第1章・発端 #2

 3月中旬。

 川沿いの桜が、例年より少し早く咲いたと思ったら、連日の雨で早くも散り始めている。

 今年の桜は少々慌てすぎたな……と、神原かんばらは笑って言った。

「あれだけ暖かい日が続いたら、勘違いもするでしょう」

 男はそう言って、窓の外を眺めた。

 今日は薄曇りで底冷えがする。季節が冬に逆戻りしたようだった。

 大きな河川が目の前に見える古いビルの一室。

 積み上げられた雑誌の束や、書籍などが至る所に置かれている。

 だいぶ年季の入った入り口のドアには、やや掠れた文字で『光臨堂こうりんどう』と書かれていた。

 知る人ぞ知る。オカルト雑誌専門の小さな出版社だ。

 社長で編集長の神原悟史かんばらさとしは、某大学の准教授をしていたが、数年前に引退してこの出版社を作った。元々、超常現象などを熱心に研究していたので、言ってみれば趣味が高じて始めた道楽のようなものだが、意外にもコアなファン層から支持を得て現在に至っている。

 もう70になる年だが、気力も体力も、今目の前にいる男よりはありそうに見えた。

 その男——宇佐美うさみは来客用のソファーに腰を下ろすと、眠たそうに欠伸をした。


 この男を数年前から知っているが、相変わらずやる気がないというか、覇気がないというか……そろそろ40になるというのに、どこか幼く頼りない。

 神原は老眼鏡の向こうからジッと宇佐美を凝視した。

「そういえば……先週、かしわ台の駅で人身事故があったようだ」

「へぇ」

「最近多いな」

「季節の変わり目なんて、そんなものでしょう」

 大して興味がない、というように呟いた。

「死が死を呼ぶのかな」

「———」

 そのセリフに宇佐美は黙って神原を見た。

「負の連鎖反応はウイルスのように広がっていく……これは実際にあることだと思うよ」

「こじつけ過ぎですよ」

「そうかね?」

 眼鏡越しに、ジッと自分を見る神原の意味ありげな視線に、宇佐美はフッと顔を背けた。

 神原は、やれやれ……というように苦笑すると、「君もそろそろ良い人でも見つけたらどうだい?」と聞いた。

「なんですか?急に」

 ふいを突かれて宇佐美は戸惑う。

「言い寄ってくる女性はたくさんいるだろう?悪くないルックスだ」

「——」

 宇佐美は、相手の真意を推し量るようにじっと目を見たが、すぐに諦めて言った。

「そういう餌に食いついてくる魚は、ろくなもんじゃない」

「ハハッ!言うねぇ」

「もういいんです。俺は一生独りで」

 だから放っておいて下さい、と言い捨てる。

「相変わらず厭世的だなぁ……色男がもったいない」

「早く原稿チェックして下さいよ。今日、望月もちづきさんいないんですか?」

 いつもアシスタントをしてくれる女性社員の姿が見えない。この出版社唯一の社員で、50過ぎの独身女性だ。生真面目を絵に描いたような、面白みも何もない地味な人だが、余計な感情を挟まず何でも事務的にこなしてくれる点、宇佐美にとっては有難い存在だった。

「休暇中だよ。珍しく有給申請してきた」

 そう言ってニヤッと笑った。

「あれはきっと男が出来たな」

「え⁉」

 宇佐美は驚いて身を起こした。

「おや?君が気づかないとは珍しい」

「……」

「女性の僅かな変化は見ただけでも分かるもんさ」

 そう言うと、「君は少しの目を養った方がいいと思うがね?」と笑った。

 ムッとする宇佐美を見て神原は立ち上がると、「お疲れ様。原稿、確かに受け取ったよ」と頭を撫でていく。

 子供扱いされて、宇佐美は不貞腐れたようにソファーに身を沈めた。

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