第8話 日本特殊災害対策研究会事件から考える、狂信という病理

 日本特殊災害対策研究会(以下「日災研」)による特殊詐欺事件に関しては、平成の終わりから令和の初めにかけて様々な方面で議論を呼んだため、記憶に残っている読者も多いことかと思う。最終的に当該事件の裁判は、日災研の代表(といっても、実質的に日災研のメンバーは彼一人である)であった坂邊さかなべ紀仁のりひとに対し、懲役2年執行猶予4年の有罪判決が下される形で結審した。

 日災研とは如何なる団体だったのか。HP(現在は閉鎖)を確認すると、トップページにこんな文言がある。

 『悪霊、怨霊、魔障、霊障。全て退治します。』

 日災研代表である坂邊はHP上において「悪霊、怨霊、魔障、霊障など、人知を超えた災害を『特殊災害』と定義し、その対策について日夜研究しております」と謳っていた。と同時に「当研究会の活動はお祓いや除霊といったオカルティックなものではありません。祟りや魔障といったものは、人間の精神活動――その人物の人格形成の核となっている心裡的基点――に起因するものがほとんどです。我々はそういった心理的基点を探り、その原因となっている事物を『取り除く』ことにより、特殊災害による人的被害を解消することを目的としております」とも語っている。読んでいるだけではよく分からないが、要するにこの坂邊なる人間は「科学的手法により悪魔祓いを行う新進気鋭の退魔師」を自称し、その界隈で名を広めつつあった人物であった。

 こうして徐々に名を広めつつあった日災研であったが、そのあまりにも怪しげな活動が問題視されるのも時間の問題であった。日災研に自らを悩ませる怪奇現象について相談した結果、怪しげかつ高額なアイテム(日災研は「霊異物」と呼んでいた)を購入させられる被害が続出した。そうした被害者の親族からの通報により、団体設立から僅か1年余りで、坂邊は詐欺罪で逮捕されている。

 ニュース等で聞き及んだ方も多いと思うが、この事件はとにかく異例ずくめのものであった。警察は坂邊を霊感商法による詐欺の容疑で逮捕したが、坂邊は終始一貫して犯行を否定した。ここまでであれば、ごく普通の詐欺事件であった。自分が詐欺行為を行っていたと簡単に認める詐欺師などいない。驚くべきは、彼のその主張であった。

 坂邊はこう主張した。「自分は霊感商法など行っていない。祟りや霊障などというものは非科学的なオカルトであると依頼者には説明していたし、メモや音声記録も残っている。その上で、私は依頼者たちが心の安寧を取り戻すその手助けをしたのだ。お金を払って私の「悪魔祓い」を受けた人たちは皆、それが意味の無い行為であると理解していた。それでもなお、その無意味な行為に救いを求めたのだ。私と依頼人、双方の理解の元で行われたことなのだから、詐欺行為には当たらない」と。つまり、自分の悪魔祓いに意味など無いことは自分だけでなく被害者も理解していたことなのだから詐欺に当たらない、と主張したのだ。

 そして、坂邊の主張を裏付けるかのように、彼の「被害者」とされた人たちも、皆一様に彼の擁護に回った。彼等は「坂邊先生はあくまで我々を治癒するために働かれたに過ぎない。我々はその働きに対し、正当な報酬を支払ったのだ」と主張し、坂邊の主張を擁護した。即ち、坂邊の「悪魔祓い」は出鱈目であることを理解しながら、それでもなお報酬として金品を支払ったと被害者自身が言うのである。彼等はまた、こうも主張した。「出鱈目であれ何であれ、坂邊先生のおかげで我々は救われた。その事実は微塵も揺るがない。彼を批判する人たちは我々に対して何もしてくれなかった。そんな人たちの味方をすることなどできない」と。

