第二章・邂逅 #1

 5月上旬。

 桜の季節にはピンクに染まっていた河岸の桜並木も、今はもうすっかり葉桜となっていた。

 GW明けの週末。

 宇佐美は一人、橋の欄干に佇んでいた。

 ついひと月ほど前、ここで騒動があったことなど誰も記憶にないように、人も車も留まることなく流れ続けている。

 宇佐美の足元には、小さな花が供えられていた。飛ばされないよう、欄干の一部に紐で括られている。

 花はまだ新しい。

 その瑞々しい花びらが、時折強い風に煽られて千切れてしまいそうだった。

 宇佐美は、しばらく川の流れを見ていた。

 風で髪が乱れるのも気にせず、黙って身を任せている。

 水面で羽を休めていた水鳥が、ふいに何かに驚いたように一斉に飛び立った。

 その様子を、宇佐美はじっと目で追った。

 鳥たちは気流に乗って優雅に飛び去って行く。

(無駄か…)

 フゥと小さく息をつく。

 ここへ来れば、何か感じるかと思ったが——

 振り返り車道の方を見る。動画の男が見ていた辺りに視線を向けたが、特に何も感じない。

 時が経ちすぎてしまったか…

「…」

 通行人が不審な顔をして通り過ぎていく。

 こんな所にいては通報されかねないな…

 宇佐美は、さりげなく欄干を離れて歩きだした。歩きながらスマホを取り出して時間を見る。

(そろそろ行かないと…)

 そう思うと急に足取りが重くなる。


 なんで会うなんて言ったんだろう…


 数日前、神原から「会わせたい男がいる」と聞いたとき、すぐに断るつもりだった。

 相手は神原の大学時代の教え子で、今は地元の警察署に勤務しているとか。

 現役の刑事だと聞いて、多少は興味を引かれたが、「我々とは真逆の人間だよ」と聞いて気持ちが揺らいだ。

 目に見えないものは信じない。現実主義者。

 まぁ、仕事柄それもやむなしと思うが、過去にそういう相手と絡んでいい思いをしたことは一度もない。

 今回もきっと【変な奴】扱いされて終わりだ。

 それは分かっているのに。

 なんで会うなんて約束したのかな…

 宇佐美は背中を丸めながら、トボトボと待ち合わせ場所に向かって歩き続けた。


『彼は少し違うよ』

 と神原は言った。


「目に見えない世界…そういうスピリチュアルなものを、頭ごなしに否定する連中は大勢いる。彼ももちろん信じない人間の一人だ」

「じゃあ会うまでもないよ。結果は分かってる。理解しあえないで終わりだ」

「他の連中ならね。でも彼は違う」

 神原は穏やかな笑みを浮かべて宇佐美を見た。

「会えば分かる。もちろん、すぐに打ち解けるのは難しいが、双方歩み寄る気持ちがあれば、きっと理解しあえるよ」

 それに———

「今後の仕事のために人脈を広げておくのも悪くない」と、本気とも冗談ともつかないおかしな助言を付け加えてニヤッと笑った。


 今まで、神原自身この教え子である刑事にアドバイザーのような立場で接していたようだが。

 そんな話も初耳だし、そもそもなんで今頃俺と引き合わせようと思ったんだ?

 スマホの着信に気づいて、宇佐美は立ち止まった。

「はい…えぇ、今向かっています」

 通話相手にそれだけ言うと、宇佐美はため息をつく。


『彼を助けてやって欲しい。きっと君の力を必要とするよ』


 気乗りしない自分に向かって、神原はそう言った。

 現役刑事が?

 俺の助けを?

 考えれば考えるほど、滑稽な申し出だが、

(まぁいいや…)

 と宇佐美は開き直った。

 こっちは仕事のネタになればいい。不可解な事件に関与している警察から、直々に情報を得られれば、それはそれで面白そうだ。

 向こうが利用するなら、こちらも利用するまで。

 そう思うと、妙な闘志が湧いてきて、宇佐美はいつのまにか早足になっていた。



 待ち合わせは隣町にあるホテルのロビーラウンジだった。

 少し早めに着いていた野崎は、まだテーブルには着かず、入り口近くに佇みボンヤリと周囲を眺めていた。

 日曜日の午前中。

 結婚式でもあるのだろうか。ロビーは華やかな招待客で賑わっている。

 今日は大安だったかな…

 ふとそんなことを思い、自分たちの時はどうだったかな?と思い返す。

 仏滅ではなかったが、大安でもなかった気がする。

 式は挙げたが新婚旅行には行ってない。刑事課に配属されたばかりで、旅行に行くタイミングが合わず、そのうち頃合いを見て行くつもりだったが——結局忙しくてそれどころではなくなってしまった。

