第6話 地底人との遭遇(アメリカ・ペンシルベニア州)
2003年。アメリカ、ペンシルベニア州にて発生した事例。ある日、警察から州軍に対して出動要請があった。曰く「地底人に襲われているので、至急応援を頼む」とのことであった。当然の如く、電話を取り次いだ州軍の担当者は警察を騙った何者かの悪ふざけと考え電話を早々に切ろうとした。だが、表示された連絡先元は確かに州西部に実在する警察署の固定電話であり、電話の主も明らかに緊迫した口調で「町の至る所が燃えているんだ……とても我々だけでは対処できない!」と繰り返し叫んでいた。やがて、当該地区において大規模な火災が発生していること、火災に乗じた暴動が発生しているとの連絡を受け、州軍の出動が正式に決定した。連絡の合った街に到着した州軍は、空襲を受けたのかと見紛う程の火災の惨状にまず絶句した。州西部のほぼ全域から集められた消防隊の決死の消火活動により、かろうじて火災は鎮火に向かいつつはあったが、それでもなお、町の郊外や公園や森林地帯では轟轟と音を立てて紅蓮の炎が天に立ち昇っていた。州軍は消防隊と連携し、市民の保護と暴動の鎮圧に向かおうとしたが、すぐにそれが非常に困難であることに気付いた。市民は皆、彼等の命を焼き尽くそうとする火災から逃げようとはしなかったのだ。それどころか、まるで何かを恐れるかのように、駅のホールや学校の校庭などに声を潜めて一塊となり、周囲に銃を向けて威嚇射撃を行っていた。州軍や消防隊が必死に自分達は救助のためにやって来たこと、町の中は非常に危険でありすぐに逃げるべきだと諭しても、住民達は頑として聞く耳を持たなかった。彼等は怯え切った瞳で「お前達も地底人の仲間だろう!」と喚き立て、消防隊も州軍も全く寄せ付けようとしなかった。州軍指揮官はここにきてようやく、「地底人が現れた」という先の連絡がただの妄言ではなく、(如何なる経緯によるものかは全く分からなかったが)、この町の少なからざる住人が本気でそう信じていることを見せつけられた。だが、状況が状況である。すぐにでも住民を避難させなくては、大惨事になるのは明白であった。しかし、強制的に退去させようにも、住人達が銃火器で武装している以上、州軍も容易には手出しできない状況であった。その時、一人の男性が住民達と消防隊・州軍の間に割って入ってきた。州軍に緊急通報をしてきた、あの警察官であった。彼は怯える住民達に対して「彼等は私が呼んだ、本物の州軍とレスキュー隊である」と説得した。住民達はそれでもなお怯えと不信を拭いきれない様子であったが、警官の必死の説得により、一人また一人と銃や武器を捨て、州軍の指示のもと安全地区へと避難していった。緊急通報を行った現地の警官は、よほど住民に信頼されていた人物だったのであろう。彼の言葉を聞いてなお、銃を構える者はいなかった。警官はその後州軍と一緒に行動し、町のあちこちにバリケードを作っていた住民達の避難誘導に協力した。住民達が全員避難し、火災がほぼ完全に消し止められたのは、明朝過ぎであった。
事態が凡その終息を見た後、州軍の指揮官は緊急通報を行った警官に対し、一体何事が起ったのか聞き込みを行った。災害の規模もさることながら、地底人云々の通報内容や住民達の異様極まりない態度など、不可解としか言いようがない事態であった。後学のためにも、そして災害救助を行った当事者としても、指揮官はどうしても本事件の背景を知りたい、いや知らなくてはならないという使命感すら感じていた。初老の警官は、事件の背景を追求する指揮官の言葉に、微かに表情を曇らせた。どうやら彼にとって、今回の事件は町の「恥部」に等しいもののようであった。出来ることならば、部外者には語りたくはない。だが事態は既に、彼一人の胸にしまっておくには大事になり過ぎてしまっていた。そのことは、警察官である彼自身にもよく分かっている様子であった。初老の警官は、やがて観念したように嘆息すると、ゆっくりと事件の背景について語り始めた。