 実際のところ、日災研による被害を訴え出たのは、被害者自身ではなく、彼等の親族関係者であった。身内が怪しげな新興宗教もどきに傾倒していく様を不安に思った親や親類が、反カルトの弁護士や警察に被害を訴え出会たのだ。被害者自身から出された被害届は、一つもない。この事実は、裁判において検察側の最大の弱点となった。なにしろ、被害者とされる人達が被害を認識しないどころか、被告人の擁護、応援まで始める始末だったのだ。坂邊による被害を声高に訴える検察と、それを否定する被害者たち。当の被告人である坂邊は悠然とした様子で、そんな彼等の相克を高見の見物としゃれこんでいた。

 被害者と検察の主張が真っ向からぶつかり合い、当の被告人は観客状態。厳正な司法の場である筈の裁判は、異常な様相を呈していた。

 結局、坂邊に対しては「懲役2年執行猶予4年」の刑が下された。被害者(とされる人々)が皆一様に坂邊の無実を訴えている中にあってのこの判決に対し、坂邊の支援者たちは「裁判所が検察に忖度した結果である」と手厳しく批判した。その一方で、怪しげなカルト団体相手に実刑を勝ち取ることが出来なかった検察側に対しても「これだけの洗脳被害者を出しながら情けない」と世論の反応は厳しかった。要するにこの裁判は、誰も得をしない結果に終わった。唯一人、被告人である坂邊自身を除いては。

 判決確定後、坂邊はマスメディアのインタビューに対しこう答えている。「裁判所の判断はよく考えられたものだと思いますよ。法律に照らし合わせて、何とか私を犯罪者に仕立て上げたうえで、私の支援者の方々の感情にも配慮して執行猶予を付ける。判決を批判する人もいますけど、筋違いですよ。裁判官の方々は皆、真実と世論、検察が作り上げたストーリーの狭間で苦慮しつつ、最良の答えを出したと思います。検察の方々も、被害者が存在しない中で有罪のストーリーを作るのはさぞかし苦労されたことでしょう。彼等の面子も立って、良かったじゃないですか」と。この、司法制度に対する侮蔑とも嘲弄とも取れぬ発言を残して、坂邊は表舞台から消えた。


 その後、坂邊はどうなったのか? 世間の記憶からはもう、この事件は風化しかけている。だがジャーナリストの端くれとして、私はこの事件をどうしても看過できなかった。この事件には、単なる詐欺事件ではなく、あらゆる宗教団体につきまとう「狂信」の原理を読み解く重要な要素が見え隠れしている。私にはそんな気がしてならなかった。自分の中の興味関心を払拭できなかった私は、坂邊のその後を追うことにした。

 何人かの関係者に取材を進めた結果、私は坂邊の現在の所在を知ることが出来た。彼は現在、中部地方某所のマンションで、隠居生活のような暮らしをしているのだという。私は坂邊に取材するため、早速現地に向かった。

 マンション玄関のインターフォンを鳴らすと、人の好さげな声で応答があった。裁判の傍聴で何度も聞いたので間違いようがない。声の主は坂邊であった。

 率直に、自分がジャーナリストであり、取材に伺った旨を伝えると、坂邊は「分かりました。ではお入りください」と、いともあっさり私を招き入れた。てっきり拒否されるか、法外な条件を突きつけられるかと身構えていた私は、出鼻をくじかれ呆気に取られてしまった。オートロックの自動扉が開扉した後も、私は素直にそこを通って良いものか、少しの間躊躇してしまった。

 私は坂邊の意図を測りかねながらも、エレベーターで彼の部屋がある階まで登って行った。部屋のインターフォンを鳴らすと、数瞬の後、ドアが開き坂邊が顔を出した。彼は人懐こそうな笑顔を浮かべると「どうぞ、どうぞ」と私を部屋に招き入れた。

 私の中の警戒心は、マンションを訪れる前よりも遥かに大きくなっていた。霊感商法裁判の被告人として検察のみならず日本人全体から非難を受けた人物の反応として、坂邊の態度は異常過ぎた。「何か裏がある」そう疑わずにはいられなかった。気を引き締めて、私は玄関の敷居をまたいだ。

