第25話 霧島さや香のおさそい

 放課後、俺は下校するために駐輪場へとやってきていた。掃除当番で遅くなったのと雨が降っているためか、人の姿はない。いつも自転車を置いている定位置へと移動したのだが、そこには愛車の姿がなかった。


「あれ、俺の自転車がない。いつもここに……あっ、今日は自転車で来てないんだった」


 今日は昼から雨の予報だったから、徒歩で通学したのだった。用心深く行動したつもりが、なんとも間抜けな結果である。俺は、ため息をつきながら周囲を見回してみた。こんなところを見られたら、ちょっと恥ずかしい。

 幸いなことに誰もいない……と、思ったら何故か霧島さや香が駐輪場の入り口からこっちをうかがっていた。彼女は、車で送り迎えしてもらっているから、こんなところに用はないはずなのに。なんとも微妙なタイミングで彼女と目が合ってしまう。


「霧島さん、どうしたの? 自転車通学に変えたわけじゃないよね」

「ひゃっ……コホン、も、もちろんですわ。それより、一ノ瀬君はお困りのようね。この雨だと、自転車で帰るのは大変でしょう」

「それがさ、今日は歩いてきたんだよ。雨が降ると思ったから家に自転車を置いてきたんだけど、いつものくせでここにきちゃったんだ」

「えっ? あ、あの、その……よ、予定と違いますわ」


 霧島さんは、そわそわとして黙り込んでしまった。彼女は「予定と違う」と言ったが、意味がわからない。

 首をかしげていると、周囲を雨の音が包み込み、ときおり大きなしずくがポタポタと落ちる音が聞こえてくるのがわかった。場合によっては雰囲気があると言えるのだろうが、今はなんだか間抜けな感じである。


「霧島さん、何か予定があったの? まさか、俺の自転車を貸してほしいとかじゃないよね」

「い、いえ、そういうわけでは。……こ、こうなったら」


 何を思ったのか、霧島さんは急に髪をかき上げると、腕組みをした。なんだか、高笑いでもしそうなポーズである。


「ほほほ、このわたくしは、一ノ瀬君が雨で困っているのではないかと推察していたのです。自転車で帰るのは大変でしょうから、車で送ってさしあげようかと思っていたですが……必要なかったようですわね」


 自信満々に話し始めた霧島さんだったが、後半になると急にトーンダウンした。そういえば、今日の掃除当番のときに何か話したそうにしていたが、このことだったのか。


「いいの? 傘は持ってきているんだけど、結構な雨だから乗せてもらえるとありがたいな。あっ、帰宅ルートが同じところまででかまわないから」

「えっ? いいのですのか」


 俺の答えに、霧島さんはきょとんとした表情になった。何だろう、彼女が提案してきたというのに。


「うん? ダメだったら、いいよ。ちょっと、あつかましかったかな」

「い、いえいえ、そういうことではありません。こんなに簡単に……コホン、一ノ瀬君をお送りするなど簡単ですから、気兼ねなく乗ってくださいね」

「ありがとう。霧島さんは、やさしいね」

「ふあっ……コホン、クラスメートとして当然のことですわ。そ、それでは、ごきげんよう」


 妙な声を出して顔を赤くした霧島さんは、素早くこの場を立ち去ろうとする。だが、車の場所がわからない俺は彼女を追いかける羽目になったのだった。




 変に目立っても困るので、学校から少し離れたところで車に乗せてもらった。勧められるままに、後部座席に座ったのだが霧島さんは助手席に座っている。むっ、車の席にも上座とか下座があったような気がする。高級車のシートは実に快適なのだが、図々しかったかもしれない。

 こういうのは礼儀とかマナー的にどうなのだろう。前に八重藤学院に行ったことを思い返すと、色々と意識してしまう。だが、今更どうにもならないので、ありがたく乗せてもらうことにした。


「村井さん、お願いします」

「はい、お嬢様。では、出発いたします」


 運転手の中年男性は村井という名前らしい。車は加速度をほとんど感じさせず、ゆっくりと動き出す。車の性能も、運転手の技量も良いだろう。


「お手数をかけますが、よろしくお願いします。俺……僕は一ノ瀬と申します」

「存じております。お嬢様のクラスメートの方でいらっしゃいますね」 


 なるべく礼儀正しく聞こえるように挨拶すると、運転席から穏やかな声がかえってきた。良い人そうでほっとしたが、俺の名前を知っていたことを意外に感じる。


「お嬢様、いつものお店でよろしいですか?」

「えっ? は、はい、お願いします。……え、ええと、一ノ瀬君、これから時間はあるかしら? こんな雨の日ですし、お茶でもいかがですか」


 霧島さんが、少し慌てた様子でたずねてきた。いつもの店、ということは喫茶店だろうか。


「お茶かあ、良いね。でも、ご迷惑なのでは。わざわざ、乗せてもらってるわけだし……」

「迷惑なんてことはありませんわ。……ええと、その……うぅ」


 あっさりと同意するところだったが、あまり図々しいのはよくないので気を引き締める。普段は意識しないのだが、この高級車に乗っていると霧島さんがお嬢様であることを思い出す。


「車の運転でしたら心配には及びません。どうぜ、ご遠慮なさらないでください」 

「そ、そうですか。それでしたら、ご厚意に甘えさせていただきます」


 村井さんが勧めてきたので、思わず承諾してしまった。さすがに年上の人の提案を断るのは失礼だし、俺が変に考えすぎているのかもしれない。


「では、村井さん、いつもの店へとお願いします。一ノ瀬君は、気軽にお茶を楽しんでいただければ良いのですから。これは……そう、クラスメートとの親睦を深めるための行事のようなものです。ふ、深い意味はないのですよっ」


 なぜだか、霧島さんは「深い意味はない」の部分を力説した。俺は、別にそんなことを考えてはいないのだが。


「お嬢様、今日の件はご両親に伏せておいた方がよろしいですか?」

「えっ? ひ、秘密にしておかないといけないようなことはありませんわ。で、ですが、わざわざ説明するのも変な話ですから……その、伏せておいてください」

「承知致しました」


 焦った様子の霧島さんに対して、村井さんは落ち着いた様子で返答する。俺としても霧島さんの両親に報告されるのは、どうかと思う。これは、学校帰りに同級生と喫茶店に寄るだけの話である。


「到着まで、少々お待ちください」


 村井さんは丁寧に言ったのだが、気のせいか少し楽しげに聞こえたのだった。




 車は高級住宅街のある丘へと登っていった。途中で、大通りから古い家が立ち並ぶ路地へと入っていく。こんなところに喫茶店があるのかな、と思っていると車が停まった。

 霧島さんにうながされて車を降りると、目の前に由緒正しい感じのする日本家屋があった。お店には見えない。どちらかというと、文化財に指定されていそうな建物である。美術品や古い道具などが展示されていそうだ。


「一ノ瀬君、入りましょうか。村井さんは、別のお店で休憩するので遠慮は要りませんよ。近くにお気に入りの店があるそうですわ」

「あっ、そうなんだ。ええと、配慮が行き届いているんだね。さすがはお嬢様だ」

「そうでしょう、そうでしょう。お仕事とはいえ、単に車で待っていてもらうのは悪いですから」


 正直な感想を口にすると、霧島さんは誇らしげに胸を張った。なるほど、これはお嬢様らしい反応だ。気を良くした様子の彼女は、建物の入り口にある格子戸に手をかける。戸の横には「甘味処 古都」と控えめな表札がかかっていた。

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