その集団が町にやって来たのは、1年程前であった。一見すると、市井の人間と何の区別もつかない極めて牧歌的なコミューン。だがその実体は、カルト宗教などという言葉では足りない程の狂信的かつ先鋭的な思想集団であった。名を「星に祈る殉教の民」と言う彼等の思想は、凡そあらゆる思想や宗教とは一線を画するものであった。彼等は人間に限らずこの地球上に存在する生命全てを「地球を蝕むバグそのもの」と断じ、全ての生命体の抹殺と根絶をその活動目標としていた。彼等は俗世の中に身を置くことを拒否し、町外れの自然公園に存在する洞窟の中に居を構え、そこで暮らし始めた。木々を切り倒して自分達の住居の材とし、あらゆる動植物を狩り立てて自分達の糧とした。無論、自治体への届け出はおろか相談すらもない、全くの無許可で行われた蛮行である。彼等にとってあらゆる動植物は根絶やしにすべきものであり、無軌道な自然破壊を行うことに対して些かばかりの躊躇いも無かった。そればかりか、彼等の行為を止めに来た町職員や自然保護団体のメンバーを監禁し、自分達の思想に服従するか、さもなくば死を選べと恫喝した(この件に関しては警察の半ば強制的な介入により、ひとまず大事になることは回避された)。当然の如く、町の住人達との折り合いもすこぶる悪かった。彼等は町に出て来ては、所構わず自分達の思想を喧伝し、同志になることを人々に呼び掛けた。公共の場所のみならず、住宅街やオフィス街、学校や病院にさえも無断で侵入し、「自分達に同調しないものには死よりも恐ろしい地獄が待っている」などと恫喝に近いアジテーションを繰り返した。警察沙汰になるような騒動も日常茶飯事であった。人々は皆、彼等の行動に眉を顰め、白眼視した。そしていつの頃からか、町の住人達は洞窟に住み続ける彼等のことを「地底人」という蔑称で呼び始めた。彼等の無礼千万で非常識な行動を鑑みれば、無理からぬことであった。「地底人」達の行動を何とか諫めようと論戦を挑む人もいたが、全くの徒労であった。何故なら、究極的な破滅主義者である彼等にはそもそも、論理など完全に無用であったからだ。「全ての生命が不要であるのであれば、君達の命も不要ということになるぞ」とある人が指弾した。「俺達は自分の命が不要であることを知っている。お前達は知らない。故に俺達が優位だ」地底人の一人がせせら笑いながら言った。「お前達がどんなことをしても、地球全ての命を根絶やしにすることなどできない」とある人が当然の疑問をぶつけた。「我々は真理だ。真理の前にはどんな道理も屈服する」地底人達はまるで讃美歌を歌うかのように声を揃えると、天にも届けとばかりに自らの思想を合唱し、反対者の声をかき消した。ここまで来ると、地底人達の揺ぎ無い精神的屈強さに惹かれ始める住民も現れるようになった。一人、また一人と、地底人達の住む洞窟へ移住する者達が現れるようになった。このままでは、町はあの地底人達に乗っ取られてしまうのではないか。市民も、自治体も、警察も、由々しき事態として彼等の活動に警戒の目を光らせるようになった。地底人の洞窟周辺には住民側のバリケードが作られ、武装した市民が日夜彼等の動向を監視するようになった。地底人達が町に出て布教活動を行う際は、「不必要な諍いを避けるため」という名目で、必ず10名以上の警官が随行し、彼等が少しでも暴力的な態度を示した場合は問答無用で逮捕した。「星に祈る殉教の民」の面々は、自分達に対する地底人呼ばわりを初めとする差別的な取り扱いに対して抗議の声を上げたが、同調する市民は皆無であった。それどころか、彼等の住む洞窟に強行突入し、「洗脳」された市民を奪還するべきだという声が、日増しに高まっていった。警察や自治体は、市民からのそんな声に苦慮していたが、地底人との一触即発の雰囲気は最早彼等にもコントロール不可能な域に達しようとしていた。そんなある日、町中を震撼させる奇怪な事件が起こった。複数の市民から「排水溝や下水管から奇妙な音がする」という通報が町の下水道局に寄せられた。すぐに水道局から専門の職員が派遣され、当該地区の下水道内の調査にあたった。だが、マンホールの蓋を開け、暗闇の中に姿を消した職員達は1分もたたずにそこから飛び出し、そしてこう叫んだ。「怪物だ! 怪物がいる!」と。警察と消防が出動し、市民を避難させたうえで、事態の鎮圧に動いた。銃声と怒声、壁をかきむしる音が、開け放しになったマンホールや排水溝の蓋の間から洩れ響いた。地面を揺さぶるような、地獄のシンフォニーであった。住民達が恐怖に顔を曇らせて見守る中、担架に乗せられて下水道から運び出されたのは、紛れもない怪物であった。一言で言うとそれは、人の形をした地虫であった。毒々しい程に真っ白な体をしていて、昆虫の体節を思わせる皺が全身に罅割れのように走っていた。身体の至る所に黒い針金のような体毛がまばらに生えており、まるで触角のようにゆらゆらと蠢いている。手足はあるが指のようなものは存在せず、手足の先は蚯蚓の尾のようなヒレ状に変形していた。生殖器は目視する限りでは存在せず、股間の部分は何の機能も持たないかのように真っ平らであった。