 リビングルームに通された私は、それとなく部屋の様子を観察した。室内は掃除が行き届いており、整然としていた。その一方で、ちらりと見える台所には、何やら段ボールのような物が平積みされているのが見えた。

「依頼人だった方の一人が送ってくれたんです。実家でやっている果樹園で取れたリンゴだそうです。」

 台所の方を窺う私の様子に気付いた坂邊が、何てことない様子で補足した。坂邊の様子とは対照的に、私は思わず焦りの表情を浮かべてしまった。悟られぬように室内の様子を観察していたつもりだったが、相手には完全にお見通しだった訳である。

 やはり、この男は油断ならない。私は改めて、目の前の男に対する警戒心を最大レベルまで高めた。坂邊は単なる詐欺師ではない。霊感商法の被害者である筈の人々を、被害者と自己認識させないレベルまで洗脳した、恐るべき話術師なのだ。迂闊に接していたのでは、必ず足元を掬われる。

 私は姿勢を正すと、慎重に言葉を選びながら、かつ自身の動揺を悟られないように話し始めた。

「依頼者の方々とは、今でもやり取りがあるのですか?」

「ええ。私自身はあの裁判以降、依頼者の方々とはきっぱりと連絡を絶つつもりでいたんですけど、やはりどこからか、私の居場所を探し当てちゃった人がいましてね……。」

「あくまで、依頼者の側から接触してきたと?」

「そうです。私は勘弁してくれって、何度も言ったんですけどね。」

 そう言うと、坂邊は手元のお茶を一口飲んだ。

 この男の本質は全く変わっていない。坂邊の言い分を聞いた私はそう確信した。彼の主張は裁判の頃から全く変わっていない。全ての責任を被害者の側に帰せしめる他責的な言い分だ。

「ならば「迷惑である」と、はっきり断るべきだったのでは? 確定的なことは言えませんが、警察はまだ坂邊さんや被害者の方々の動向を監視していると思いますよ? 本当に被害者のことを考えるならば、完全に関係を断つべきだったのでは?」

 私はぼかした言い方をせず、はっきりと「被害者」という言葉を出すことにした。この男には、自分のしでかしたことの重大性を認識させる必要がある。そんな青臭い使命感が、その時の私の心を動かしていた。

 ……今にして考えれば、もうこの時点で、私は彼の術中に嵌ってしまっていたのかもしれない。

「確かにその通りです。私にとっても依頼者の方々にとっても、関係を続けることには何のメリットも無い。それどころか、また親族の方々に訴えられるかもしれない。でもね、それはもう私にはどうしようもないことなんですよ。」

「どうしようもない、と言いますと?」

「関係を断つのか、続けるのか。それを決めるのは相手側の判断です。私にはどうすることも出来ません。」

「どうも貴方の話は、責任の所在を被害者の方に押し付けているきらいがあるように思えます。」

 私は持って回った言い方をせず、直接的な批判を彼にぶつけた。

「検察や依頼者の親族の方々も、全く同じことを仰っていました。でもね、本当にそうとしか言いようが無いんです。貴方が先程言われたように、私は連絡してきた依頼者の方には「もう連絡してこないでください」とかなり強めに拒絶の意を伝えました。連絡してきた人、全員に対してです。住所や電話番号も何度も変えましたが、その度に彼等はそれを調べて、連絡してくるんです。あまり気は進みませんでしたが、私の方から親族の方々に連絡して、依頼者に辞めさせるようお願いしたこともあります。でも、全く無駄でした。そして私も、少し考えを改めました。彼等は本当に、心の底から私を必要としている。それを拒絶することは、彼等自身を苦しめ、不幸にしてしまいかねない、と。とは言っても、またこの前の裁判のようなことになっては叶いませんので「除霊の類は一切行わない」「金品等の授受は行わない」ことを条件に、ささやかな交流の身を続けています。」

