第7話 忘れ得ぬ、隣人

 今でも忘れられない人物がいる。

 彼は、私が入居したアパートの隣部屋に住んでいた。

 引っ越しの挨拶に伺った際のことは、いまだに覚えている。呼び鈴を鳴らした私を彼はどこか怯えたような、顔色を窺うような目で見ていた。

 引っ越しの挨拶を済ませるやいなや、彼は「ど、どうも、よろしくお願いします」とだけ言い残し、私から逃げるように扉を閉めた。自分の名を名乗ることすらしなかった。ほんの僅かな時間顔を合わせただけであったが、年齢不詳の病的な相貌が、いやに印象に残った。だがその時は、人見知りで引っ込み思案な人なのだろうと、特に気にも留めなかった。

 その後、私はそのアパートで暮らし始めたのだが、最初の挨拶を交わして以降、彼の姿を見かけることは無かった。彼が住んでいる筈の隣室も、昼夜を問わずしんと静まり返っていた。出かけている様子も無いので、部屋にいる筈なのだが、時折微かな物音がするだけで、人の気配のようなものを全く感じさせなかった。

 ある日、同じアパートの住人(私の母親と同じくらいの年齢の女性で、1階に住んでいた)と立ち話をしていると、たまたま彼の話題になった。その人曰く、どうも彼は重い持病を持っており、生活保護で暮らしているとのことであった。身寄りも無く、1年ほど前からこのアパートで暮らしているのだという。気軽に散歩することすらままならない身体なので、窓辺に座り、日がな一日、外を眺めるのが彼の日課なのだという。

 私は通勤がてら、それとなくアパートの彼の部屋の窓を見上げてみた。薄いレースのカーテンが揺れ、その奥に彼の顔が見えた。柔和で、穏やかな表情であった。初めて出会った時の病的な顔とはまるで別人であった。声をかけようかとも思ったが、びっくりさせては悪いと思い、そのまま何も言わずに通り過ぎた。

 会社からの帰り道、再びそれとなく、彼の部屋の窓を見上げてみた。彼は変わらぬ様子で、窓縁から静かに外の様子を眺めていた。一日中外の景色を眺めているだけで飽きないのだろうかと思ったが、彼の朗らかな表情からは、そんな負の要素は一切感じられなかった。本当に、心から満たされているような、そんな顔であった。

 その時、どこからか「わあ、幽霊だ、幽霊!」と叫ぶ声が聞こえた。声がした方を見ると、下校途中の小学生達が彼の方を指さし、囃し立てるように叫んでいた。彼は何も言わず、ただじっと寂しげな瞳でそんな小学生達の姿を見ていた。子供達の目には、一日中窓辺に佇み外の景色を眺め続ける彼の姿が、不気味なもののように見えたのであろう。

 だが相手は、身体を悪くして満足に出歩くことも出来ない病人である。子供とはいえ、侮辱していい筈が無い。私は、彼を指さしながら囃し立て続ける子供達に近づくと「あの人は身体を悪くして自由に出歩けないんだ。そんな言い方は止めなさい」と言って叱りつけた。子供達は吃驚した様子で、逃げるように駆けて行った。