何より異様なのはその顔で、白目も瞼も無い真っ赤な瞳が、魚のようにギョロリと斜めに飛び出ていた。口は、もうどう表現していいのか分からない程、奇怪極まりない形状をしており、そもそも口の下部にある「それ」が本当に口なのか、確信をもって判断できる要素は何一つなかった。しかし、一番の恐怖は、その怪物の異形などではなかった。その場にいた誰もが、一体全体どういう訳なのかは彼等自身にも分からなかったが、直感的に理解していたのだ。目の前にいる怪物が、モンスターなどではなく、紛れもない人間なのだということを。人間的な要素などない文字通りの怪物には、拭いきれない程明瞭に、人間の要素が残っていた。人間の残り香のようなものが、確かに残っていた。その事実が、周りにいた全ての人間に、身を引き裂かれるような戦慄をもたらした。やがて周りに集まって来ていた婦人の一人が「あっ」と小さく悲鳴を上げて、地面に倒れた。下水管の異常を通報した家に住む婦人であった。彼女は震える指で、怪物の左手首の肉に埋まったリストバンド状の物を指し示した。粘液と汚物にまみれたそれは、ティーンエイジャーが身に着けるような腕時計であった。「息子のものです」震える声で、信じられないような口調で、夫人が呟いた。人々は言葉を失い、地面に倒れ伏し号泣する夫人とその夫を、ただ遠巻きに見守る以外になかった。その後の司法解剖とX線検査、僅かに残存していた歯型の鑑定により、その婦人の言葉が正しかったことが証明された。下水道で警官隊に射殺された怪物は紛れもない、彼女の息子であったのだ。如何なる怪異の成せる技であろうか。その身体は紛れもない怪物であるにもかかわらず、である。息子は事件の起こる1か月ほど前、地底人達の勧誘を受け、両親の反対を押し切って彼等の住む洞窟へと移住していた。両親は地底人の住む洞窟へと何度も出向き、息子を連れ帰ろうとしたが、武装した地底人達は彼等に銃を向け、一切の話を聞くことなく追い払った。事件は、そんな最中に起こったのである。一体地底人達の洞窟で、彼等の息子に何が起こったというのであろうか。そして息子は何を考えて下水管を通り、自宅付近までやって来たのだろうか。怪物の身になり果てながら、両親が恋しくなり舞い戻ったのか。あるいは――両親をも、自分達が住む地の底に引きずり込むために、舞い戻ったのだろうか。両親も含めて、警察も、周囲の住人も、誰も何も言わなかった。考えることさえ恐ろしいことであった。
町の住人達は、もう我慢の限界であった。彼等は最早警察と行政を当てにせず、自警団を作って地底人への対処にあたろうとした。対処とは、具体的に言えば彼等の「排斥」である。武装民兵となった市民達は、目を血走らせながら地底人達が住む洞窟へと向かった。こうなるともう、警察も行政も黙ってはいられない。市民の警護を目的として多数の警官隊が群衆を取り囲むようにして随行した。洞窟前のバリケード周辺に集結した武装市民達は、洞窟の警護に当たっていた地底人達に躊躇いなく銃を向けると、彼等に「洗脳」された市民達を直ちに引き渡すことを要求した。事の経緯を知っている警官達は、そんな市民達による恫喝を黙認し、ただ地底人達の動向のみを注視していた。彼等が市民に何らかの反撃行為を行った場合は、その場で武力行使し、鎮圧する腹積もりであった。そんな武装市民や警察に対し、地底人達はいつもの彼等からは想像もできないくらい、不気味な程に冷静であった。彼等は「あなた方の要望は分かりました。では、改宗者達をここに連れて来ましょう」と言うと、洞窟の奥に引っ込んで行った。洞窟の周りに集まって来ていた者達は皆、半信半疑ながら固唾を飲んで洞窟の入り口――1m先すら見通せない暗闇で満ちた地の底に続く穴――の奥を見守った。だが次の瞬間、彼等は自分達の態度が甘すぎたことを、身をもって知った。暗闇の向こうから、炎が噴き出した。地底人達が手製の火炎放射器の炎を、市民や警察に更けて噴射したのだ。その様子はさながら、大地の口から吐き出された炎が、周囲の全てを焼き払うかの如きものであった。文字通りの地獄絵図が、そこから始まった。パニックに陥った武装市民が手当たり次第に銃を乱射し、逃げまどう人々のうち何人かが流れ弾の餌食になった。警察官達は必死に事態の収拾を図ろうと試みたが、火の回りは予想以上に早く、地底人達の築いたバリケードや彼等によって無造作に切り倒された自然公園の木々に次々と引火し、早くも山火事の様相を呈してきた(後になって判明したことであるが、地底人達はこれらの木々に事前に可燃性オイルを仕込んでいた。