第42話 桜川亜衣と噂のドーナツ店
夕食後、俺は部屋に戻って
俺はスマホの画面に指をすべらせる。
『良かったね、羨ましいよ。でも、どうして黙ってたの?』
『みんなハズレばかりだったから、言いにくい感じになっちゃったの。一度ごまかしたら、余計に言えなくなって』
『ああ、そういうことってあるよね。雰囲気というか流れで、言えなくなるって状況』
『そう、まさにそんな感じだったの。一ノ瀬君がわかってくれて良かった。ねえ、今から電話しても大丈夫かな?』
『うん、大丈夫だよ』
ふと、蒸し暑さを感じたので部屋の窓を開けた。網戸から、夜の涼しい空気が流れてくる。
外の様子を見てみようかな、と思ったときにスマホに着信があった。さきほどのメッセージにあったとおり、桜川さんである。
「一ノ瀬君、こんばんは。うう、電話って久しぶりだから、なんだか緊張しちゃう」
「顔を合わせないで話すのって、やりにくいからね。ところで、相談したいって言ってたことかな?」
「うん、そうなの。実は当たったクーポンなんだけど、ペアで無料になるんだ。……だから、一ノ瀬君と、その……どうかなって」
「えっ、俺?」
意外な展開に戸惑ってしまった。頭の中を整理していると、窓の外から虫の鳴き声が聞こえてくる。
「……あうう、ダメかな」
「いや、嬉しいんだけど、俺と一緒でいいの? 女の子の友達同士でワイワイやった方が楽しいんじゃないかなって思ったんだけど」
「え、ええと……女の子の友達だと、1人だけって選べないんだよね。その、なんだか不公平な感じするでしょ。みんなと行って、自分ともう1人だけタダっていうのは申し訳ない気がするし」
「そうだね、あの店って結構な値段だよね」
「うんうん、それに一ノ瀬君って口が固いから、うっかり自慢したりしないでしょ」
俺は、お店のサイトで見たメニュー表を思い出す。数人で行って、誰かが無料というのは変な空気になりそうである。かといって、みんなが平等になるように合計金額で割るというのも、今ひとつな感じだ。
「じゃあ、行かせてもらおうかな。……っていうか、むしろ俺が頼む立場だね。桜川様、どうかお願いします」
「ふっふっふ、良き心がけ。存分に感謝するが良いぞ、なんてね」
冗談めかして頼むと、桜川さんも謎のテンションで応じてくれた。しばらく、意味もなく2人で笑い合う。
「一ノ瀬君、なんだか去年のことを思い出さない? 入学したばかりで、学校の近くにどんな店とかがあるのか見て回ったよね」
「ああ、そういうことがあったよね。学校近くに住んでる友達に案内してもらったりして、色々なところに行ったなあ」
1年生のときは、行事も学校周辺のお店なんかも全てが新鮮に思えたものだ。部活に入っていない俺は、桜川さんを含む友人たちと、放課後に良く出かけていたのである。
なんだか懐かしく思えてきて、つい長話をしてしまったのだった。
様々な検討の結果、ドーナツ店へは数日後に行くことになった。早く行きたいという気持ちはあるが、沢井美花の宣伝によってお店はクラスでも話題になっている。だから、すぐに行くとクラスメートとはち合わせしてしまう可能性があるのだ。
実のところ、バレたらバレたでかまわないのだが、桜川さんと計画を練っているうちに何だか楽しくなってしまったのである。
放課後、俺と桜川さんは別々に教室を出た。これから適度に時間をつぶして、お店で合流するという手順になっている。すぐに行かないのは、部活に入っていない同級生がドーナツを食べに直行する可能性を考えたのだ。これなら見つかりにくいだろう。
俺は、待ち合わせ時間の5分前にドーナツ店に到着した。同じクラスの友達が店の中に居ないか、こっそりとうかがってみる。制服姿の客は何人か居るが、うちの高校の物ではないようだ。
「一ノ瀬君、何してるの?」
驚いて振り向くと、声をかけてきたのは桜川さんだった。
「うわっ……ふう、桜川さんか。びっくりしたよ」
「ど、どうしてそんなに驚いているの? あたしの方も、びっくりしちゃったじゃない」
「お店の中に、うちのクラスの誰かが居ないかこっそり見てたんだ。大丈夫みたいだけど」
「そういうことね。……どれどれ、念のためにチェックしておこうかな」
俺たちは、さりげなく店の中を観察してみた。さすがに行列ができていた頃ほどではないのだろうが、結構な混み具合である。
「お二人様でしたら、ご案内できますよ」
「うわっ」
「わわっ」
不意にかけられた声に、俺と桜川さんは飛び上がった。声をかけてきたのは、可愛らしい制服を来た店のスタッフのようである。
「驚かせてしまったようで、申し訳ありません。ずいぶんと、迷っておられたようでしたから」
「はは、そうだったんですね。えーと、俺たちは……」
桜川さんに視線を送ると、彼女はコクリとうなずいた。
「では、よろしくお願いします。待ち合わせがてら、にぎわっているなあと思って店を見ていたんですよ」
「ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」
スタッフの女性は、にこやかな笑みを浮かべると軽く一礼した。俺たちは、スタッフに案内されて店内へ足を踏み入れたのだった。
案内されたのは、店の奥にある席だった。外の眺めは楽しめないが、外から見られることもないだろうから好都合である。俺と桜川さんは、席に座って一息ついた。
「ふう、びっくりしたね。まさか、店員さんに見られてたとは思わなかったよ」
「うん、あたしもびっくりしちゃった。でも、親切で良い人だったね」
「そうだね。流行っているのは、味の他にもこういう気配りがあるからなのかもしれないね」
店の中は、淡いパステルカラーで統一されている。派手すぎない優しい色合いで、なんだか心が落ち着く。感心しながら眺めていると、桜川さんが慌てた声を出した。
「ああっ……ええと、あたし注文してこなくっちゃ」
「いや、このテーブルのタブレット端末で注文できるんじゃないの。どれどれ……」
「そ、そうじゃなくて、今日はあたしが当選した無料のクーポンを使うでしょ。だから、その……店員さんに、スマホの画面を見せなくちゃいけないの。あたし、行ってくるから、一ノ瀬君は待っててね」
桜川さんは、タブレット端末を操作しようとした俺を制すると、素早く店の受付へと行ってしまった。ううむ、端末で注文できるようになっているのに、クーポンはわざわざスマホを見せなくてはならないのか。こういうのって、コードを入力するとかで対応できそうなものだが。
意外と時間がかかっているようだ。俺は待っている間、タブレットを操作してみることにした。おすすめのメニューなどが表示されているが、キャンペーンのコーナーもある。タッチして詳細を開く。
「ええと、『ペアでスペシャルメニューが無料のチャンス』これかな。うん、2人で注文すると1人分が無料?」
俺が首をかしげていると、桜川さんが息を弾ませながら戻ってきた。
「待っちゃった? ごめんね、説明に戸惑っちゃって。でも、これで2人ともタダで食べられるから、楽しみだね」
「桜川さん、これって無料になるのは1人分だけじゃないの?」
俺がタブレット端末の画面を示すと、桜川さんはピタッと硬直する。そして、しゅーんとしぼんだ風船のように席へと座った。
「あうう、バレちゃった……」
力なくつぶやく桜川さんに、俺はますます首をかしげることになったのだった。
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