 坂邊は私の瞳を見据えながら、ゆっくりと重々しい口調で、そう言った。

「……」

 私は、反論の言葉を失っていた。私もジャーナリストの端くれである。様々な事件の渦中にある人物をインタビューし続けてきた。人の言葉の端々に現れる嘘や誤魔化しといったものに対する嗅覚は、人並み以上であると自負している。だが、坂邊の言葉には、嘘偽りや自己弁護めいたものは全く感じなかった。彼は彼自身にとってすらどうにもならない事実のみを述べており、その言葉には苦悩や逡巡、諦観のような物が滲み出ていた。

 率直に言って、私は自分の考えが誤りだったのではないかとさえ疑い始めていた。

「……でもそう言ってもまだ、私に連絡してきたり、贈り物とかしてきちゃうんですよね。あのリンゴとかも「自宅で取れた物なんだから問題ない」って、半ば押し切られるような形で貰っちゃったんです。貴方の言う通り、警察とか親族の方とかは、全く良い顔はしないでしょうね。」

 微かに顔を綻ばせながら、坂邊はそう言った。それは笑みでは無かった。どうしようもない未来を前にした、諦めの境地のような表情であった。いつか再び、前回の裁判のようなことが起こってしまうのではないかという懸念を、受け入れているかのようにさえ見えた。

 ひょっとして彼は、事実上の被害者なのではないか。この事件を追うようになってから、頭の片隅に現れては振り払ってきたそんな考えが、再び私の心をとらえ始めていた。坂邊は、彼の信者と言ってもいい人たちの狂信により、犯罪者に仕立て上げられてしまったのではないか。彼自身には何の悪意も無く、純粋に依頼者を救おうとしていたのに、周囲の人間たちの狂気が、彼をして「霊感商法で被害者を洗脳した極悪人」という偶像に変えてしまったのではないか。そんな考えが、私の心の奥底に頭をもたげてきた。

 無論、私は必死にそんな妄念を振り払おうとした。馬鹿げた空想である、と首を振って、頭の中から自分の考えを消し去ろうとした。そんな思考は、まるで彼の話術に騙されていた被害者たちの言い分そのものだと、軟弱化しそうな自分の心を叱咤した。だが、否定すればするほど、疑念と疑惑はより深くなっていく。自分自身の、ジャーナリストとしての性かも知れなかった。

 私は意を決し、坂邊に直接的な疑問をぶつけることにした。

「坂邊さんは、どうしてこんなことになったんだと思いますか? 坂邊さん自身の考えを聞かせてください。」

「私自身の考え、ですか?」

 坂邊は、若干面喰ったような顔であった。

「よろしいんですか? 私の一方的な主張になるかもしれませんよ?」

「構いません。私はむしろ、坂邊さんの主観をお伺いしたいんです。」

 私の真意を測りかねるように訝る坂邊に対し、私はきっぱりとそう言った。言葉のアヤなどではなく、その時の私は本当にそう思っていた。一方的な独演でも何でも、坂邊自身の真意を、私は知りたいと考えていた。

「一人で喋り続けるのは正直苦手なんですよね。質疑応答、という形に出来ませんか? その方が貴方も楽でしょう。」

「構いません。」

 坂邊の提案に、私は頷いた。

 以下は、その時の坂邊とのやり取りを書き起こししたものである。


私「坂邊さんは裁判において『被害者も自分の出鱈目な行為を追認していたのだから詐欺ではない』とおっしゃっていましたが、この考えは今でも変わらないですか?」

坂邊「はい。私の考えではなく、客観的な事実なので、変えようがないですね。」

私「例えそうであっても、坂邊さんと被害者の方々との間の関係性とか、その場の雰囲気とか、被害者の方々が坂邊さんの行為を否定できない雰囲気があったのでは?」

坂邊「ごめんなさい。ちょっと言っている意味が分からないですね。雰囲気というのは?」

私「坂邊さんとの信頼関係とか、そういったものを壊したくない。そう言った気持ちが被害者の中にあったために、坂邊さんの行為を無批判に受け入れてしまったのではないか、という意味です。」