つまりこの凶行は、最初から計画されたものだったのである)。このままでは退路すら確保できない可能性がある。そう判断した警官達は、取り敢えず市民達の避難誘導を最優先した。混乱する市民達に冷静になるよう必死で呼びかけ、大声で避難誘導を行う警官達を嘲るように、炎の壁の向こうから地底人達の勝ち誇った声が聞こえた。「逃げても無駄だ。既に地下の洞窟を通って我々の仲間が町を焼き払いに出発した」と。そしてそれは、紛れもない事実であった。ほうほうの体で森林地帯を抜け出た警官隊と市民の眼前に、悪夢の如き光景が広がっていた。町の至る所から炎が柱のように立ち昇り、噴煙は既に空の月を覆い隠す程に広がっていた。町は既に、パニック映画さながらの混迷に包まれていた。悲鳴、怒声、銃声、ありとあらゆる物が砕け散り、踏み散らされる音、そしてそれらの音を引き裂くように聞こえてくる、人ならざる者の咆哮。非常事態を告げるありとあらゆる音が、呆然と立ちすくむ市民達の鼓膜を打った。最早事態は、地方の行政機関や官憲には収集不可能なまでに、爆発的にその被害を拡大していた。その後の成り行きは、州軍関係者の知る通りであった。狂気に満ちた異常事態の中で、決死の覚悟で警察庁舎に戻った老警官が、州軍と全州からの消防隊の出動を要請したことにより、何とかこの悪夢のような災厄を鎮めることが出来たのである。
州軍の報告書には、上記の老警官の証言について「未だに迷信や偏見が根強く残る地方における証言であることに留意」と付記されている。彼の証言は証言として、その妥当性に関しては額面通りには受け取れない、というのが州軍関係者の最終的な結論であった。順当と言えば、順当な結論である。老警官の話は、あまりにも馬鹿げていて、あまりにも理解を超えるものであった。迷信深い町の住人が、外部からやって来た新興宗教団体を相手に集団ヒステリーを起こし、それに対し団体側も被害妄想を肥大化させて同様に集団ヒステリーを起こした、と考えるのが、極めて合理的かつ常識的な解釈である。実際、地底人云々の裏付けとなるような物証は何も無い。怪物と化していたという少年の遺体は火災と共に焼け落ち、彼の両親も町の大火から逃げ遅れ、命を落とした。生き残った住人達もまた一様に口が堅く、外部から来た者達の問いには一切答えなかった。このような閉鎖性も、上記の報告書の結論を補強するものであった。だが――。この報告書に関しては1点のみ、どうしても不自然で、看過できない箇所があった。老警官から話を聞いた後、州軍は生き残った警官達を集め、地底人――彼等自身の言葉を借りるなら「星に祈る殉教の民」――の根城である郊外の洞窟へと出向いているのだ。その報告内容は、いたって簡潔だ。「洞窟内部で火災により焼死した遺体を複数確認。遺体は損壊著しく、身元の判別は困難。」とあるだけである。あれ程の大惨事を引き起こしたカルト団体の顛末を記載したものとしては、不気味な程に味気ないものである。実際、この記載を不審に思い、州軍や当地の警察に対し幾人もの作家やジャーナリストが取材を試みている。だが州軍も警察も、全く取りつく縞が無かった。彼等は一切の質問を頑として受け付けず、「全て報告書に記載の通りである」という回答に終始した。ジャーナリスト達は諦めず、ほぼ全ての関係者に取材を試みたが、徒労に終わった。当時、洞窟の捜索に参加した全員が、まるで判で押したかのように同様の態度で彼等をあしらった。潜入捜査のような形で捜索関係者に接触した者もいたが、それでも彼等の口を開くことは出来なかった。捜索関係者は皆、家族にすら当時のことを一切口にしていなかったからである。この事件の裏に、関係者が口に出来ない何かがある。それはこの事件に関心を持った全ての人間の共通認識であった。だが真相を知る人間全てが口を閉ざしてしまっては、どうしようもなかった。そして「地底人」達が暮らしていた洞窟は町の住民達の強い要望により、全て埋め立てられ、今や痕跡すら残っていなかった。やがてこの「地底人」事件は、怪しげな都市伝説やフォークロアの類としてしか語られなくなった。荒唐無稽な尾鰭がついて回り、研究者やジャーナリストがそれを否定するという、こういった未解決事件にありがちな不毛な悪循環に陥った。やがて誰もこの事件について真面目に調査したり、考察したりすることも無くなり、事件の実相は不可解な闇の中に葬られた。