 私は「おじさんにちゃんとごめんなさいと言いなさい」と逃げ去る子供達の背中に叫ぼうとしたが、それより先に、窓辺にいた彼が私に声をかけてきた。

「いいいんです、構いません。子供にとっては、気味の悪いおじさんでしょうから。」

「しかし……」

 私は釈然としなかったが、彼はあくまで柔和な表情のまま首を振った。

「自分の部屋の中だと思って、少しボーっとし過ぎました。今度からは少し気をつけます。」

「はあ……」

「お隣さん、でしたよね?」

「は、はい!」

 一度きりしか顔を合わせたことのない自分の顔を彼が覚えていたことに、私は驚き、思わず声が上ずってしまった。

「今日はどうも、ありがとうございました。」

「そんな、御礼なんて。」

「いえね、人と話すのは、その、本当に久しぶりだったので……。つい嬉しくなってしまったんです。」

 そう言うと彼は、ゆっくりと窓から顔を出して、私の方を見た。

「もしよろしければ、今後ともよろしくお願いします。」

「ええ。私でよければ。」

 私の返事を聞いた彼は、はにかむような表情を浮かべると、どこか恥ずかしそうに顔を引っ込めた。

 最初は不気味な印象だった隣人が、本当は優しく穏やかな性格であるということが分かり、私は何か得をしたような気分で自分の部屋に戻った。


 事態が急転したのは、それから数日後だった。

 私が仕事から帰ると、アパートの周りではけたたましくサイレンが鳴り響き、敷地の外にまで人だかりができていた。人だかりの向こうに、警察と救急隊の制服が忙しなく行き交っているのが見えた。何かろくでもないことが起きたのだということが、直感的に理解できた。

「ちょっと、ちょっとどいてください。」

 私は人だかりを押しのけて、アパートの2階にある自分の部屋へと向かった。胸騒ぎと言うか、嫌な予感がして仕方が無かったのだ。

 そして予感は的中した。警察と消防は、私の隣の部屋――つい先日言葉を交わしたばかりの彼が住んでいた部屋――に、入れ代わり立ち代わり出入りしていた。どういう訳かその全員が、異常なまでに緊迫した面持ちであった。

「お隣さん、亡くなったんですって。孤独死だったそうよ。」

 いつの間にか私の背後に現れていたご近所さん――以前私に彼の素性を教えてくれた女性――が、そう教えてくれた。

「そう、なんですか……」

 私は彼が、重い持病を患っているという話を思い出していた。しかし、あまりにも急すぎる。つい数日前は、普通に言葉を交わせるくらい元気だったはずだ。私はまだ現実を受け止めきれずにいた。

 だが――。次第に私は、隣室に出入りする警官達の明らかに異様な雰囲気に気付いた。

「あの……なんでこんなに警察が来ているんですか?」

 隣室に出入りする警官の数が、明らかに多すぎた。事件性の有無を調べるにしても、あまりに多人数過ぎた。

「……あんまり亡くなった人を悪く言っちゃいけないんだろうけど……」

 ご近所さんは、口籠りながら私にそっと耳打ちした。

「あのお隣さん、15年前くらいに起こった○○市小学生誘拐事件の犯人だったんだって。」

 頭の芯を金槌で殴られたような衝撃だった。

 ○○市小学生誘拐事件。○○市在住の無職の男が、下校途中の女子小学生を誘拐して数か月にわたって監禁・暴行した挙句、最後は人気のない山奥で殺害しようとした事件だった。幸いにして、被害者はすんでのところで犯人の元から逃げ出して保護され、犯人の男もその後すぐに逮捕された。犯行内容の異常性から、当時はかなり大々的に報道され、世間を震撼させた事件だった。

 あの「彼」が、その犯人――? 俄かには信じられなかった。つい数日前に目にした彼の柔和な表情と、凶悪な犯罪者とが、私の中ではどうしても結びつかなかった。

 私は警官達が出入りする隣室のドアの中を、そっと覗き込んだ。そしてすぐに後悔した。部屋の中に垣間見えた光景は、私が彼に抱いていた幻想を完全に破壊するものであったからだ。

 部屋の床や壁には、隙間なく防音シートが敷き詰められていた。隣室の物音が全く聞こえなかったのは、彼が物静かだったからではない。全く音漏れがしないように彼自身が細工していたのだ。

 一体彼は何故そんなことを? その疑問に対する答えもまた、部屋の中の至る所にあった。部屋の窓から盗撮されたと思われる、登下校中の少年少女たちの写真、写真、写真……。夥しい数の、年少者の写真が、部屋の至る所にピン止めされていた。

 ……彼が一日中窓辺に佇み、外の風景を眺めていたのはこういう理由からだったのである。彼は、ただ気晴らしに外を眺めていたのではない。自分の次の「獲物」となる人物を、刑務所から出所した今もなお、虎視眈々と狙っていたのだ。