坂邊「そういう意識が依頼者様の側にあったか無かったかといえば、あったと思います。ですが私は、それが悪いことだとは思いません。何故なら、そういう「他の誰かや何かに寄りかかりたい心」こそが、あらゆる精神的病理の源であり、同時に解決策でもあるからです。」

私「どういう意味ですか?」

坂邊「HP上でも書いていたことですが、祟りや魔障といったものは、その殆どがストレスや抑鬱といった精神的要因に起因するものです。そう言った人々に対して必要なのは、第一に「支えとなる何か」です。私の元にいらっしゃった依頼人様もその殆どが、日常生活において何らかの苦難を抱えられておりました。そしてその苦しみを和らげてくれる何かも、助けてくれと縋れる誰かも、いない方々でした。」

私「そして貴方が、彼等の支えになったと?」

坂邊「非力ながら、そのように努めてまいりました。」

私「だが貴方は、無意味な除霊やら悪魔祓いやらで、被害者から金銭を徴収していた訳ですよね?」

坂邊「無意味な行いであろうと、私が依頼者様のために働いたことに間違いはありません。霊異物にしたって、海外からサンプルを取り寄せたり、閉山した鉱山跡地で希少な鉱石を採掘したり、かなりの苦労があったんです。労働に対する対価はあって然るべきです。それに、あまりに高額な返礼品は私の方できっぱりと拒絶していました。まあ、司法の場では認められず「犯罪」と認定されましたが。」

私「意味の無い行為に金を払えというのは、率直に言って詐欺以外の何物でもないと思いますが。」

坂邊「依頼者様にとっては、意味のある行為だったんです。繰り返しになりますが、私は除霊や悪魔祓いなどは「無意味なオカルト」であり、気休めにしかならないということは、事前にハッキリと申し上げておりました。ですが、依頼者様はそれでも「無意味でも気休めでも、坂邊さん以外に頼れる人はいない」と切実な表情でおっしゃっていました。第三者にとっては無意味で無価値なものに思われるかもしれませんが、依頼者様にとっては生きるか死ぬかの問題なんです。その気持ちを、蔑ろには出来ませんでした。」

私「そういった坂邊さんと依頼者の方々との関係性の是非は置いておくとして……でも私は、生意気なことを言いますが、貴方のやっていることは相手の弱みに付け込んだ詐欺師と同じにしか見えない。」

坂邊「ええ。実際のところ、私もそう思います。」

 ここで私は、しばし絶句した。目の前の男――裁判において自分の非を認めるどころか、被害者を味方につけて検察との対立劇まで繰り広げさせたふてぶてしい男――は、自分が詐欺師と同類であることを、あっさりと認めたのだ。

私「えっと……つまり坂邊さんは、ご自身が詐欺師的な行いをしているという自覚があると?」

坂邊「ええ。意味の無いことを意味があるように思いこませる、という点においては、詐欺師的な行いであることに間違いは無いと思います。ですが、私は私利私欲で動く詐欺師ではない。あくまで「詐欺師的な手法」を用いたセラピストなんです。」

私「違いがよく分かりませんが。」

坂邊「世の中には、嘘でも誤魔化しでも構わないので救いを求めている、そんな人たちがいるんです。そんな人たちを救うには、非常に哀しいことですが、嘘や誤魔化しが必要なんです。真実や正しさでは救えない人たちがいる。その認識こそが、私の依頼者のような方々を救うために必要なことなんです。」