だが――。ここに一つ、世に出ていない事実がある。事件が起こった町に隣接する地区の精神病院に、一人の青年が収容されていた。名前も素性も、一切不明。病院では、仮の名としてアンダーソンと呼ばれていた。彼は、下水道の通路を一人彷徨っていたところを保護され、警察の事情聴取にも意味不明な供述を繰り返したことから、精神疾患のある身元不明者としてその病院に収容されていた。アンダーソンは、発言内容がことごとく意味不明ということ以外は、非常に大人しく、従順な患者であったという。ある日、看護師の一人が彼と雑談していた。その日は朝から天気が悪く、黒煙のような曇天が空いっぱいに広がっていた。その光景を見たアンダーソンは「あの日の夜も、こんな黒い空だった。洞窟、影、暗闇……ああ、神様」と呟いた。いつもの彼とは明らかに違う明確な口調に、看護師は「ひょっとして過去の記憶を取り戻したのではないか」と驚き、矢継ぎ早に質問を投げかけた。「あの日というのは? それに洞窟とは何だ? 君が居た所か? どうしてそんな場所に? 君の家族は?」。アンダーソンは看護師の質問には答えず、独り言のように続けた。「ああ、どうしてあんな浅はかなことをしてしまったんだろう。パパ、ママ……。駄目だ。もう会えない。会いには行けないよ……」。そう言うと彼は、顔を両手で覆って大声で泣きだした。看護師は必死に彼を宥めながら、何とか聞き取れる限りで話を引き出した。内容は以下の通りである。
アンダーソンは元々、例の「地底人」事件の起こった隣町の住人であった。ある日、彼の友人の一人が「星に祈る殉教の民」の活動に興味を示し、アンダーソンを誘って例の洞窟まで赴いた。ちょうど、大規模火災事件が発生する一月ほど前の出来事であった。アンダーソン自身はあまり乗り気ではなかったが、友人に強くせがまれ、渋々一緒について行くことにした。何かあったとしても、男二人ならば力技で逃げることが出来るだろう、という安易な考えからであった。洞窟に着いた彼等を、「星に祈る殉教の民」の信徒達は少なくとも表面上は快く迎えた。彼等は洞窟の奥、迷路のように入り組んだ先にある、広いドームのような場所まで案内された。そこは、天井のちょうど真ん中にあたる場所に大穴が開き、そこから太陽光が射し込む、どこか神秘性を湛えた場所であった。だが、アンダーソン達が感慨にふけっていられた時間はほんの僅かであった。すぐに彼等は、自分達を案内してきた信徒達の姿が消えていることに気が付いた。彼等は文字通り、音も無く消えていた。慌てて周囲を見渡したが、既にドーム内には影すらも見えなかった。ここにきてようやく、アンダーソン達は焦りと不安を感じ始めた。ドームの周縁には無数の洞窟が口を開けており、彼等は自分達が一体どの穴を通ってここまでやって来たのか、まるで分からなくなっていた。ドームと洞窟の床は固い岩盤となっており、足跡を辿ることも出来ない。大声で助けを呼んでみたが、帰ってくるのは密閉空間内にこだまする彼等の叫びだけであった。彼等は心細い気持ちを必死で押し殺し、「とにかく誰かが来るまでここで待とう」と決めた。右も左もよく分からない迷路のような空間を歩き回るのは、どう考えても危険の方が大きかったからだ。10分、20分。彼等は待ち続けた。2時間以上が経過しても、誰も現れなかったし、足音すら聞こえなかった。3時間が経過し、天井から射し込む光よりも翳りの方が大きくなり、ドーム内が薄闇に包まれた時、彼等は「自分達は嵌められた」ということにようやく気付いた。そうとしか考えられなかった。地底人達は最初から自分達をここに置き去りにするつもりで案内したのだ。でなければこの状況は考えられなかった。だが一体何のために? 地底人達はどこか隠れて、自分達が不安で縮こまっている様を観察して嗤っているのだろうか? だが今更そんなことを考えても詮の無いことであった。彼等は今、出口も入り口も分からない迷路に、水も食糧もなく放り込まれているのだ。このまま夜が来れば、渇きと飢えと恐怖と絶望で気が狂ってしまうのではないか。アンダーソンも友人も一言も口にしなかったが、全く同じ不安と恐怖を抱えていた。拭いきれず逃れられない、断崖絶壁から飛び降りる寸前のような確定的恐怖であった。だが、そんな彼等の不安はすぐに消え失せた。解消されたのではない。むしろその真逆であった。漠とした恐怖が、形を持って彼等の前に現れたのだ。最初に気付いたのは、友人の方だった。「何かが聞こえる」友人は目を見開き、唇を震わせながらそう呟いた。アンダーソンが耳を澄ますと、ドーム周縁の洞窟群の中から、微かな呻き声のようなものが響いてくるのが分かった。