第3話
「パンケーキください。バター抜きで」
それはここ一年のホール経験者なら誰もが一度は受けたことのある注文だ。彼女はバターが苦手だった。
「好きや嫌いに悪者はいないと思うの。私がバターを嫌いだからといってバターは何も悪くない。もちろん私だって悪くない。好みの問題だもの。でも、そのせいで悪くなるものはあると思う」
「たとえば?」
「バター農家さんの私に対する印象とか」
メープルシロップを浸るほど垂らしたパンケーキを口に運びながら「要は心の問題なの」と彼女は言っていた。僕は「ふうん」と頷く。
そのときの僕は「バターって農家が作るんだっけ」ということばかりが気になっていた。
●
「バターって農家の人が作ってるんでしたっけ」
「え、知らないんだけど」
突拍子のない質問に伏上さんは「なんでバター?」と困惑していた。それはそうだよなと僕も思う。
「わたしが聞きたいのはあの子のことだよ」
「そうでしたね」
「なんでもう来ないの。引っ越しでもした?」
キッチンには聞こえないように伏上さんは少し声を潜める。その表情には興味よりも心配のほうが大きく表れていた。優しい人なのだろう。
「別れたんですよ、僕たち」
僕は簡潔に伝えた。誤解する隙もない。
伏上さんはため息交じりに「やっぱり」と呟いた。
「じゃなきゃあんなにはっきり言えないもんね」
「ですね」
キッチンの中から水の流れる音がする。調理器具でも洗っているのかもしれない。伏上さんが「嵐の前の静けさ」と表現していたディナータイム前の閑散時だというのにやることが多くて大変だなと思う。
ただ客が増えればホールの仕事のほうが多くなるので、伏上さんとお喋りしている罪悪感はまったく無い。
「結構あっさりしてるんだね」
僕に向けていた目を店内に戻して伏上さんは言った。
「そうですね。僕もびっくりしてます。てっきりもっとヘコむもんかと」
「えっと、いつ別れたの?」
「さっきです。学校からここに来るまで」
「あーほんとにさっきだ。じゃあこれからだね」
何を言われているのかよくわからなかった。
相変わらず心配そうな表情を浮かべている。看板娘にこんな顔をさせてしまって、僕は今日の売上のほうが心配だった。
「まあ、てことで結構平気なんで気にしないでください。バイトもいつも通りできてますし」
「いつも通りか。そうだね。そうするしかないもんね」
「なんだか意味深ですね。もしかして伏上さんって失恋のプロなんですか」
「そんなプロなりたくないんだけど」
そこでようやく伏上さんは表情を元に戻した。僕は胸をなでおろす。
「でもまあ平船くんよりは経験アリだよ。先輩だからね」
「頼りになります、失恋先輩」
「やっぱやだなあ」
伏上さんは少し笑って、少し陰った。もしかしたら昔の別れを思い出させてしまったか、と不安になる。
けれどそれも一瞬のことで、すぐに表情を戻す。けれど声音はまだ少し暗かった。
「心の問題なんだよね。結局」
彼女みたいなことを言うな、と僕は思った。
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