 あの日、彼が見せた柔らかな笑顔と、はにかむような表情を、私は思い出していた。あれはひょっとして、優しさでも何でもなく、ただ単に獲物を前に舌なめずりするような、肉食獣と同じ獣性のなせる業だったのではないだろうか。よくよく考えてみれば、自分自身の姿を侮辱されてなお、哀しみの欠片すら見せない人間が果たしているのであろうか。実のところ彼には、子供達の侮辱の言葉など聞こえてすらいなかったのではないか。ただ「活きのいい獲物がいる」という事実しか目に入っておらず、残忍な狂宴を前にした歓びに心を震わせていただけだったとしたら……

「重い持病って、ようするに、そういう性癖の事だったのかしらねぇ……」

 私と同じように、部屋の中を覗き込んでいたご近所さんが、眉を顰めながらそう呟いた。

 性癖――。確かにそうなのかもしれない。人である以上決して逃れ得ぬ、ある意味では不知の病だ。罪を犯し、10年以上も投獄されてなお逃れ得ぬさがというのであれば、それはもう確かに「重い持病」と言っていいだろう。

「すみません。部外者の方の立ち入りはご遠慮願います。」

 私達の姿に気付いた警官の一人が、遮るようにドアを閉めた。私は放心したような状態で、自分の部屋に戻った。

 その後のことは、あまりよく覚えていない。警察による隣室の家宅捜索は深夜にまで及んでいたように記憶しているが、私にはもう、騒音に文句を言う気力すら残っていなかった。壁にもたれるようにして放心していると、捜査を終えたと思われる刑事の声が聞こえてきた。

「死因はどうも急性心不全らしい。今のところ、事件性は無いとのことだ。」

「仏さんには悪いですが、何か起こる前に死んでくれて不幸中の幸いですね。」

 不幸中の幸い。本当にその通りだと思った。彼が何を考えてこの部屋に潜み続けたのかは、最早永遠に分からない。だが、その悍ましい性癖が彼の中でいまだに醸成され続けていたことは、紛れもない事実なのだ。故人の名誉も糞も無い。不幸中の幸いそのものであった。

 結局私はそれからすぐ、そのアパートから引っ越した。生理的な気持ち悪さや、犯罪者の隣室という忌避感も勿論あった。だがそれ以上に、私の中にはもっと大きな、拭いきれない後味の悪さがあったからだ。

 それは、私があの男に「親近感を覚えてしまった」という、消しようがない事実であった。言い訳はいくらでも出来る。だが、私が異常な犯罪者の本性を全く見抜けず、その人間性を完全に見誤ったという事実は、消えない。獲物を渉猟する小児性愛の犯罪者を「優しい人物」と誤解してしまったという過去は、消えないのだ。

 ひょっとして私は、これから先の人生においても、重大な犯罪の片鱗を見過ごし、結果的に取り返しのつかない悲劇の片棒を担いでしまうのではないか。そんな不安感に心を押し潰されそうになり、私は逃げるようにそのアパートを退去した。


 あれから、もう5年以上の歳月が過ぎた。

 私はいまだに、彼のことが忘れられない。

 そして、自分自身に対する不安感も、全く消えずにいる。

 私の隣を通り過ぎる人々の顔を見るたびに、その表情の向こうにある本当の顔を、疑わずにはいられない。

 恐れずにはいられない。

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 以上は、20XX年に発生した未成年者連続誘拐殺人事件の犯人、井島いじま塁人るいとが所持していた直筆のメモ帳からの抜粋である。

 井島の弁護人は、本メモの記載を元に「井島は20代前半に住んでいたアパートにおいて、○○市小学生誘拐事件の犯人と接触したことにより強い精神的ショックを受け、PTSDを患っていた可能性が極めて高い」として、減刑を求めた。だが裁判所は「誘拐行為に対する忌避感をメモに書き記していた犯人が、その後誘拐行為に手を染めたことに関して、弁護人の主張では説明がつかない」として、弁護側の申し立てを却下。井島には死刑判決が下され、確定した。

 なお、判決とは別に、精神医学分野や犯罪心理学分野の複数の専門家から「ある事象に対する大きすぎる忌避感や後ろめたさが、逆にその事象に対する重大な関心や興味を惹起する可能性についても議論すべきではないか」との問題提起がされたこともあった。だが、井島に対する厳罰を支持する世論はあまりに強く、そういった問題提起は真剣に議論されることなく、霧散して終わった。

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