第58話 新しい平穏な日々

 早朝、俺は裏庭に出て畑を手入れしていた。空は青く澄み渡り、暑い一日が始まることを予感させる。

 家に戻ると、瞭子が弁当を準備してくれていた。お茶の入った水筒もそばに置いてある。


「兄さん、今日は早く出るのよね?」

「うん、わざわざ早めに用意してくれたのか、ありがとう」


 俺は弁当箱を受け取り、制服に着替えることにした。手早く身支度を終えて、鞄を手に取る。

 家を出ようとすると、わざわざ瞭子が見送りにやってきた。


「じゃあ、行ってくるよ」

「うん、また後でね、兄さん」


 俺は妹に手を振ってから、自転車を漕ぎ出した。早朝のさわやかな空気の中を快調に進んでいく。夏休みまであとわずかであるが、まだまだやることはたくさんあるのだ。




 早めに登校した俺は、園芸部に行って畠山君と合流した。早起きしたのは、園芸部と風紀委員会の合同企画を手伝うためである。なんでも、風紀委員会が通学路の美化を目的として花を植えたのだが、その手入れを園芸部とボランティアが手伝うことになったのだ。

 俺は畠山君と一緒に、花に混ざって伸びてきた雑草を引き抜く。


「花は、なかなか育たないけれど雑草にかぎってよく伸びるんだなあ」

「そういうものだよ、一ノ瀬君。きれいな花も、おいしい野菜も手がかかるものなのさ。地道に、ゆっくりやっていくのがコツだよ」


 畠山君は、忍耐強く作業を続けている。小柄な彼ではあるが、日頃の活動のおかげか結構タフなのだ。俺は慣れていないせいか腰が痛くなってしまう。額に汗がにじんできたので、立ち上がってぬぐった。


「やっほ、一ノ瀬君。朝からがんばってるんだね。あっ、畠山君もおはよう」


 登校してきた桜川亜依さくらがわあいが、元気に挨拶してきた。彼女は、目が合うと一瞬たじろいだ気がするが、すぐにいつもの調子に戻る。


「おはよう、桜川さん。ああ、もうこんな時間なんだね」

「一ノ瀬君、大丈夫? だいぶ汗が出てるよ」


 心配そうに近づいてきた桜川さんは、顔を曇らせた。


「うう、ひどいよねえ。一ノ瀬君は、別に悪いことをしたわけじゃないのに、朝から大変な作業をさせられるなんて。そりゃあ、妹さんのことは早く言ってほしかったけど。……と、とにかく、あたしは怒ってないし、一ノ瀬君の味方だから」

「ありがとう、桜川さん。でも、この作業は俺の意思でやっていることだから。そもそも、謝罪の作業みたいに言ったら、企画した風紀委員会や園芸部に失礼だよ」

「あっ、そうだね。ごめんね、畠山君。えーと、変な意味で言ったわけじゃなかったんだけど」


 気まずそうな表情になった桜川さんに対し、畠山君はにこやかに笑いかけた。


「全然気にしてないから、謝らないでよ。理由はともかくとして、僕は一ノ瀬君と土いじりができて楽しいから。桜川さんもどう? 園芸の魅力に目覚めるかもよ」

「あはは、あたしは早起きできないから。……じゃあ、このあたりで」


 苦笑いを浮かべた桜川さんは、そそくさと立ち去ってしまった。しばらく彼女の後ろ姿を眺めていたが、俺はさきほどの会話で気にることがあった。


「ねえ、畠山君。俺は色々あったから、みんなの役に立つことがしたいと思ってこの作業に参加してるんだ。決して、罰則的な作業とは思っていないからね」

「ははっ、そんなこと気にしなくていいよ。草花の手入れは楽しいし、みんなのためになるんだから、理由なんていいのさ。……それにね」


 畠山君は、ふと声を小さくした。


「この前なんだけど、園芸部がこっそり作った畑が風紀委員会に見つかってね。部長と風紀委員会が取引して、この企画が実現したんだ。……内緒だよ」

「な、何やってるんだよ、園芸部は」


 さわやかに笑う畠山君に、俺はため息をついた。




 早起きしたせいで、授業中に睡魔が襲ってきた。だが、今の俺は居眠りなどというみっともない姿をさらせない立場なのである。気合で授業を乗り切り、待ちに待った昼休みがやってきた。

