第42話 不器用な女神

 ケリドウェンは北の塔の自室に戻った。高い天井に細長い窓、窓際のテーブルと椅子、部屋の中で豪華と言えそうなものは天井からカーテンの釣り下がったベッドだけ。女神の部屋というには質素な部屋に、憂いだけが有り余るほどに満ちていた。


 冷えきった窓にそっと手を触れ、凍り付いた青霊湖を眺める。湖面は午後の陽光に温められ、潤んでいるように見えた。しかしそれは錯覚でしかなく、女神が瞼を閉じると涙がはらはらと頬を濡らした。


 ケリドウェンは窓辺の椅子にかけ、テーブルの上の短剣を手に取る。それは青霊湖から見つかったアヴァグドゥの短剣。クレイルィの命を奪った短剣だった。


 女神は二人の子供を失った。この先いくら時が経っても会うことは叶わない。命がある限り――。


 カシャン、

       カシャン、

 カシャン、

       カシャン、


 甲冑が廊下を歩く音が聞こえ、その音が部屋の前で止まった。

 ひと間置いて、足音の主が叩扉こうひする。


 ケリドウェンは短剣を置き、「どうぞ」と言って自らも席を立つ。

 扉を開けたのは、女神に呼ばれて馳せ参じた首無し騎士。いつものように小脇に自分の首を抱えている。しかし、今日は板金の鎧兜に血が飛んでいた。


「遅かったわね、デュラハーン」

「申し訳ありません。道中、人の子に遭遇しまして」

「人の子に……。それでまた目つぶしを?」

「いいえ、たらい一杯の血を浴びせて、みねうちを」

「そう。優しくなったわね、と言えばいいのかしら」

「騎士にとってそれは褒め言葉になりませんね」

「それもそうね」と、ケリドウェンは薄く微笑む。

「これを言うとまた褒められてしまうでしょうが、その人の子ら、外に打ち捨ててはおけず、僭越ながら城に運び込ませていただきました。メイドに言って、一階の一室に寝かせております」

「構いません」

 ケリドウェンはそう言うと、テーブルの上に畳んであった地図を手に取り歩み寄り、それをデュラハーンに押し付けた。


「あの話は聞いているかしら」

「モルダを解放する件ですか」

「ええ。貴方を呼んだのは他でもない。あの子をこの場所へ連れて行って」


 首無し騎士は地図をガントレットにつかまされ、それを広げて息を飲む。

「ここにワタシが……?」

 インクで囲まれた街は、ギルドで栄える繁華街。人目を嫌う騎士が望んで行く場所ではない。

「その手前まででいいから、お願いよ」

 女神に頼み込まれては断れず、地図を脇に仕舞い込む。

「しかし、よろしいのですか? グウィオンばかりでなく、あの人の子までも手放して」

「いいのよ。あの子達を拾った時からモルダが十五になったら二人揃って下界へ戻すと決めていたの。そのために、親がなくとも生きて行く術は教えたつもりです」

「確かに貴女はあの子らを働かせるのに余念がなかった」

「あの魔薬作りが最後の仕事だったのよ。あれを乗り越えれば下界でどんなに過酷な仕事に就いたとしてもやり遂げられるでしょう」

「それはそうでしょうね」

 ろくに眠れもしない仕事。それを人の体で一年も続けたのだから大したものだった。


「初めから決めていたのなら、何故グウィオンに自分の正体を知られないこと、などという条件を出したのですか? 貴女のそうした親心も何もかも全てを明かせば、誰もが幸せになれたものを」


「魔薬と引き換えに自由を得る。そういう取引だったから――。魔薬は損なわれた。タリエシンはあの場で罪に報いて許され、自由を得た。けれどモルダの自由は、それとは関係ないもの。他の何かと引き換えなければ――。取引とはそういうものでしょう?」


 デュラハーンは小脇に抱えた首で嘆息し、部屋を後にする前につぶやいた。


「ケリドウェン、貴女は本当に不器用な人だ。

 だからといって、自分の命までも不器用に扱わないでくださいね」




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