第一章・発端 #1

 早朝の呼び出しはいつも気が重い。

 ろくな事がないと分かるからだろう。もっとも、どの時間帯だろうとそう大差はないが…

 野崎のざきはベッドから身を起こした。

 まだ薄暗い寝室で、のそのそと身支度をする。そんな夫を見て、彩子あやこも静かに起き上がった。

 時計を見るとまだ6時前だった。

「何かあったの?」

「さぁ…分からない。事件か事故か」

 野崎は立ち上がると「まだ寝てていいよ」と呟いて顔を洗いに洗面所へ向かった。

 彩子はどうしようか…と少し思案したが、言われるがまま、再びベッドに横になった。

 結婚生活はそろそろ15年目になるが、こんなこと、別に今始まったことじゃない。

 刑事と結婚した時から、ある程度覚悟はしていた。

 朝だろうが夜だろうが、休日だろうが。何かあれば呼び出されて出ていく夫を、もう何度も送り出してきた。最初こそ、自分も一緒に起きて身支度を手伝い、玄関先まで見送っていたが…

「行くならついでにゴミ出しておいて」

 と彩子は寝ながら夫に言った。

 野崎は着替えながら「今夜、遅くなるかもしれないから夕飯先に食べてて」と彩子を見る。

「分かってます。行ってらっしゃい」

「…」

 顔も見ずにそう答える妻に、野崎は何か言いかけたが――そのまま何も言わずに寝室を出た。

 エレベーターで階下へ降りると、ゴミ集積場へ寄って燃えるゴミの袋を置く。そのまま急いで駐車場へ回り、白いSUVのエンジンをかけた。

 ちらりと車検証の日付が目に留まる。

 来年車検だな…と気づいた。

 この車もそろそろ10年目になる。家族が増えるかと思って大きな車にしたが…

 夫婦二人なら軽自動車でもいいか、と野崎は思った。

 おそらくこの先も、家族が増えることはないだろう。

 夫婦生活はとっくに冷え切っている。

 咲き始めたの桜の花を横目に見ながら、野崎は大きくため息をついた。



「よぉ…」

 気だるそうに挨拶をしてくる同僚の白石しらいしを見て、野崎は軽く右手をあげた。

 既に現着していた他の捜査員が数名、慌ただしく対応に追われている。

 野崎はその見知った顔に挨拶をしながら、「人身?」と聞いた。

「始発でいきなり…月曜の朝っぱらから勘弁してよ」

 白石は欠伸をかみ殺した

 相鉄海老名駅を5:01に出た始発。上り横浜行きの快速電車だった。

 事故が起きたのは次のかしわ台という小さな駅だ。

 現在ホームにいた乗客は、規制線の向こう側へ追いやられている。

 ブルーシートで覆われた車両の一部では、作業員たちが右往左往していた。

「今はホームドアがあるだろう?ホームから飛びこむなんて珍しいな」

「あぁ」

 野崎は眉を寄せて周囲を見回した。

 スマホを片手に、事故現場周辺を撮影している野次馬がいる。その様子に軽く舌打ちした。

「アレ、なんとかしたいな」

「無駄だよ。もうすでにSNSに何件かあがってる」

 白石は呆れたように呟いて、「マスコミよりタチが悪い」と苦笑した。

「俺たちが呼ばれたってことは、何か事件性があるの?」

「そのことなんだけど…」

 白石は少し離れた所へ野崎を誘うと、「被害者は中年男性で、まだ身元は分かってない」と言った。

「所持品は?」

 白石は首を振った。

「何か身に付けているものがあればいいけど…」そう言ってから、「実は目撃証言があって」と少し声を落とした。

「誰かに追い立てられたみたいにホームドアを乗り越えたって言うんだ」

「乗り越えた?」

 白石は無言で頷いた。

 野崎はホームドアの前に立った。

 扉の開閉部分は他の場所より10センチほど低い。180センチある自分の胸よりやや低い位置だ。

 試しに身を乗り出してみる。

 ジャンプして乗り越えようと思えば不可能ではない高さだが…

 野崎はホームを端から端まで見渡した。この駅はさほど乗降客は多くない。

 ラッシュ時はともかく、始発ならホームにはそれほど人はいなかったはず。

「その目撃証言は?」

「運転手だよ。急にホームドアに向かって走ってきて、乗り越えたって…ブレーキをかけたけど間に合わなかったらしい」

 今、ショックで救護室にいるよ…と言った。

「誰かに追われてたの?」

「防犯カメラの映像がある。まぁ…ちょっと見てみろよ」

 そう言われ、白石と共に駅事務室へ向かった。

 改札口では、駅員たちも乗客の対応に追われていた。人身事故発生のための遅延措置を、必死に説明している。

「色んな死に方があるけどさぁ…こういうのは本当に迷惑だからダメだよな」

「どんな死に方でもダメだよ」

 当たり前のように野崎は言うと、白石の肩を押して駅事務室に入った。

 事務所内も騒然としていた。

「すみません。防犯カメラの映像、もう一度見せて貰えますか?」

 助役は現場の対応に追われているのか、姿が見えなかった。代わりに、若い女性職員の一人が立ち上がると「どうぞ」と言って案内した。

 こういうトラブルは初めての経験なのだろう。突然の出来事に頬が紅潮している。

「操作の仕方は先ほど教わったので、あとはこちらで…飛び込む瞬間が映ってるから、貴女は見ないほうがいいですよ」

 そう言われて、女性は怯えた目をして頷いた。

「画像はそんなに鮮明じゃないけどね」

 女性が立ち去るのを見て、白石は再生ボタンを押した。

 電車がホームに入線してくるのは5:04。

 案の定、上りも下りも乗客はまばらだった。


 その男は、上りホームの中央付近にいた。

 不鮮明だが、年齢は40から60代くらい。細身で背はそこそこありそうだった。

 スウェットの上下。暗めのウィンドブレーカー。

 おかしな挙動をとるわけでもなく、誰かとトラブルを起こしているようにも見えない。

 普通に電車の到着を待っている乗客の一人だ。

 唯一不審に思うのは、何も持っていない点だった。鞄、飲み物、新聞や雑誌の類。何も持たず、身一つで何処へ行こうとしていたのだろう?

「どこまでの乗車券を買ったのかな?」

「終点の横浜まで行くつもりだったらしい」

「横浜に用があったのか…」

「ここ」

 白石に言われて野崎は画面を注視した。

 5:04。上りホームに車両が迫ってきた。その男は、一瞬チラッと自分の背後に視線を向けた。何かを手で追い払うような素振りを見せている。

「何してるんだ…?」

 野崎が不審に思った———次の瞬間。

 男は急に走り出すと、ホームドアから身を乗り出し、頭から落ちて車両の陰に消えた。

「———っ!?」

 野崎は身を乗り出した。

「え?」

 驚いて「もう一度」と言った。

 少し巻き戻して再生する。

 男の近くに、他の乗客の姿はない。なのに男は、まるで誰かに追い立てられるように手を振り上げながらホームドアへ突進していった。

 野崎と白石は、しばらく無言で画面を凝視した。

 音声は聞こえないが、激しいブレーキ音と警笛が聞こえてくるようだった。

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