第20話 兄、妹の学校へ赴く

 6月になった。雨が多い梅雨の季節は、自転車通学の俺にとっては苦手な季節である。家の庭の雑草はぐんぐんと成長するので、瞭子が何か言う前に引っこ抜かなければいけない。ありがたいことに、裏庭に植えたきゅうりとトマトも順調に大きくなってきている。うまくいけば食費の足しになって、俺たちの小遣いも少しは潤うだろう。苗をくれた園芸部の畠山君には感謝しなくては。


 

 朝から薄曇りの空模様だった。スマホで天気予報を確認すると、雨は降らないようだったので自転車で学校へ向かうことにする。


「兄さん、自転車で大丈夫なの? にわか雨ぐらいはあるかもしれないわよ」


 夏服に衣替えした瞭子が、はっきりしない空を見上げながら言った。


「もちろん、備えはしてあるさ。雨合羽をバッグに入れてあるし、買い物かごに掛ける防水カバーも用意してあるぞ」

「準備は万端ってことなのね。でも、雨が降りそうだったら無理に買い物なんてしなくていいからね。兄さんて、変なところでチャレンジ意識に目覚めたりするから」

「さすがに、それはない……と思う。使わない方がいいけど、せっかくだから試したい気もちょっとはするなあ」


 雨合羽は、登山部の三嶋君にもらったものである。服装に全く興味がない彼だが、雨具の防水性能にはこだわりがあるらしい。彼が雨合羽を新調した際に、古い物を譲ってもらったのだ。


「はあ、兄さんは楽しそうでいいわね。雨で濡れた制服のケアって意外と大変なのよ」

「シミとかシワになるんだっけ。お嬢様の品位を保つっていうのも面倒だなあ」

「その面倒とか手間をかけるところに意味があるのよ。……そろそろ、行くわ。急いで汗をかきたくないから」

「うん、気をつけてな」

「兄さんもね。じゃあ」


 瞭子が、家の裏にある山道へと向かうのを見送ってから、俺は自転車の鍵を外した。雨さえ降らなければ、自転車通学は快適である。一方で、瞭子は急な坂道を登り、学院へ続く大きな道路に出てからバスに乗るので大変そうだ。うちの家は、学院がある高級住宅街となっている丘のふもとにあるのだが、開発から取り残され今後発展する見込みも少ない。

 俺は、妹の通学の苦労を思いつつ自転車をこぎ出したのだった。




 放課後、曇り空を眺めながら予定を考えているとスマホが振動した。瞭子かと思ったが、珍しく母親からのメッセージである。確認すると「授業が終わったら電話して」と簡潔に書かれていた。親との会話をクラスメイトに聞かれるのは恥ずかしい気がしたので、俺は自転車置き場の隅に移動してから電話をかける。


「もしもし母さん、どうしたの?」

「ちょっと頼み事があるのよ。明、これから瞭子を迎えに行ってほしいんだけど」

「迎えに? どういうこと」


 母親の言葉を聞きつつも、瞭子が俺の迎えを必要とするシチュエーションが思いつかないので困惑する。


「それがね、さっき八重藤学院から電話があって、瞭子が体育の授業中に怪我をしたみたいなの」

「ええっ、大丈夫なの? 怪我の具合は? 後遺症が残るようなものじゃないよね?」

「まあまあ、明、落ち着きなさいよ。母さんも学院から電話があったときは驚いたけど、大したことはないみたい。頭をちょっと打ったみたいで、瞭子本人とも話したから」

「そうなんだ、なら良かった。……あと、俺は慌てたりしてないから」 


 さりげなく自転車置場を見回したが、生徒の姿はまばらである。帰宅ラッシュの時間は過ぎているのだろう。兄として妹を心配するのは当然だと思うが、知り合いに慌てているところを見られたくはない。


「でも、母さん。大したことがないんだったら、どうして迎えが必要になるのさ」

「それがねえ、瞭子も困ってたんだけど、あそこはお嬢様学校でしょ。事故の状況とか怪我の具合を保護者にきちんと説明したいって、丁寧に何度も言われてねえ。仕方ないから、身内の者を迎えに行かせますって答えちゃったのよ」

「ああ、そういうことなんだ。でも、俺でいいのかなあ」

「母さんと父さんは、離れているから無理でしょう。何かあった時にって、ご近所さんに頼んであるけど、大したことでもないのにお願いするのはちょっとねえ」


 なるほど、それなら俺が行くのが適任か。いや、適任は言い過ぎかもしれないが、まあまあな選択だろう。


「わかった、俺が行くよ。ところで、瞭子は本当に大丈夫なんだよね?」

「それは保健室の先生に診てもらったみたいで、問題ないそうよ。瞭子本人が言うには、ちょっとふらついたのを周りが大袈裟に解釈しただけみたいだから」

「そっか、良かったよ」

「じゃあ、悪いけどお願いね。今度、こっちが落ち着いたら一度帰るから」


 通話を終えた俺は、八重藤学院の方に目を向けた。学院のある丘までは、結構な距離がある。どうやって行こうか考えていると、スマホが振動した。母親からだと思ったら、瞭子のメッセージである。


『お母さんから話を聞きました。時間はかかってもいいので、きちんとした格好で来てください』


 ふうむ、俺の格好を気にするぐらいだから瞭子は大丈夫なのだろう。しかし、どうしたものか。さきほどとは違った意味で、俺は頭を悩ませるのであった。




 考えた末、俺は一度家に帰ることにした。学院と方向は同じなので、自転車と荷物を家に置いて、瞭子が普段使っている通学ルートを使うことにしたのである。服装については、制服のままで行くことにした。変にこだわるより、これが一番無難だろう。

 瞭子は、時間がかかってもよいというメッセージをよこしていたが、あまり待たせるのは悪いだろう。申し訳程度に身だしなみを整えた俺は、家の裏にある山道へと向かったのだった。



 八重藤学院近くのバス停で降りると、見慣れない風景が広がっていた。高級住宅街という言葉から建物が密集しているイメージを持っていたのだが、実際は緑が豊富でゆったりとした土地の使い方をしているようだ。元からあった自然を活かしているようで、スタイリッシュなデザインの建物の横に驚くほど大きな樹木や、歴史が古そうな神社があったりする。他にも、立派な門のある邸宅やら、高級志向のお店など普段は目にしないものばかりだ。

 俺は、高級というか上流の雰囲気に圧倒されつつ、平静を装って学院へと向かうことにした。


 地図を見ながら八重藤学院がある場所まで移動したのだが、それらしき建物が見当たらない。学院の敷地であろう場所には、立派な木々が生い茂った林が見えるだけである。

 不思議に思いながら歩いて行くと、お寺の山門のような物が見えた。重厚な木製の門に、黒々とした瓦屋根がのっている。門のそばには直立不動の警備員まで居て、およそ学校には見えない場所である。だが、瞭子と同じ制服を着た女子数人が出てきたので、かろうじて目的の場所だとわかった。


 雰囲気に若干引きつつも、できるだけ堂々とした態度で警備員に目的を告げると、通用門の方へ行ってください、とのことであった。警備員は、厳しい見た目と違って丁寧な対応をしてくれたが、ここで学院に通う女の子をナンパなどしようものなら、恐ろしいことが起こるのは確実だろう。やましい目的ではなく、妹を迎えに来た俺は、可愛い女の子たちには目もくれずに通用門へと向かうことにする。

 以前、寺西君が八重藤学院の正門へ行って、下校するお嬢様たちを見学したいなどと言っていたが、次に言い出したら絶対に止めようと心に誓ったのだった。

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