一つや二つではない。殆ど全ての洞窟の中から響いてきているのではないかと思う程、沢山の「声」であった。そしてその「声」は、ゆっくりと這いずるように、彼等のいるドームの方へ近づいてきていた。アンダーソンと友人は身を寄せ合い、震える足で立ち上がった。座ったままではいられなかった。座ったままでは、恐怖のあまり動けなくなってしまいそうであった。ドームの中で穂のように揺れる彼等を取り囲むように、不気味な声はその反響と共鳴を高めていく。「逃げよう」堪えきれずアンダーソンが叫ぼうとしたまさにその刹那、洞窟群の闇黒の中から真白い影が躍り出た。そう、影であった。断じて人ではない。地の底から這い出た影の群れが、闇の中でもはっきりと分かる程の白さを湛えて、踊り狂いながらアンダーソン達に襲い掛かったのだ。アンダーソンと友人はここに至って、心を繋ぎ止めていた平静の糸がついにプツリと切れた。彼等は身も世も無く絶叫し、滅茶苦茶に走り出した。どこをどう走っているのかは彼等自身にも分からなかった。いつの間にか友人と離れてしまっていたことにさえ、二人とも気付かなかった。彼等は自分の身体に纏わりつく闇を払うかのように首を振り、後ろから追い縋る白い影の群れとその呻き声を掻き消すかのように、声を張り上げながら、走り続けた。どこまでも、どこまでも。地の底に向かっているのか。煉獄への坂を上っているのかも分からないまま。そうして走り続けた末に、ふっとアンダーソンの身体が宙に浮いた。否、それは違っていた。彼の足元の地面がぽっかりと消えうせていたのだ。不意を突かれたアンダーソンは、悲鳴を上げる間もなく闇の底へ転げ落ちて行った。
アンダーソンが目を覚ましたのは、それから何時間も経った後だった。突き刺すような陽光が瞼の上から降り注ぎ、彼を強制的に現実の世界に引き戻したのだ。アンダーソンはふらつく頭で、何とか立ち上がった。前身を打ち付けていたので、身体の至る所に激痛が走った。頭がふらつくのは寝起きというだけでなく、地面に強かに頭部を打ち付けていたためでもあった。そっと後頭部に触れると鈍い痛みが走り、掌に血が滲んでいた。周囲を見回したアンダーソンは、自分が小さな崖の下に倒れていたことを知った。崖の中腹に洞穴がぽっかりと穴をあけており、そこから地面に落ち込んだのだということが分かった。つまり見上げた先にある洞穴の奥が、あの恐ろしい地底人達の世界に続いているのだ。そう考えると自然と身体が震えた。それと同時に、友人の姿が全く見当たらないことにも気付いた。そう言えば、無我夢中で走り回る途中で既に逸れていたような気もした。大声で名前を呼んでみたが、返事は無い。足を引き摺り、周囲を探したが、友人の痕跡すら見つからなかった。そうしている内にアンダーソンは、開けた場所に出た。そこは彼の住む町のちょうど東端にある小高い丘で、彼等が足を踏み入れた地底人達の洞窟が存在する自然公園からは数㎞以上離れた場所であった。アンダーソンは、洞窟の中を走り回るうちにそんな距離を移動していたという事実に驚愕しながらも、自分の見知った町が眼前に確かに存在している歓びの方がはるかに大きく、身体の痛みなど忘れて一目散に我が家へと駆け戻った。両親は放任主義だったので、無断外泊に関しては特に何も言わなかった。全身の怪我については流石に見咎められたが、彼はただ転んだだけと嘘をついた。自室に戻り、ベッドの上に倒れ込んだアンダーソンだったが、安心して頭の中が冷静になるにつれて、不安の方が大きくなっていった。自分は、一人で逃げて来てしまった。友人は大丈夫だろうか。ひょっとしてまだあの洞窟の中で迷っているのではないか。友人を見捨てるような形で自分だけ逃げ出したという悔恨が、アンダーソンの心を暗く染めた。翌日、彼はそれとなく友人宅を伺ってみたところ、ちょうど玄関から顔を出した友人の両親に声をかけられた。彼等は「一昨日から息子の姿を見ないのだが、何か知っているか」と彼に聞いた。アンダーソンは咄嗟に「さあ、分かりません」と言って誤魔化した。本当のことを言えば、ひょっとするとあらぬ疑いをかけられてしまうのではないかという懸念があったからだ。彼は逃げるように自宅に戻ると、「具合が悪い」と言ってその日は一日中ベッドの中に潜り込んでいた。だが、拭いきれぬ後悔と不安、そして恐怖から、結局一睡もできないまま真夜中になり、そして夜が明けた。暗闇に対する圧倒的な恐怖から、電気を消すことは考えられなかった。遠くで消防車かパトカーの音が聞こえたが、煩さを感じる余裕すらない程、アンダーソンの心は憔悴していた。