 いつか——を先送りにしてはいけないと、よく言われたものだが。

 今となってはもう手遅れか…

 夫は当てにならないと、妻は友人と旅行へ行ったり、食事へ行ったり。

 最後に二人で一緒にどこかへ行ったのはいつだったろうか…

 野崎が遠い記憶を手繰り寄せていると、ふいに先日の神原の言葉が蘇ってきた。


『野崎…彼はだよ——』


 その言葉に、「本物ってどういうことです?」と野崎は聞いた。

「彼は普通の人には見えないものが見えるし、聞こえないものを聞く事ができる」

 そう言うとゆっくりと身を乗り出した。

「私はこれまでも、随分とたくさんの…いわゆる自称霊能者という連中に会ってきたが、どれもこれも似非えせでね」

 そう苦笑すると「まぁ、中には稀に鋭い感覚を持つ奴もいたが…」と頷いたが、やはり違うというように首を振った。

「残念ながら本物にはお目にかかったことがない」

 でもね…と神原は野崎の目を覗き込んで言った。

「宇佐美君は…彼は間違いなく本物だよ。彼には見えるんだ」

「なぜ——そうだと言い切れるんです?」

「私も一緒にこの目で見たからさ」

 野崎はじっと神原の目を見返す。

「そういう力を持つ人間と一緒にいるとね、時々影響を受けることがある。もちろん何時でも、誰とでもってわけじゃない。波長が合えばってことだ」

「本当に?」

「君も彼と波長が合えば、きっと見ることができるはずだよ」

「ははは」

 野崎は思わず笑った。

「それは…なんだか、そそられる話ですね」

「君の人生観を変える経験ができると思うがね」

「確かに、もしそれが本当なら——人生変わるだろうな」

「すぐには信じられないと思うが、ぜひ一度彼と会って話をしてみて欲しい」

「…」

 一瞬、返事に詰まる。

 他ならぬ恩師の頼みとあらば喜んで受けるところだが…

 野崎は迷った。

 神原の話に嘘はないだろう。だが、たとえ真実だとしてもすぐには答えられない。

 神原は恐らく、今後の自分の身代わりとして勧めているのだ。

 その男を。

 アドバイザーとして———


 相手の感情を察して、神原は穏やかな笑みを浮かべると、「そんなに難しく考えないでくれ」と言った。

「ごり押しするつもりはない。ただ私の…大切な友人の一人に会って欲しいだけだ」

「それなら…別に構いませんよ」

 野崎も小さく微笑みを浮かべた。

「俺も先生の友人には興味があります。それで…どんな人なんですか?」

「そうだなぁ…」

 その質問に、神原はやや言葉を濁したが、「まぁ…変わった子だ」と言って笑った。

 野崎は一気に不安になった。



 そのを伴って、神原がロビーに姿を見せたのは約束の時間ギリギリだった。

 野崎は手を挙げた。それに気づいて神原も手を振る。

 さりげなく挨拶を交わしながら、野崎はその背後に立つ男を軽く一瞥した。

 まず驚いたのは、やはりその風貌だった。

 40を目前にした男には見えない。

 涼やかな目元に細い顎のライン。風にでも煽られたのか、茶色い髪が無造作に柔らかな波を打っている。肌も白く、ハリツヤなどもまだ20代で通用しそうな程だ。

(嘘だろう…)

 野崎はその端正な顔立ちに思わず見入った。

 出版社のサイトでも写真を見たが、実際の方がより整っていると感じる。

 だが、どこか人を寄せ付けない冷たさも感じた。

 背はそこそこあるが、痩せているので小柄に見える。

 身体より大きめのパーカーにタイトなジーンズ。スニーカー。リュック。

 身なりはどこから見ても立派な大学生じゃないか。

(幼く見えるのは服装のせいか?)