 いつものように、寺西君、畠山君、三嶋君で集まって弁当箱を開ける。


「どれどれ、一ノ瀬の弁当はどんなのかな」

「ちょっと、寺西君。どうして自分の弁当より先に、俺の弁当を気にするのさ」


 ぐいぐいと身を乗り出してくる寺西君を牽制しつつ、弁当箱を開ける。


「ほう、定番の唐揚げに、野菜炒め、ご飯は……ふむ、わかめご飯か。添えられたミニトマトが良い色合いだな。実にオレ好みだ」

「どうして、俺の弁当を寺西君が解説するのさ。まず、自分のを確認すればいいじゃないか」

「へいへい、オレの弁当は……うわっ、お袋め、メインのおかずをちくわにして手抜きするのはやめてくれって言ったのに。ちくしょう、どうしてオレには弁当を作ってくれる可愛い妹がいないんだ」


 俺は、寺西君から自分の弁当を守りつつ昼食を食べることになった。分けてあげたい気持ちもあるが、朝が早かったので腹が減っているのだ。仕方なく、唐揚げとちくわのトレードで話をつけたところで、クラスが騒がしくなった。


 目を向けると、霧島さや香が重箱を持ってクラス中に何かを配って歩いていた。しばらくして、彼女がこちらへもやってきる。


「あら、みなさんごきげんよう。ふふ、朝からお料理の練習をしていたら作りすぎてしまったのです。よければ、いかがですか」


 重箱の中のきれいなきつね色に、寺西君が歓声をあげた。


「うおー、うまそうな卵焼きだ。いやー、マジで霧島さんってお嬢様だなあ」

「ほほほ、遠慮なく召し上がって下さいな。寺西君、以前のように砂糖の加減を間違ったりしていませんから、安心してどうぞ。今度こそ、本物の卵焼きですわ」


 一口食べた寺西君は、無言でガッツポーズをした。畠山君と三嶋君も、美味しそうに食べている。ふと、霧島さんと目が合った。


「ひぅっ……コホン、一ノ瀬君もいかがですか? 仲間外れというわけにもいきませんし、ええ、わたくしの行為はごく自然なものなのです」


 謎の声を発した霧島さんだったが、すぐにいつもの調子を取り戻して料理を勧めてきた。もちろん、断る理由はない。


「ありがとう、遠慮なくいただくね。……んっ、美味しい。これは、すごく上達したんだね。味もそうだけど、焼き加減がふんわりしていて絶品だよ」

「ほほほ、わたくしにかかれば当然のことですわ……ではなくて、あの……あ、ありがとうございます。……妹さんには及ばないと思いますが、わたくしもがんばってみることにしたのですわ」

「そうだったんだ。美味しかったよ、ありがとう」


 お礼を言うと、霧島さんの顔が赤くなっていく。何とも言えない空気になりかけたところで、武笠優利むかさゆうりがつかつかとやってきた。


「ちょっと、さや香。これは『協定』違反でしょ。勝手なことをしないって約束したでしょう」


 武笠さんは「協定」という言葉を口にした。

 例の女の子の話し合いの結果を、俺は知らない。戻ってきた瞭子に聞いてみたが、女の子だけの秘密らしい。武笠さんが口にした「協定」は何らかの取り決めらしいが、内容はわからないのだ。


「ひいい……い、委員長、わたくしはクラスのみなさんに手料理を振る舞っていただけなのですわ。その中で、一ノ瀬君だけを除外するのは失礼というものでしょう。これはクラスメートとしての交流の一環なのです」


 武笠さんの言葉にびくっとした様子を見せた霧島さんだったが、次第に普段の様子を取り戻していく。


「それは言い訳でしょう?」

「いえ、わたくしは間違っていませんわ。『協定』を杓子定規にとらえたならば、日常の学校生活にも支障がでてしまいます。このぐらいは許容されるはずですわ……たぶん」


 悪びれずに言った霧島さんに、武笠さんはため息をついた。


「はあ、わかったわ。……ただ、くれぐれも節度は忘れないでね」


 武笠さんは、何か言いたげな視線を俺に向けたが、そのまま去ってしまった。霧島さんは申し訳なさそうな顔をしていたが、料理を配る作業を再開した。


 あの件があってから、武笠さんは怒っているようなのだった。彼女は普段からクールな態度なのだが、俺に対しては凍りつきそうな感じになっている気がするのである。

 怒っているか聞いてみると「怒っていない」と冷たく返されるので、取り付く島もないのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る