やがて夜が明け、アンダーソンは疲れ切った表情のままリビングへと降りて行った。リビングでは両親が深刻そうな表情で何事か話していた。アンダーソンの顔を見た父親は声を潜めながら「向こうの通りに住んでいたミシェルを知っているか」と聞いてきた。ミシェルはアンダーソンより2つ年上で、友人では無いものの、顔と名前は知っていた仲であった。彼がそう答えると、父親は「昨日、亡くなったそうだ」と告げた。父親は続けて言った。「例の変な宗教団体みたいな連中の所に面白半分で出入りしていたらしい。それから何かあったのかは知らないが、昨日の夜、この近くの下水道の中で暴れていた所を銃で制圧されたって話だ。遺体と言うか、発見された時の状況は、それは酷いものだったらしい」。昨夜のパトカーのサイレンはそういうことだったのか、と得心すると同時に、アンダーソンの身体を悪寒が駆け巡った。「酷い状況って?」彼は恐る恐る聞いた。「まあ噂と言うか、パニックを起こした周りの連中が見間違えたんじゃないかって気もするが」と前置きしながら、父親は続けた。「全身が真っ白い怪物みたいになっていたそうだ」。その言葉を聞いた瞬間、アンダーソンは膝から崩れ落ちそうな感覚に陥った。夢ではなかった。あの地下の洞窟で見た悪夢の如き怪物達は、実在するのだ。そして奴らは恐るべきことに、この町の真下にも入り込み、暗い地の底で蠢いているのだ。そう考えると、悪寒などという言葉では言い表せないくらいの震撼が、アンダーソンの心身を内側から揺さぶった。彼は「体調がすこぶる悪い」とだけ言うと、朝食も摂らずに部屋に戻り、ベッドの上に転がって頭を抱えた。外の天気が快晴であることだけが、彼の救いであった。部屋の隅、ベッドの下、机の陰。ほんの僅かな暗闇さえも、今のアンダーソンには恐ろしかった。その闇の中にからあの白い怪物たちが這い出てくるのではないか。そんな恐怖が、彼の心をとらえて離さなかった。そうこうしている内に、日が陰り始めた。夜が来る。闇の帳が落ちる。闇の中から奴らが現れる。逃げ出した自分を捕まえに来る。地の底から這い出る白い影の中に、彼が見捨ててしまった友人の影が見える……。次から次に、恐怖とそれに伴う妄想が頭の中に湧き上がり、アンダーソンの心は大きくかき乱された。懊悩のままベッドの上で転がっていると、その内遠くからサイレンの音が聞こえてきた。また何か事件か何かかと思い、そっとカーテンを開けたアンダーソンの瞳の中に、燃え盛る町の光景が飛び込んできた。一体何が起こっているのか、まるで分からなかった。恐怖に苛まれたまま寝落ちしてしまい、自分は悪夢を見ているのではないかとも思ったが、家全体を揺るがすような爆発でベッドから転げ落ちて頭を打つに至り、それが誤りであることに否応なく気付かされた。階下から、両親の悲鳴が聞こえた。ふらつく足取りで階段を降りたアンダーソンは、混乱する両親を伴い、外に出た。そこは本物の地獄であった。町中の至る所から炎が吹き上がっていた。異様な臭気が漂う中、逃げ惑う人々の足元から爆発が起こり、彼等を焼き尽くした。マンホールや排水管など、地下に繋がるあらゆる場所から爆発と炎上が起こっていたのだ。周囲に漂う異臭は、ガソリンなのか何か別のオイルなのかは分からないが、とにかく何か揮発した可燃性の爆発物であることは間違いなかった。暗闇の中を家族と一緒に逃げ惑ううち、アンダーソンの耳に「地底人だ! 地底人どもだ!」という言葉が飛び込んできた。彼は思わず、声のする方を見た。暗闇の中、吹き飛んだマンホールの蓋の底から、不気味な人影が次々に躍り出て来ていた。暗闇でもそれと判る、真白い影。アンダーソンが地下の洞窟で遭遇したあの怪異が、今また目の前に現れ、逃げまどう街の人々に次々と襲い掛かっていた。最早、人間の精神で耐えられる限界であった。アンダーソンは、彼を取り巻く現実そのものから逃げ出すように、全てを振り切って走り出した。