 相手の視線を受け、宇佐美は黙ってじっとロビーの奥を見ていた。

 自分が観察されていることを肌で感じる。宇佐美にとっては最も苦手とする状況だ。

「紹介しよう。彼が宇佐美君だ」

 神原に名を呼ばれ、宇佐美は一瞬だけ視線を向けて頭を下げた。

「で、こっちが野崎君だ」

「初めまして。野崎です」

 野崎は会釈と共に軽く微笑んで見せた。

「どうも…」

 宇佐美は視線を合わせず、俯いたままそう呟く。

「…」

 そんな二人の様子を見て、神原は小さく咳払いすると、「ラウンジのテーブルに予約を入れてある」と言って二人を促すと、「それと、すまないが…」と断りを入れた。

「実は急用ができて、私は同席できない。ここからは二人で頼むよ」

「え!?」

「——」

 飛び上がるように驚く宇佐美とは対照的に、野崎は冷静だった。

「待ってよ神原さん…そんなこと一言も言ってなかったじゃ——」

「すまないね宇佐美君。なに、そんなに緊張することないよ」

「でも」

「野崎は初対面の相手でも気兼ねなく話ができる男だ。だろう?」

 野崎は答える代わりに肩を竦めた。

「大丈夫だよ、彼を信じて」

 神原はそう言って宇佐美の肩を2度、優しく撫でてから軽く叩いた。

「野崎…よろしく頼むよ」

「——」

 野崎はそっと右手をあげた。

 宇佐美は去っていく神原を呆然と見送っている。その姿は、まるで置いて行かれた子供のようだ。

 大丈夫かな…?と、野崎は心配になった。放っといたらコイツ、泣き出すんじゃないか?と思い、「よかったら」と声をかける。

「座りませんか?こんな所で立ち話もなんだし」

「…」

 宇佐美がゆっくりと振り返る。

 取り乱しているかと思ったが、意外にも落ち着いた顔をしていた。腹を決めたのか、それとも開き直ったのか…

 野崎は少し驚いたが、冷静になれる大人でよかったと安堵した。

 二人は案内されたテーブルに座ると、ひとまず飲み物を注文した。

 なんとなく、気まずい沈黙のまま無言で対峙する。

 俯いたまま、口を閉ざす宇佐美を見て、野崎はヤレヤレ…と溜息をついた。

「あの先生のやり口だよ。引き合わせておいて放置——あの人なりの、変な気の使い方さ」

「マジか…お見合いじゃあるまいし」

 思わず悪態をつく宇佐美に、野崎は「あはは、だよな」と言って笑った。

 つられて宇佐美も笑う。

 笑った時、少しだけ左の口角が上がる。

 眩しそうに目を細めた笑い方が、とても人懐っこい感じだが…

 なぜだろう。笑っているのに寂しそうに見えるのは。

 相手の態度が少し和らいだのを感じて、野崎は、「改めて自己紹介しよう」と言った。

「俺は野崎祐介    ゆうすけっていいます。海老名中央署に勤務している。神原先生から聞いているかもしれないけど、あの人は俺の…恩師っていうのかな?大学時代からよく知ってる。なかなかの変人だろう?」

 その言葉に宇佐美は小さく笑った。

 笑いながら、今度は宇佐美の方が相手を軽く観察する。

 目の前に座る野崎は、自分よりも年は若干上だろうか…

 世代的にはさほど隔たりはないはずだが、男の態度からは自信と余裕が感じられた。

(自分とは正反対だ…)

 優しい目をしているが、その目には冷静に相手を観察している油断のならない鋭さがある。

 現役刑事を欺くのは至難の業だろう。この男の前で嘘をつくのは、あまり得策じゃない。

 今日は休みだからか、シャツにチノパンというラフな服装だ。すっきりと短い黒髪を無造作にかき上げ、額を見せた顔つきは実に精悍で、長身の体格も頼もしい。低く落ち着いた声色も、相手に信頼感や安心感を与えるには充分な要素だ。

