第43話 桜川亜衣とスペシャルクーポン

 俺は、スペシャルクーポンに当選した桜川亜衣とドーナツ店にやってきていた。彼女の話だと、2人も無料になるはずだったのだが、店のタブレット端末では1人分が無料と表示されている。

 桜川さんは、前の席でもじもじとしていた。


「ええと、これはどういうこと? あっ、責めているわけじゃなくて、単純な疑問なんだけど」

「あうう、その、あたしたちの場合は特別に無料に……」

「ならないよね。キャンペーンの詳細を確認したんだけど、1人分が無料っていうふうにしか解釈できないんだけど」

「はうう、そうなんだけど。ええと……」


 俺の質問に対して、桜川さんは居心地悪そうに席で小さくなっている。別に追及するつもりはなかったのだが、彼女はしょんぼりしてしまった。


「まあ、いいや。誘ってくれたのは嬉しかったし、俺の分は自分で払うよ」

「ちょ、ちょっと待って、それはナシで。もう払っちゃったし」

「ええっ、どういうこと?」

「クーポンを店員さんに見せに行ったときに、お願いして先に払っておいたの……あはは」


 なんだか時間がかかっているような気がしたが、そういう事情だったのか。


「うーん、ありがたい話ではあるんだけど、ここって結構高いでしょ。そうだ、半分出すよ。そうすれば、2人ともお得感があるよね。……あと、両親の名誉のために言っておくと、俺は十分な生活費はもらっているから。節約するために、弁当のおかずが切ないことになる日もあるけど、困ってないからね」

「わわっ、一ノ瀬君がお金に困っているとか思ってないよ。えーと、その……いい機会だから、あたしのちょっと良いところを見せたかっただけというか」


 桜川さんは、椅子に座り直すとじっとこちらを見つめた。


「一ノ瀬君、前に委員長と秘密のお茶会をしてたんでしょ?」

「秘密ってことはないんだけど、委員長と山名さんにお茶をごちそうになったから、お返しの意味でしたよ。ただ、ちょっと事情があって人数を増やせなかったから、目立たないようにはしたけど」

「知ってるよ。例の夜泣き岩の近くで畠山君が何かしてるのを見かけから、聞いたら教えてくれたの。イチゴをもらったから食べたんだけど『これ、密栽培したイチゴだから、黙っておいてね』って口止めをされちゃったし」

「なんだと……コホン、まあ、あのお茶会は三嶋君が登山部の野外調理を見せるっていう名目で許可を取ったものだったからね。……悪いことはしてないよ」


 畠山君め、彼は密栽培したイチゴを真面目な委員長に食べさせたのか。大人しそうな顔で、大胆なことをする男である。俺がイチゴのことを思い出している間も、桜川さんは話を続けていた。


「それに、さや香も一ノ瀬君にごちそうしてたんでしょ」

「ああ、あれはたこ焼きのお礼にってことでおごってもらったんだよ」

「そう、あのたこ焼きなの。あたしだけ、おごってもらったのにお返ししてないことに気づいたのよ」

「いやあ、そんなの別に気にしなくてもいいのに」


 軽い気持ちで食べに行った100円のたこ焼きが、思わぬ広がりをみせたようだ。


「むむっ、あたしは気にするの。ということで、ここはあたしが払うから……払っちゃったけど。これは女子のプライド的なものだから」

「くっ、じゃあ、俺もお返しを何か考えておくよ。先に宣言するのも何だけど、これも男子のプライド的なものってことで」


 俺たちは、にらみ合ったが、しばらくしてどちらともなく吹き出してしまった。そもそも、何を張り合っているのだろうか。


「うーん、せっかく話題の店でおごってもらったのに何をやってるんだろう。素直にお礼を言っておけば良かったな。……ありがとね」

「ううん、あたしがまぎらわしいことをするからだよね。最初から正直に話して、お得に食べられるってことにしとけば良かったね。でも、払っちゃったし……あたしは、素直にお返しを期待しちゃおうかな」