そこまで語り終えると、アンダーソンは口を噤んだ。これ以上は話せない、そう言いたげな表情であった。看護師は話の内容と、それを語るアンダーソンの鬼気迫る表情に圧倒されながらも、努めて平静を装った。彼は取り急ぎ、主治医にこのことを伝えようと病室を後にした。だが彼が病棟の廊下を駆けだそうとしたその瞬間、雷鳴のような凄まじい音が響くと同時に、院内全棟が停電し、建物内は完全な闇に包まれた。病棟内が混乱をきたす中、そんな闇すら引き裂くかのようなアンダーソンの悲鳴が響き渡った。停電が復旧し、看護師が病室に駆け付けたその時にはもう、アンダーソンの姿は消え失せていた。院内全てを探し回ったが、彼の姿はどこにも無かった。窓の鍵は完全に施錠されており、そこから抜け出したとは考えられなかった。病室内をくまなく調べた施設職員は、室内に残る汚泥の様な臭いと、床に落ちた泥のような残留物に気が付いた。直前まで病室内にいた看護師には、いずれも心当たりのないものであった。となると、何者かが病室内に侵入し、アンダーソンを連れ去ったということになるのだが……。ここで、患者の一人が唇を震わせながら「さっき見た、見たんだ」としきりに繰り返した。何を見たのかと問われた患者はこう言った。「真っ白い化け物が、暗闇の中をこう、踊るように歩いて行って、アンダーソンさんを連れて行ってしまったんだ! ほ、ほら、あそこ! あそこから出て来て、帰っていったんだ!」。患者が震える指で、中庭の一角を指さした。そこには、まるで内側から爆発で吹き飛んだかのように蓋が破砕され吹き飛んだマンホールが、不気味に口を開けていた。結局、停電の原因もアンダーソンの行方も分からないまま、事件は終わりを迎えた。患者の証言は――止むを得ないことではあるが――単なる混乱による幻覚として片付けられた。アンダーソンの話を聞いた看護師は念のため、彼から聞いた話を余すことなく主治医に伝えたが「今となっては妄想か現実かも確かめる術はない」と言われただけで終わった。実際、その通りであった。
それから数年後、アンダーソンの話を聞いた看護師(その時は既に病院を退職し、別の州に移住していた)の元に、一人の精神科医がやって来た。名をダニエル・ノリスと言い、アンダーソンの主治医から偶々話を聞き、本件に興味を持ったのだという。看護師は「覚えている範囲ですが」と前置きすると、アンダーソンの入院経緯から彼が最後にした話まで、詳細をダニエルに話して聞かせた。話の最後に、ダニエルは「ところで――アンダーソンさんが地底で奇妙なものに追いかけられた後、目を覚ましたという洞窟の具体的な場所はご存知ですか?」と聞いた。看護師は明らかに狼狽した表情を見せた。そしてダニエルはそれを見逃さなかった。「大丈夫、秘密は守ります。もしご存知でしたらぜひ教えてください。」ダニエルは声を潜めるようにそう言った。「先生。それは止めるべきです。」看護師は観念したのか、真剣な表情でそう言った。「私はその場所を知っています。実は、一度行ってみたことがあるんです。褒められない理由ですが、あの事件に関して未解明の事実を発見すれば大金になるんじゃないかと、そういう浅ましい考えがありました。ああ、でも……」そこまで言いうと、看護師は顔を手で覆って嗚咽するような仕草を見せた。ダニエルが「無理なさらないでください。ゆっくりで構いません」とフォローすると、彼は俯きながらたどたどしい口調で続けた。「その洞窟は、確かにアンダーソンさんの言った通り、町の東端にある小さな崖の中腹にありました。登山用具なんて使わなくても、普通に入っていけるくらいの場所でした。私はライトを片手に、その中へと入っていきました。そして……」そこまで言うと、看護師は息を飲み込み、一旦言葉を切った。「そして、見たんです。暗闇の奥で、踊り狂っている連中の姿が。暗闇の中なのに、はっきりと見えたんです。幾つも折り重なった白い影が、まるで深海の海藻みたいに揺れ蠢いているのを。地上にいる私達を嘲笑うかのように哄笑している奴らの声を、確かに私は聞いたんです。あの事件は終わっちゃいなかったんです。今でもあの町の地下には、あの白い怪物が、地底人達がいるんです。今も虎視眈々と、地上に出てくる機会を窺っているんです。でも、でも本当に恐ろしいのはそんな事じゃない。そんな事じゃあないんです! 私は見てしまったんです。あの、あの白い影の手……」混乱し、呂律が回らなくなってきていた看護師に対し、ダニエルは「落ち着いて、落ち着いてください。一体何を見たんです?」と静かに諭した。看護師は、震える唇を動かし、絞り出すように言った。「精神科病棟で使われる認識票はご存知ですよね? 患者さんが間違って院外に出てしまった際に探すためのものです。看護師ならば間違いようがない。ええ、間違いようも無く付けていたんですよ。私が見た、地下に踊る白い影――地底人の一人が。間違いようがありません。あの認識票は、アンダーソンさんのものでした。」
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