 宇佐美は、非の打ち所がない相手に対して劣等感を禁じ得なかった。

 彼の目に、今の自分はさぞ頼りなく映っているんだろうな…

 そう思いながら、宇佐美は言った。

「俺は…宇佐美です。宇佐美尚人    なおと。もう数年前から神原さんの雑誌で世話になってる」

「コラムを書いてるって…作家さんなの?」

「そんな大層なものじゃないけど」

「でも凄いよ。文章が書けるって。俺はそういうの苦手だった…作文とかね」

 宇佐美は微笑んだ。

 コーヒーがテーブルに運ばれてくる。二人はそれを口にして、しばらく互いの出方を探った。

 が、口火を切ったのは、やはり野崎の方だった。

「あー…先生から今日の事——なんて聞いてる?」

 宇佐美は少し考えてから、

「警察に知り合いを作っておくと、何かの役に立つかも」と言った。

「え?」

 驚く野崎を見て、宇佐美はからかうような笑みを浮かべる。

「っていうのは冗談だと思うけど」

「…」

「不思議な事件を担当してて、困っているみたいだから力になってやれって」

 野崎は、相手の真意を探るような目でしばらくじっと見つめた。宇佐美もそれに対して挑むような目を向ける。

「あなたは何て?」

 そう聞かれ、野崎は答えた。

「不思議な力を持っている友人がいるから、会ってみないかって——」

「ふぅん…」

 不思議な力ね…と呟いてコーヒーを一口すする。野崎は、参ったな…というように頭に手をやった。

 やりにくい相手だと感じるが、今更投げ出すわけにもいかない。

 気を取り直して野崎は聞いた。

「俺が担当している事件って…どこまで知ってるの?」

「どこまでって?ニュースで知り得る限りだよ」

「そう…それで——何を助けてくれるの?」

「そんなの知らないよ。そっちは俺に何を求めてるの?」

「——」

 互いに懐を探りあったまま、少しも前進しない。

 野崎は思わず天を仰ぎたくなったが、何も言わず、ただ目の前の宇佐美を黙って見つめた。

 正直、神原の友人だというから会ってみようと思ったのだが…

 どうも一緒に話をしていて楽しい相手ではない。それに妙に突っかかってくる。

 ろくに挨拶もせず、あまり目を合わそうとしないのは、シャイだからというよりも人間不信に近い気がした。

 そう。

 この男は、ずっと何かを警戒している———

 初めて会う人間に対しての警戒心とは違う。

 何かもっと別の…強い警戒心だ。


 野崎はしばらく考えを巡らせていたが、ふと腹を決めたように一呼吸おくと、言った。

「あなたには不思議な力があるんでしょう?その…見えないものが見えたり、とか。聞こえたり、とか——」

「…」

「それって本当?」

「本当——って言ったら、信じてもらえるんですか?」

 宇佐美は俯いたままそう聞いた。

「あなたは、そういうものを信じない人だって、神原さんは言ってた。自分たちとは真逆だって」

「…そうだな。俺は目に見えるものを信じる」

「目に見えるもの…か。でもそれが正解だよ。警察が、見えないものを信じますって言う方が信用できない」

 野崎は苦笑した。

「俺たち、こうして会う意味あります?」

「どうだろう…」

 宇佐美の警戒心が、相手に対する不信感から来ているのは何となく分かったが…

 野崎はふいに、学生時代に神原と霊能力について議論しあった時のことを思い出した。

 もし、あの頃の自分が今ここにいたら、こんなに穏やかに相手をしていただろうか?

(いや。きっとムカついて、とっくに立ち去ってるな)

