第33話 武笠優利の依頼

 翌日、天気はまずまずであった。教室から外を眺めると、薄く曇っているが空は明るくなっている。昨晩は雨が少し降ったようだが、グラウンドの状態は悪くないだろう。

 あと少しで、本日最後の授業が終わる時間帯である。俺はタイミングを見計らい、授業が終了すると同時に扉にダッシュする。

 振り返って扉の前に立ちふさがるようにすると、野球部の河野君が勢いよくこちらに走ってくるところだった。


「おわっ、一ノ瀬、何をやってるんだよ。俺はグラウンドに一番乗りを目指すんだから、邪魔はしないでくれよ」

「その前に、やることがあるんじゃない」

「何のことだよ、そんなものは……」


 俺が河野君を足止めしていると、彼の後ろから武笠優利むかさゆうりがゆっくりとやってきた。


「河野君、アンケートまだ提出していないよね。部活熱心なのはいいけど、やるべきことを先にやって欲しいのだけど」

「あっ、委員長、えーと。あ、あとで……」

「期限は今日よ。あとって、いつになるのかな? わたしは今、提出して欲しいのだけど」


 武笠さんは、とてもやさしそうな笑顔でゆっくりと言った。穏やかな口調だが、それがむしろプレッシャーを感じさせる。河野君は、塁間で挟まれたランナーのような様子を見せたが、すぐに観念したようだった。


「す、すぐに書くから許して欲しいッス」


 河野君は、先輩にしかられた後輩のように慌てて席に戻って行く。


「あら、わたしは別に怒っていないけど。……もし、もしもだけど、うっかりアンケートを忘れている人が居るなら、今すぐ書いてくれると嬉しいな」


 武笠さんが誰にともなく言うと、数人の男子が席に戻ってがさがさと作業を始めた。彼女はそれを見ると、満足そうにうなずいた。




 俺は、机の上に集められたアンケート用紙の数を確認していた。念のため2回数えたが、クラスの人数分がきちんとそろっている。


「委員長、これで全部だよ」

「ありがとう、一ノ瀬君。おかげで、期限までにきっちりとそろったわ」


 武笠さんは、用紙を丁寧に整頓してから封筒に入れた。


「まあ、俺は大したことはしてないけどね」

「いいえ、助かったわ。未提出の人に厳しいことを言うのは、気がとがめるし、先生から言ってもらうのもちょっとね。……だから、一ノ瀬君が協力してくれたおかげでうまくいったわ」

「委員長って、色々と配慮してるんだね。ただ、ルーズな男子にはビシッと言ってもいいと思うけど」

「そうねえ……でも、悪気がないのはわかっているから、できるだけみんな仲良くしたいのよ。必要以上にきつく言って、雰囲気を悪くするのはどうかと思うし」


 クールな印象のある武笠さんだが、やさしい一面も持っている。だからこそ、委員長として人徳があるのだ。提出していなかった数人の男子も、彼女を困らせたり軽視したりするつもりはなかったのだろう。むしろ、委員長に迷惑をかけてしまって申し訳なさそうな感じだった。


「あとは、それを職員室に持っていけば終わりだっけ」

「ええ、そうよ。これは、わたしが持っていくから」

「じゃあ、他に手伝うことはある?」

「えっ? そうね……」


 俺の申し出に、武笠さんは少し考え込む素振りを見せた。何か、まだやることがあるのだろうか。


「ちょうどいい……コホン、いえ、一ノ瀬君は、これから用事はあるの?」

「いや、何もないよ。多少時間がかかっても問題ないから」

「そう……じゃあ、その言葉に甘えちゃおうかな」


 武笠さんは、少し視線をさまよわせてから俺を見る。


「……30分後に武道場の裏に来てもらっていいかな。準備が……じゃなくて、時間があればでいいのだけど」

「いいよ。武道場の裏っていうと、掃除かな?」

「えーと、それは……まあ、大したことじゃないから。気楽に来てね。あっ、わたしはこれを提出してくるから」


 どこか早口で言った武笠さんは、アンケート用紙の入った封筒を抱えて、そそくさと教室を出ていってしまった。

 武道場の裏で何があるんだろう。俺は首をかしげつつ、鞄を手に取ったのだった。



 中途半端に時間が余ったので、野球部を見学に行くことにした。ネットの裏から練習を眺めていると、俺に気づいた河野君が大きく手をふってくれた。彼は、実に楽しそうに守備練習をしている。グラウンドで白球を追う姿は、月並みな表現だがまさに青春だ。