私「私は、真実や正しさこそが、人を救う唯一の方法だと思っています。」

坂邊「残念ながら、それは違います。例えば裁判で私の証人として出廷してくれたAさん。彼女は死別した夫の怨霊に苦しめられていると言って、私の所に助けを求めてやって来ました。旦那さんは事故で亡くなったんですが、DV気質の方でAさんに何度も暴力を振るっていたんです。そして亡くなった後も、毎晩やって来ては暴力を振るっていくと、Aさんはしきりに主張する訳です。私は当然、精神科か心療内科への受診を勧めました。明らかに心的外傷によるフラッシュバックのようなものだと思ったからです。でもAさんは首を振ってこう言いました。『病院は10以上受診しました。でもどこも対応は同じ。誰も皆「私の気のせい」で全て片付けてしまうんです。私は本当に苦しんでいるんです。本当に辛いんです! それを気のせいで済まされて、納得なんて出来ますか⁉』ってね。」

私「それは、難しい問題だと思いますが……」

坂邊「いいえ。難しくなどありません。Aさんは要するに、自分の苦痛に寄り添ってくれる人を求めていたんです。彼女が精神的なストレスを抱え込んだ人間であるというのは真実ではあるかもしれませんが、それは彼女にとって何の救いにもならない。むしろ苦しみの責が自分自身にあると非難されている様な気持ちになるだけでしょう。病気の人に対して「お前が悪い」と言うのは、どう考えても得策じゃない。」

 坂邊の主張に、私は反論どころか、返す言葉すら失いつつあった。あの異様な裁判の再現のようにも感じた。だが組織である検察と違って、私は一人。助け舟は無い。つまり、圧倒的不利な状況であった。

私「それは、そういった悩みに苦しむ方からすれば、そうかもしれませんが……でも、貴方がやったことはただの出鱈目ですよね?」

坂邊「出鱈目で苦しむ人が助けられるならば、私はいくらでも道化になります。」

私「まるで自分が被害者みたいな口ぶりですね。詐欺行為を行ったのは事実でしょう?」

坂邊「先に申し上げた通り、私は依頼者の助けとなるため、それ相応の働きはしていました。仕事に対して対価を貰うのは至極当然だと思います。最も、裁判でその点は否定されてしまったのでどうしようもありませんがね。一体全体、誰を救うための裁判なのかといった疑問は今でもありますが。」

 堂々巡りであった。そして話が繰り返されるたびに、私は自分の心が坂邊の言葉に飲み込まれつつあるのを感じていた。目の前の男――詐欺行為で有罪とされた男に信を置きたいという気持ちが、自分でも抑えきれなくなってきているのを感じた。

 このままでは非常に不味い。私は話題を変えることにした。

私「坂邊さんが、日災研の活動を始めようと思った、直接的なきっかけは何だったんでしょうか。」

坂邊「きっかけ、ですか。」

 そう言うと、坂邊は手元のお茶を一口飲み干し、ゆったりとした調子で語り始めた。

坂邊「私が大学生の頃でした。同じ研究室にXさんという女性がいたんですよ。一言で言えば、劣等生でした。遅刻や講義中の居眠りは日常茶飯事。理由も告げず大学に来ない日も多かった。当然成績も最悪で、進級すら危ぶまれるほどでした。」

 その時の坂邊の瞳は、どこか遠くを見ているようであった。

坂邊「でもね、実際に彼女と話してみると、弁が立つし頭も回る。本当は物凄く優秀な子だったんです。だからどうしてそんな優秀な子があんな劣等生なのかって、研究室の皆が不思議がっていました。ある時、その謎が解けました。Xさんの授業態度を問題視した教授が、彼女と面談して「どうして学業を疎かにしているのか」と訊いたんです。Xさんの答えは明快でした。「生きていくために働かなければならないんです」彼女はそう言いました。その時分かったんですが、Xさんの両親は今で言う所の毒親だったんです。娘の行動をがんじがらめに縛る癖に、娘のSOSには一切耳を貸さない。そんな親でした。仕送りも本当に最低限で、彼女は生活するためにアルバイトを幾つも掛け持ちしなければならなかったんです。バイト先も、一つ一つ親の了解を取らなければいけないし、1日の仕事が終わる度に両親に報告書を書かなければなりませんでした。寝る時間はおろか休む時間すら、殆ど無かったそうです。そんなことをしていては、学業が疎かになるのも止む無しですよね。」