「それがいいね。俺はおごってもらったドーナツを心ゆくまで堪能させてもらうよ」


 2人で笑い合っていると、トレイを抱えた店員がこちらの席にやってきたのだった。



 桜川さんは、ドーナツがのったお皿を見て目を輝かせた。小さなサイズのドーナツが6つ盛り付けられているのだが、その一つ一つに趣向が凝らされているのだ。


「ねえねえ、これすっごく美味しそうだし可愛いよねえ。これなんて、ホワイトチョコでコーディングして、ラズベリーがトッピングされてるでしょ。緑色のは、抹茶かなあ」

「すごいなあ。俺はドーナツと言ったら、ええとオールドファッションっていうんだっけ、あれぐらいしか思いつかないけど、こんなにバリエーションがあるんだね」

「はあ、どれから食べようか迷っちゃうなあ」


 迷う、と言いつつも桜川さんはとても楽しそうである。そんな彼女を見ていると、俺までテンションが上ってしまう。


「よし、俺はチョコドーナツにオレンジソースがかかったのにするぞ」

「ふふー、じゃあ、あたしはこのイチゴのにしちゃうよ」


 口に入れると、サクッと心地よい歯ざわりに続いて、とけるような甘みが口に広がる。少しビターなチョコレートに、さわやかなオレンジが深みのある味わいが素晴らしい。


「うん、美味しいなあ。ドーナツ自体が絶品だけど、そこにトッピングで更に美味しさを上乗せしてる感じがする」

「美味しさの上乗せかあ、まさにそんな感じだねえ。はうう、こんなに美味しいのに、まだまだ別の種類があるなんて、とっても幸せ」


 桜川さんは、目を閉じて美味しさを存分に味わっているようだ。うっとりとした彼女の表情を見ていると、こちらまで幸せな気分になってくる。こういうところが彼女の魅力でもあるのだが、じっと見ていると変に思われるので次のドーナツにとりかかることにした。


「この緑は抹茶かな? ふむ、抹茶にチョコか……いや、これはあずきか。うん、美味しい。和風テイストのドーナツってとこかな、新感覚だね」

「わっ、すっごく美味しそう。1つ食べても、楽しみがまだまだあるよ」

「イチゴのやつはどうだったの?」

「美味しいよ。イチゴとドーナツがベストマッチって感じなんだけど、甘すぎないでさわやかな口当たりなの。はあ、これならいくらでも食べられそう」


 頬に手を当てて、にこにこしていた桜川さんだったが、不意に真顔になった。


「ど、どうしたの、何かあったの?」

「あう、はしゃぎすぎかなって、急に恥ずかしくなったの」

「えっ、別にいいんじゃないの。上品に食べるのも悪くないけど、こうやって気兼ねなく楽しめるっていうのも良いって思うんだ」

「そ、そうだよね。最近、いろいろと考えちゃって……ううん、なんでもない。あっ、次はこの抹茶ドーナツを食べちゃうぞう」


 今日の桜川さんは、いつもよりテンションが上がっているように感じる。まあ、このドーナツならば仕方がないと思う。値段は高めではあるが、この美味しさなら多少は無理をしてでも食べに来たくなる魅力がある。


 歓談しながらドーナツを味わっていると、いつしかお皿は空になっていた。小さめとはいえ、ドーナツが6つもあったのに、感覚としてはぺろりと食べてしまったように思う。


「ふう、美味しかったね。これも桜川さんが、クジを当ててくれたおかげだよ。クラスのみんなにも教えてあげたい気分だけど、お得に食べたわけだから内緒にしておいた方がいいよね」

「うん、悪いことをしたわけじゃないけど内緒にしておいた方がいいよね。ふふ、内緒かあ」


 内緒、とつぶやいた桜川さんは嬉しそうに笑った。結構なボリュームのドーナツだったが、彼女の皿も空である。


「ドーナツってカロリーが高いイメージだけど、このお店の物ならいくらでも食べられそうだよね」

「わわっ、カロリーとか怖い話はやめてよ。うう、どうして美味しいものってカロリーたっぷりなんだろう」

「これなんてどう、怖くない?」


 俺はテーブルの上のタブレット端末を操作して、桜川さんの方へ向ける。


「揚げたてのドーナツにアイスをトッピングだって。熱々のドーナツと冷たいバニラアイスのハーモニーが……」

「ちょっと、やめてよ。それ絶対美味しいと思うけど、カロリー的にはすごく危険だと思うの」

「ふっふっふ、さらに詳細を表示しようかな……」

「わわっ、一ノ瀬君、それ注文を押してるよ」


 慌てて確認しようとしたのだが、うっかり注文を確定させる部分に触れてしまった。俺と桜川さんの間に、なんとも言えない空気が漂う。


「これは俺がお金を出すから、半分ずつ食べてみない?」

「は、半分ずつなら許されるかなあ。しょうがないよね、今から取り消したらお店に迷惑だもんね」

「そうそう、2人で食べればカロリーが50パーセントオフになるし」


 俺と桜川さんは共犯者めいた笑みを浮かべつつ、注文の品を待ったのだった。

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