 気に食わない態度と物言いに、本気で相手をする気にもならなかったろう。

 俺も大人になったな…と、野崎は心の中で苦笑した。そして、黙っている宇佐美に向かって言った。

「神原先生は変わり者だけど、意味のないことはしない人だと思う」

「…」

「確かに——俺はそういう…不思議な力は信じないけど、100%否定しているわけじゃない」

 コーヒーをひと口、ゆっくりと口に含んで椅子の背にもたれかかると、静かに腕を組んだ。

「あなたも先生の近くで仕事をしてたなら、知っているでしょう?彼の力」

「…」

「あの人には、鋭い直感力っていうのかな…見えるわけじゃないけど、感じる力があった。それは俺も認めてる」

 宇佐美は黙って野崎の話を聞いていた。

「その力で、先生には時々アドバイスをもらってた。捜査協力って感じかな。大っぴらには公表できないけど、ね」

 苦笑する野崎に、宇佐美も微かに笑ってみせた。

「多分…先生は自分の代わりに、あなたを推薦してきたんじゃないかと思ってる」

「——」

「今後は自分の代わりに…宇佐美さんの力を借りてみては?――って」

 宇佐美は黙っていた。

 ロビーの方から歓声が上がる。披露宴を終えた新郎新婦が、招待客を送り出しているようだった。その様子を、野崎は微笑まし気に眺めた。

 宇佐美はずっと黙っている。それを見て野崎は、「もっとも…」と呟いた。

「これは先生が勝手に決めたことだと思う。宇佐美さんには、なんの許可も取ってないようだし…」

 でしょう?という目をして尋ねる。

「…」

「協力するかしないかは宇佐美さん次第だよ。俺も、あなたが嫌だと言えば強制はしない」

 黙っている宇佐美に、野崎は「どうする?」と聞いた。

 宇佐美は前屈みになり、両手を顔の前で組んだまま、じっとテーブルの上を見つめていた。


 勝手なことを…


 腹立たしく思う反面、この男を信じてついていけば、——という微かな希望もあった。


 でも…


「あなたはまだ俺を知らない…それでも俺を信じるってことですか?」

「…」

「俺にどんな協力が出来るかも分からないのに。信じてくれるってことですか?それなら俺は、あなたの何を信じればいいの?」

 野崎は、そっと宇佐美の方へ身を乗り出した。

「今は信じて欲しいっていう言葉を、信じてもらうしかないな」

 野崎はそう言った。

 宇佐美は視線を上げた。

「さっきも言ったけど、俺は基本見えるものだけを信じている。ここを始点に俺は動いているから…多分それは、これからも変わらないと思う」

「…」

「でも、もし宇佐美さんの力が本物なら——それを見せて欲しい。あなたの力を…俺に信じさせてよ」

 宇佐美はじっと野崎を見つめた。

「その自信が宇佐美さんにあるなら…だけど」

「…希望的観測だね」

「初めは誰だってそんなもんだろう?」

「———」

 宇佐美は黙って野崎の目を覗き込んだ。

 その目から、先程までの強い警戒心の色が消えている。

 そのことに気づいて、野崎はハッとなった。

(——?なんだ…こいつ)


 網膜を通して何かを見られている———


 そんな気がして、ほんの一瞬眉をひそめた。

 恐怖とは違う。何か得体のしれない感情が沸々と湧いてきて、野崎は心がザワつくのを感じた。

「——」

 相手の僅かな感情の変化を見て、宇佐美の口角が上がる——が、それはほんの一瞬で、すぐに消えた。


「分かった。協力します」

 驚くほど軽い調子で宇佐美は言った。

「え?」

 あまりに急激な態度の変化に、野崎は驚いて再度「え?」と聞き返した。

「あなたを信じます」

「あ…あぁ…」

 ありがとう…と、咄嗟に礼を述べた後、

「俺も、宇佐美さんを信じるよ」と慌てて付け加える。

(なんだよ…急に——)

 戸惑いを隠せず、コーヒーを口に運ぶ野崎を見て、宇佐美は楽しそうに目を細めた。

(こいつの情緒、どうなってる?)

 複雑な表情を浮かべている野崎に向かって、宇佐美は言った。

「宇佐美でいいです」

「え?」

「俺の事。宇佐美でいいです。だとって言われてるみたいだから」

「——」

 野崎は一瞬キョトンとしたが、不覚にも声を出して笑ってしまった。笑いながら、「分かった」と頷く。

「じゃあ俺の——」

「野崎さんのことは、で」

「…」

「俺はそう呼ばせて下さい」

 野崎は肩をすくめると、「どうぞ…お好きなように」と言って笑う。

「君、変わってるな」

 思わず口をついて出てしまったが、宇佐美は少しも気を悪くした様子はなく、むしろ面と向かって言われたことを喜ぶような素振りで言った。

「ありがとう。言ってくれて」

 その台詞に野崎は内心、嫌味かよ…と突っ込みを入れたが、表面上はあくまでも穏やかな笑顔を浮かべていた。

 その時、再びロビーで賑やかな歓声が上がる。

 互いに腹を探り合ったまま。

 2人はその、新たな門出を祝う集団の声をただじっと聞いていた。

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