私「それで、そのXさんは結局どうなったんですか?」

坂邊「教授はその後、大学の学生支援部門とも協力して何とか彼女のサポートを行おうとしましたが、上手くいきませんでした。でもそれは仕方が無いことなんです。Xさんを苦しめている元凶は他ならぬ彼女の家族。大学には学生の家庭事情に立ち入る権限なんてありません。根本的な問題に関して対処できないのだから、どうしようもないんですよ。」

私「……」

坂邊「でもそうこうしている内に、不思議なことが起こりました。Xさんが普通に登校して来るようになったんです。それだけじゃありません。いつも疲れた顔をしていた彼女が、笑顔を見せるようになっていたんです。研究室の皆は、最初は安心しました。彼女に何があったのかは分からないが、ご両親との関係に何らかの改善があったのだろう。そう考えたんです。しかし、現実は違っていました。」

私「違っていた、とは?」

坂邊「彼女は教授と研究室のメンバー全員にこう言いました。「大学を止めて○○会に入信する」ってね。」

 ○○会というのは、当時界隈で問題になっていた新興宗教である。彼等は大学のサークル活動に紛れて勧誘行為を行うなど、主に若年層をターゲットにした布教活動を行っていた。当然、勧誘活動に伴うトラブルも多く、大学自治と信教の自由の観点からかなりの議論を呼んだ集団であった。

坂邊「彼女がバイトしていた飲食店に、たまたま同年代の○○会信者の男がやって来て、そこで懇意になったんだそうです。男はXさんの悩みに親身になって寄り添い、毒親への対処方法とか、公的支援とか色々アドバイスをするだけでなく、生活資金の援助などもしていたそうです。Xさんはもう、その男のことを完全に信用しきっている様子でした。と言うより、完全に惚れこんでしまっていて、その男の言うこと以外、何も見えていない様子でした。」

私「……」

坂邊「当然教授も、私を含めた研究室のメンバーも、必死で彼女を止めようとしました。何とか彼女を説得して、思い止まらせようとしました。でも結局、無駄でした。彼女はもう、我々の言葉には耳も貸しませんでした。哀しいことですが、それは当然の反応と言えました。」

私「と言うと?」

坂邊「Xさんは我々に対してこう言ったんです。「貴方達の言うことは正しいかもしれない。でもその正しさは、私にとって何の意味も価値も無い。私を救ってはくれない」と。実際、その通りでした。教授も大学も、何とか彼女のサポートをしてやろうとしましたが、家庭内の問題である以上、出来ることなど限られています。ハッキリ言ってしまえば、実効的な対処など全く出来ませんでした。一方でXさんに言い寄ってきた男は、プライベートな側面から彼女の支えになってくれるんです。その上、宗教団体という後ろ盾があるため、Xさんの家族相手でも全く引かない。娘を奪われたと抗議する両親に対し、○○会は顧問弁護士を通じて訴訟すらちらつかせて黙らせたんです。大学には到底できない力強い対応でした。この違いは非常に大き過ぎました。彼女にとって男と○○会は、心強い味方以外の何者でもなかったんです。」

 坂邊の表情は、どこか寂しそうであった。

 私は、ただ聞いていることしか出来なかった。

坂邊「結局、彼女はそのまま大学を去りました。私達は何とか説得を続けましたが、Xさんを翻意させることは出来ませんでした。彼女の「貴方達の正しさは私を救ってはくれない」という痛切な一言が、私や研究室の仲間の心に重く圧し掛かりました。誰もその一言に、反論の弁を持ちえなかったからです。」

