。鬱と診断されて薬を処方されてる。一般的な眠剤と安定剤。幻覚を引き起こすような強いものじゃない」
「アルコールと一緒に飲んでたんじゃ?」
「体内からアルコールは検出されていない。ついでに言うと、危険薬物も」
宇佐美は頷いた。
「俺には、橋から飛び降りた男の姿がダブって見えたんだけど…宇佐美はどう思う?」
「…確かに似てるね」
「もっと言うと、駅で死んだ男も…同じように見える」
「——」
野崎はコップの水を一口飲んだ。
「駅と橋の男と、今回の事件の男に接点はない。駅の男とは近所に住んでいたけど、顔見知りだった事実はないし、ごく普通の生活を送っていた人間だ」
それがある日突然——と両手を広げて首を振る。
「これって何かの祟りかな?」
自分で言ってて、野崎は思わず笑ってしまった。
宇佐美も苦笑する。が、すぐに真顔になると、「一度、現場を見てみたいな」と言った。
「見たら何か分かるの?」
「それは分からないけど…実はあなたと会う約束をした日、あの橋の上を見てきた」
宇佐美は、男が飛び降りたあの場所に立って、何か感じるものがあるかどうか確認してみたことを話した。
「それで?何か感じた?」
「残念だけどなにも…時間が経ちすぎたのかも。人や車の往来も激しいし」
そうか…と野崎は呟いた。
「でも、今度の事件はまだ日が浅いし、事が…大きいから、もしかしたら何か残ってるかも」
「早い方がいいってことか」
「たぶん」
野崎は少し迷ってから、言った。
「室内は検証中だから入ることはできない。でも外からなら見られるけど…それでもいいなら?」
「それでもいいよ」
宇佐美の返事に野崎は頷くと、「じゃあ、明日の昼はどう?」と聞いた。
「いいですよ」
「じゃあ12時に今日と同じロータリーで」
分かりました、と宇佐美は答えた。
店を出る頃にはもう21時を回っていた。
家まで送るよ——と野崎は言ったが、宇佐美はそれを断ると「駅まで乗せてくれればいいです」と言った。
「そう…」
その様子から、それ以上押すのはやめた。野崎は駅のロータリーに車を寄せると、そこで宇佐美を下ろした。
「ありがとうございます」
「じゃあ明日。何かあったら連絡ください」
はい、と答えて宇佐美は立ち去りかけたが、ふと何を思ったのか急に振り返り助手席の窓に寄った。
野崎はウインドウを下げて「なにか?」と聞く。
「あの…」
「?」
なに?という目をする野崎に、宇佐美は一言。
「おやすみなさい」と言うと、そのまま踵を返して改札の方へ小走りに歩いていく。
「———」
呆気にとられた野崎は、そのまま無言でアクセルを踏んだ。
なんだ?
あいつ…
なぜだか急におかしくなってきて、野崎はハンドルを握りながら思わず笑った。
ろくに挨拶もしないと思っていたら、わざわざ戻ってきて最後の最後に「おやすみ」って。なんなんだ?
「変な奴…」
思わず声にだして呟く。
だが不思議と気分が高揚している。
アルコールも入っていないのに…
先生の言う通り。あいつほんと、変わった子だ…
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