第4話
「パンケーキお待たせしました」
僕がバター抜きのパンケーキをテーブルに置くと、彼女は小さく会釈をした。手にはカバーにかけられた文庫本が開かれている。いつも何を読んでるんだろうと気になったが、訊けるわけがなかった。
僕はテーブル端の伝票立てに伝票を入れて立ち去ろうとしたが、その瞬間きらりとしたものが目に入って思わず立ち止まってしまう。
「何でしょうか?」
「あ、いえ……」
不自然な静止に彼女の顔がこちらを向く。
必死に頭を回転させたが咄嗟にうまい言い訳が見つからず、僕は伝えるつもりはなかった思いを言葉にした。
「綺麗な眼鏡ですね」
銀のテンプルに繊細な装飾の施された細縁の眼鏡は足が止まるほどに美しかった。本を開く彼女にとてもよく似合っていた。
「女性を口説くなら眼鏡よりその奥の瞳を褒めるべきだと思いますよ」
「え、あ、うん、そうですよね」
「けど口説いてないのなら」
彼女は栞を文庫本に挟んで、静かにテーブルに置いた。
「ありがとうございます。この眼鏡お気に入りなんです」
とても嬉しそうに微笑む彼女を見て、僕は眼鏡の美しさなんてすぐに忘れた。
●
「心って繊細なんだよね」
だから接客業が成り立つんだけどさ、と伏上さんは言い添えた。
彼女は自分の明るさが他人をどれだけ幸せにしているかわかっているようだ。それが目に見える価値に代わるということも。
「コントロールが難しいんだ。自分の心だからって自分で全部管理できるわけじゃない。だからお客様の心休まる時間を整えてあげられれば、そこに対価を支払ってくれる。感謝も乗せてね」
僕はフロアを見渡した。ピーク前の店内にはまばらに客が座っており、それぞれに食事を楽しんでいる。
料理だけじゃない。磨かれたテーブルに大きなソファ、穏やかな音楽、洗う必要のない空の食器、ボタン一つですぐにやってくるスタッフ。
それらすべてがお客様の憩いの場を作り上げていた。
「人間って大変だよね」
ピンポン、と音が鳴る。
「傷つきやすいくせに治りにくい、そんな厄介なのを抱えて生きてかなきゃいけないんだもん」
伏上さんは注文票を持って呼び出しベルの押されたテーブルへ向かった。注文を受けてから、キッチンに戻ってオーダーを伝える。パンケーキ、と聞こえた。
レジに家族連れの客が向かうのが見えたので、僕は伝票を受け取り会計を行う。お釣りを渡すと「ごちそうさま」と笑顔をくれた。
「ハンバーグおいしかったそうですよ」
「キッチンに伝えてあげて。喜ぶから」
ぐっと親指を立ててから「わたしも今日のまかないはハンバーグにしようかなあ」と呑気なことを言った。僕は笑う。
きっとバイトリーダーというのは、誰よりも他人の心が見える人がなれるのだろうと思った。
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