私「……確かに、後味の非常に悪い話ですが……。しかしそれは、明らかにXさんの弱みに付け込んで、家族間を分断し、新興宗教の信者として取り込むための悪辣な勧誘手段ですよね? 社会通念に照らして許されることでは……。」

坂邊「その「社会通念」が救ってくれない人たちもいる、ということです。そして「社会通念上許されない存在」がその受け皿になったと、そういう話なんです。認め難いことではありますが、厳然たる事実です。実際Xさんは、己を悩ませる毒親から解放されたのですから。」

 混乱し、口が回らなくなる私を窘める様に、坂邊がきっぱりと言った。

私「……その、Xさんの出来事がきっかけで、日災研を設立されたんですか?」

坂邊「正しさだけでは救えない人々がいる。そういった人々を救えるために何ができるか。私なりに色々と勉強をして、そういった「救われない悩み」を抱えた様々な人々と接していった結果として、日災研を立ち上げました。そういった意味では、私の活動の原点は、大学時代のXさんの一件であると言っていいと思います。あそこで私の中の物事に対する価値観が大きく転換されました。人生を変えた経験、と言っていいと思います。」

 この時点で、インタビュー開始からかなりの時間が経過していた。日はとうに陰り、薄闇がマンションの部屋の中に立ち込めていた。坂邊の言葉を聞く内、私の心の中に広がってきた漠とした不安が、そのまま周囲に溢れ出ているかのような印象を受けた。

 私は坂邊に手短に礼を述べ、インタビューの終了を告げると、半ば逃げる様に帰り支度を始めた。坂邊の言葉に言いくるめられる様な、どこか敗北感のある終わりであったが、それ以上に「これ以上彼と話していると、自分も一線を越えてしまう」という、不気味な恐怖感の方が強かった。兎にも角にも、その時の私はその場所を逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのだ。

「長時間、話に付き合っていただきありがとうございます。」

 そんな私の心情を知ってか知らずか、坂邊は穏やかな口調でそう言った。内心を見透かされたかの様な居心地の悪さを、私は感じた。

「本日はどうもありがとうございました。それでは失礼します。」

 形式的な挨拶を済ませると、私はそそくさと坂邊の部屋を後にした。そして、マンションの自動ドアを通り抜け、外の世界の景色を見た瞬間、どっと身体に疲れが出た。

 裁判中も感じたことだが、やはりあの坂邊という男は油断ならない人物であった。ただ話しているだけで、こちらの心が取り込まれそうになる。そしてそれは、頭の回転や話術と言った技法的なものではない。彼自身の内面からくる人間的魅力と言ってもいいものであった。つまりは自然体。嘘偽りが全く無い純真さ(少なくとも彼と言う存在に疑念を抱いていた私にすらそう見えた)で人を惹きつける。それが坂邊と言う男であった。

 だからこそ、最も危険な人間と言えた。彼は純粋に人を救いたいと思っている。一般社会では一笑に付されるような霊障やら呪いやらに悩まされる人々の助けになりたいと、本気で願っている。そして彼等を救うためには虚偽も詐欺も許容されると考えている。そこには打算も損得勘定も無いため、嘘も偽りも一切隠匿せず、全てを信者(あえてこう言ってしまおう)に開けっ広げにしている。そして彼の信者となった人達はそんな坂邊の純真さにさらに感化され、狂信の度を深めていく……。

 頭が痛かった。考えれば考える程、頭の痛い問題であった。インタビューに成功したは良いが、これをどう記事にすべきか、私は頭を悩ませた。書き方に気をつけなければ、坂邊の信者(被害者と言い換えてもいい)をさらに増やしてしまう懸念があった。だが記事に出来なければ、取材費を出してくれた会社に申し訳が立たない。首まではいかなくても、次回以降の取材費は削られかねない。

 個人的心情とサラリーマン的債務に板挟みになり、私は溜息をついた。

 

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