 こういう風景を見ると、俺も何か部活をやればよかったかなと思う。しかし、高校から新しく始めるのは難しいのだ。特に、運動部だと、経験者とそうでない人で技量の差が大きいからためらってしまう。

 まあ、帰宅部には帰宅部の良さがある。今日だって、部活に入っていないからこそ武笠さんの手伝いができるのである。


 ちょうどいい時間になったので、俺は河野君に手をふって武道場へ向かうことにした。彼は、元気よく手をふりかえしてくれる。ちょっと野球に熱中しすぎているところもあるが、良いやつなのだ。



 武道場は古い建物だが、頑丈でいかにも質実剛健といった感じである。周囲には立派な松の木があって、この場所が城跡であることを思い出す。建物の中からは、剣道部の練習する音が聞こえてくる。

 しかし、武笠さんはどうしてここに俺を呼び出したのだろう。掃除なら、剣道部や柔道部が心を鍛えるということで熱心にやっているはずである。


「一ノ瀬君、待ったかな」


 背後から、武笠さんが声をかけてきた。特に掃除道具などを持っているわけではない。


「時間通りだよ。それより、ここで何をするの?」

「それはね……こっちに来てくれるかな」


 武笠さんが指さしたのは、武道場の裏にある林である。不思議に思ったが、とりあえずついていくことにする。ここの林は、しっかり手入れされているらしく、雑草はあまり生えていないし、伸びすぎた枝も切ってあるから明るい雰囲気だ。

 少し歩くと、古いが風情のある日本家屋が見えてきた。何だろう、学校の施設なんだろうか。普段から利用している学校なのだが、知らないことは沢山あるようだ。


「委員長、これは何の建物なの?」

「一ノ瀬君は、来たことがないのね」


 武笠さんがふり返えると、サラサラの髪がふわっと揺れた。さすが委員長は、髪の手入れもしっかりしているらしい。


「うん、来たことはないなあ。その言い方だと、委員長はあるってことだよね」

「そうね、たまにお邪魔してるのよ」


 俺が首をかしげていると、玄関の戸が静かに開いた。奥から出てきたのは、同じクラスの山名詩乃である。


「あら、委員長に一ノ瀬君。時間どおりですねえ。どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」

「ありがとう、詩乃。急にお願いしちゃって」

「いいんですよう。わたしだって、楽しみですから。ここで立ち話もなんですから、中へ入ってください」


 山名さんは、俺たちを見て穏やかな笑みを浮かべている。なんだろう、ますます状況がわからなくなってきた。

 玄関で靴を脱ぎ、案内されたのは畳の部屋だった。部屋の真ん中にちゃぶ台が置かれているだけの普通の部屋だが、ここが学校の敷地内だと思うと不思議な感じがする。


「では、わたしはお茶を用意しますから、お二人は座ってくつろいでいてくださいね」

「詩乃、わたしも手伝うわよ」

「ふふ、休憩しに来たのですから、気を使わないでください。それに、ここは茶道部の腕の見せどころでもありますから」


 古式ゆかしいお嬢様の山名さんは、華道部と茶道部を兼部しているのである。ということは、ここは部室というか活動場所なのだろうか。


「ここって、部室……みたいなものだよね。他の部員の人とかは居ないのかな」


 俺がきょろきょろとしていると、武笠さんが部屋の隅から座布団を持ってきて勧めてくれた。


「指導する先生の都合もあって、今日はお休みなのよ。こういう日に、ときどきお茶を飲みに来てるの」

「あっ、なんだか話が見えてきた気がする」

「ふふ、やっとわかった? 諸々のお礼に、一ノ瀬君にお茶をご馳走しようと思ったのよ。今日は詩乃と約束していたのだけど、アンケートを手伝ってもらったからちょうどいいかなって」


 座布団に座った武笠さんは、ちょっと恥ずかしそうに笑った。真面目な彼女には珍しい、茶目っ気のある笑顔だった。

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