第3話

「パンケーキください。バター抜きで」

 それはここ一年のホール経験者なら誰もが一度は受けたことのある注文だ。彼女はバターが苦手だった。

「好きや嫌いに悪者はいないと思うの。私がバターを嫌いだからといってバターは何も悪くない。もちろん私だって悪くない。好みの問題だもの。でも、そのせいで悪くなるものはあると思う」

「たとえば?」

「バター農家さんの私に対する印象とか」

 メープルシロップを浸るほど垂らしたパンケーキを口に運びながら「要は心の問題なの」と彼女は言っていた。僕は「ふうん」と頷く。

 そのときの僕は「バターって農家が作るんだっけ」ということばかりが気になっていた。



「バターって農家の人が作ってるんでしたっけ」

「え、知らないんだけど」

 突拍子のない質問に伏上さんは「なんでバター?」と困惑していた。それはそうだよなと僕も思う。

「わたしが聞きたいのはあの子のことだよ」

「そうでしたね」

「なんでもう来ないの。引っ越しでもした?」

 キッチンには聞こえないように伏上さんは少し声を潜める。その表情には興味よりも心配のほうが大きく表れていた。優しい人なのだろう。

「別れたんですよ、僕たち」

 僕は簡潔に伝えた。誤解する隙もない。

 伏上さんはため息交じりに「やっぱり」と呟いた。

「じゃなきゃあんなにはっきり言えないもんね」

「ですね」

 キッチンの中から水の流れる音がする。調理器具でも洗っているのかもしれない。伏上さんが「嵐の前の静けさ」と表現していたディナータイム前の閑散時だというのにやることが多くて大変だなと思う。

 ただ客が増えればホールの仕事のほうが多くなるので、伏上さんとお喋りしている罪悪感はまったく無い。

「結構あっさりしてるんだね」

 僕に向けていた目を店内に戻して伏上さんは言った。

「そうですね。僕もびっくりしてます。てっきりもっとヘコむもんかと」

「えっと、いつ別れたの?」

「さっきです。学校からここに来るまで」

「あーほんとにさっきだ。じゃあこれからだね」

 何を言われているのかよくわからなかった。

 相変わらず心配そうな表情を浮かべている。看板娘にこんな顔をさせてしまって、僕は今日の売上のほうが心配だった。

「まあ、てことで結構平気なんで気にしないでください。バイトもいつも通りできてますし」

「いつも通りか。そうだね。そうするしかないもんね」

「なんだか意味深ですね。もしかして伏上さんって失恋のプロなんですか」

「そんなプロなりたくないんだけど」

 そこでようやく伏上さんは表情を元に戻した。僕は胸をなでおろす。

「でもまあ平船くんよりは経験アリだよ。先輩だからね」

「頼りになります、失恋先輩」

「やっぱやだなあ」

 伏上さんは少し笑って、少し陰った。もしかしたら昔の別れを思い出させてしまったか、と不安になる。

 けれどそれも一瞬のことで、すぐに表情を戻す。けれど声音はまだ少し暗かった。

「心の問題なんだよね。結局」

 彼女みたいなことを言うな、と僕は思った。

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