新たな旅へ
第41話 言伝
緑色の醜い手が冥界の紋章にあてがわれ、重い石の扉を押し開けようとしたその時、一羽の鴉が空を切り、ゴツゴツとした手の肉を嘴で突いた。
看守の精霊スプリガンが突かれた方の手を庇い、もう片方に握っていた縄から手を放す。囚人モルダを繋いでいた縄が、石廊下に落ち、パタリと湿った音を立てた。
白き羽の渡鴉――ダグダ神の遣いが旋回し、モルダの背後で翼の生えた
『ダグダ様の
そう伝えるや否や、白鴉は大きな翼でモルダを抱くと陣風の中に姿を消した。
人の子であるモルダにはその声が聞こえず、弱視の視界では今何が起きたのかはっきり見ることもできなかった。突然翼のはためく音を聞き、霞んだ視界に白い光が舞ったかと思えば、自分を引き連れていた緑色の塊が身を低くし、後ろに誰かが立つ気配を感じた。戸惑ううちに視界は白一色に染まり、次の瞬間には暗転した。
思考が追い付かぬうちに視界に色が戻る。
見慣れた景色だった。
友、グウィオンと過ごした大釜の部屋。
壊れたはずの大釜が、以前と同じように火に焚かれている。今までの出来事が悪夢であったかのように、全てが一年前と同じである。友がいなくなる前と同じ――。
「……グウィオン」
そう呼べば、友が姿を見せてくれるような気がした。
「グウィオン……」
「モルダ」
しかしそれはグウィオンの低く優しい声ではなかった。
竪琴のように美しく麗しい声。
あの日、この世から消えたはずの声。
「ク、クレイルィ……様!」
自分が殺めたはずの女神の子が何故――。
正面から近づいて来る足音。
モルダは両手で顔を覆った。
顔を上げていられるはずがなかった。
足音が目の前で止まる。
モルダは顔を両手にうずめたまま震える声で言った。
「ク、クレイルィ様、申し訳ございません……。わたしは――わたしは復讐心に侵され、貴女様に毒入りのワインを。親切にしていただいた御恩を忘れ、命を奪ったこのわたしに、どうか貴女様のお気の済むまで罰をお与えください……!」
そう言いながらも、体が震え、恐怖に足がすくんでいる。
娘は鹿革の手袋を嵌めた手で、優しくモルダの肩に触れる。
「モルダ」
「はい……」
震えの止まぬ友に、娘は優しく語り掛ける。
「大丈夫。わたしはクレイルィではありません」
「え……? で、でも、お声が……」
「声だけですよ」
モルダが恐る恐る両手で隠していた顔を上げる。肩に乗せられた手、その手の主は、弱視のせいで判然としない。しかし自分の知るクレイルィとは髪色も髪型も違っていた。
娘がモルダに微笑みかけて続ける。
「モルダ、今、貴女にお伝えすることがあります」
「はい……」
「貴女はクレイルィを殺していない。貴女は無実です」
「わたしが……無実……?」
「貴女はアヴァグドゥに利用されただけ」
「そんな……、急にそんなことを言われても……」
「信じられませんか?」
「はい……。すみません。もしかしてわたしは、処刑を目前にして恐怖の末に卒倒し、夢でも見ているのではないでしょうか」
「いいえ、これは夢ではありません。貴女の友が、貴女の無実を証明したのです」
「わたしの友……。グウィオンが!?」
一瞬で目が覚めたように娘の手を両手に取り、その柔らかく温かい手を強く握りしめながらモルダが聞く。
「彼は――グウィオンは生きているのですか!? 貴女はお会いになったのですか!?」
「ええ」
娘は少し驚いたが落ち着いて答えた。
「彼は無事ですか!?」
「ええ、わたしがお会いした時には無事でした」
「彼は今何処に!?」
娘は一間置き、残念そうに首を横に振って答えた。
「それは、わたしも存じ上げません」
モルダの目にじわりと涙が浮かぶ。
娘がその涙を指でそっとぬぐい、慰めるように言う。
「居場所はわかりませんが、彼から
「言伝……」
『 親愛なるモルダ・オ・リエルウィ
心配をかけてごめん。
僕は許され、自由になった。
君も、もう、自由だ。
互いに好きなところへ行き、
好きに生きよう。
お元気で。
君の永遠の友 グウィオン・バハ 』
モルダの目から、ほろほろと涙がこぼれた。
モルダ・オ・リエルウィ
グウィオン・バハ
いつかの夜に、互いにつけた互いの名前。
自由になる日を願って、祈りを込めて呼んだ二人の名前。
それを知るのは、自分を除いてグウィオンただ一人――。
生きている。
グウィオンはこの世界の何処かで生きている。
たとえ居場所がわからなくても、
生きてさえくれればそれでいい。
生きてさえくれれば、
きっと何時か何処かでまた会える。
モルダは友からの言葉を胸に抱くように両手を胸の前に組んで瞳を閉じた。頬を伝った涙が一粒、口角を伝い唇を濡らした。
そっと瞼を持ち上げ、娘を見つめ、赤毛の少女が誰何する。
「言伝をありがとう。貴女の名前は?」
「わたしの名はタリエシン。前世の名は――」
娘は続く名を吞み込み、
かつての友に、ただ切なく微笑んだ。
――モルダに自分の正体を知られないこと――
それが、モルダの自由と引き換えに、女神と交わした約束だった。
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