紅
紅
「何で人間は歳取ると亀に似てくるんだろうね?」と、刑事課の一室で
「さあ・・」柏木は困って返事をした。
「さあ、・・か。柏木らしいね」ニヤリと笑って、尾上は自分のイスに戻って、新聞紙を広げて読んだ。
これらしい事件もなかった。
寂れた北国の温泉街の旅館、
雪が降り積もる夜だった。
その担当をしたのは、若い女中の
男はひどく汚れていて、顔を隠すように垂れ下がった伸びた髪はもう何日も洗われていないのは明白だった。
ただ、その男の腕に光る琥珀色の時計だけは不恰好に高価そうなものだった。
男は無口で、秋が、旅館の説明を続けている時も相槌を打つこともなかった。
その男の姿はどこか、傷を負った獣を思わせた。
手負いの獣は、誰もいない所へ、北へ北へと逃げるそうだ。こんな雪国に来たのも、そんな理由なんだろうか。
傷を負った獣は、そこで死を待つのか、傷が癒えるのを待つのか。
秋は男を部屋へ通して、「ごゆっくり」とその場を去った。
いやにその男のことが気になった。
夜更け、秋一人だけ残った女中部屋の電話が鳴った。
出ると、あの男だった。
「何か御用でしょうか?」
「悪いが、来てくれないか」と言う。
秋は急いで寝間着から女中着に着替え、髪をまとめてその男の部屋へ行った。
「失礼します」襖を開けると、男が上半身を露わにして座っていた。片腹を押さえてこっちを見もしない。
「あの、・・何か?」と秋が言うと、「包帯を巻いて欲しいんだ」と男が呻く様な声で言った。
傍らには巻いてある包帯が置いてあった。
「お怪我でもされたのですか・・?」と秋が男の正面に回ると、髪の毛の間から男の片目が覗いた。
「ああ、少しね・・」と男は小さく応えて、丸になった包帯を秋に渡した。片腹に当てていた手をどかした。秋は思わず目を背けたそこは濃く紫色に壊死していて、もう少しで肋骨が見えそうなくらいだった。
「どうされたのですか! 医者を呼んで参ります!」慌てて秋は立ち上がろうとした、その手を男はひっつかんで、秋をもう一度座らせた。
「お願いだ。頼むよ」男の手は震えていた。琥珀色の時計が光っていた。
その男は哀れに見えた。
秋は黙って、その傷に包帯を巻いていった。
突然、男に抱きつかれた。
秋は、痩せているな、と思っただけだった。
布団に押し倒されても、秋は何とも思わなかった。
窓から崖の岩が人の顔に見えた。
暗闇の中の部屋で結ばれた。
翌朝、女将が取り乱した格好で警察に電話をかけていた。
部屋でその男は死んでいた。
身元を割り出すようなものはなく、ただ死んでいた。
氷が美しいのは誰も入ってこないから。
腹の大きくなった秋は、海を走るフェリーの柵に背をもたれかけ座り、ハア、ハア、と荒い息を吐いていた。もう陣痛が始まっていた。
秋は自分の客室に戻り、ユニットバスで赤ん坊を産み落とした。
息が幾らかは落ち着いてから、秋はその赤ん坊をタオルに包んで、ドアを開け、辺りを見回して、外に出て、赤ん坊を海に投げ入れた。
赤ん坊は悲鳴のような泣き声を上げて、海に落ち、沈んでいった。
何も聞こえなくなった。
「も一度、生まれなさいよ」秋はその場に座り込んで、呟いた。
客室に戻ってから、何回も吐いて、秋はベッドに倒れ込んだ。
汗と震えが止まらなかった。
このまま、死ぬんじゃないかと思った。
氷が溶けていく。
髪の毛を茶髪に染めて玲が入って来た。
「
「匿って」
「え?」
「聞いてくれる?」天使達の絵柄がクルクル回るキャンドルライトを見たまま玲は言った。
「うん」
「私ね、赤ん坊、落としたの」
輝をボンヤリ見た。まるで、お酒に酔っているみたいに。
「怒らないの?」
輝は首を振った。
「じゃあ、逃げようか」輝は玲の手を取った。
「逃げるしかないっていう時もあるんだよ」
カクテルも頼まずに店を出た。
人気のない海縁に何かがプカリと浮いている。
「何だ?」釣り人が竿でつっついてみる。
「わっ」テトラポットに尻餅を突いた。
「だ、誰か!」
赤ん坊だった。
「死んでいるだろうな、・・気の毒に」
かわいそうに・・、と赤ん坊を手繰り寄せた。
その時、赤ん坊が泣いた。
生きている!
赤ん坊を胸に抱き寄せ、近くの民家に駆け込んだ。
「110番しないと」家人も慌てて、電話を貸した。
「キャ!」傍で見ていた家人が悲鳴を上げた。
赤ん坊が目を開いていた。
「き、気味悪いよ、その赤ん坊!」
「あ、ああ、今しがた、海に浮いている赤ん坊を見つけたのですが、・・」
赤ん坊は気がつくと目を閉じて、深く息を吸いスヤスヤと眠っていた。
柏木は
田谷は村の交番だ。
尾上も来ていた。
「どうせ、女が産み捨てて、海上に流しちまったんだろう。どうせ、そんなことだろうぜ」
尾上は海を見ていた。
「近い産婦人科に受診に来たか、自分で判断したか。まあ、どっちでもいい。膨らんだ腹が、へっこんだ女を探せばいいよ」
輝と玲はまるでアウトドアに行くかのように扮装をして町を出た。
どこにでもいるカップルだった。
子供を預けられる親は、数少ない。
だから、堕ろすか、棄てるか、するしかないのだ。
海合いの町でそんな女はいなかった。
「フェリーか・・」尾上が呟いた。
柏木と尾上はフェリーに乗っていた。
「確かめてみて、良かったな」
フェリーの乗務員の話では、垢抜けた、見かけないその女は、大きな腹をして乗って来て、降りる時には、青褪めた顔をして、人目を避けるようにして、人並みを抜けるように、腹を押さえ小走りで去っていったという。
フェリーの中では、船長の趣味なのか、やたら悲しげな曲が流れていた。
毎度、愛の不確かさの歌だった。
「カーセックスでもしてできた子だろ」尾上が吐き捨てた。
「人生、色恋ばっかりじゃねぇよなあ?」
赤ん坊は乳児施設に預けてある。
「新聞に出しましょうか」
「そうだな」
輝と玲はビジネスホテルに泊まった。
「まさか生きてるなんて」
輝はペットボトルの水を飲み干した。
「水が精神安定剤だったらいいのに」
「薬なら持ってるよ。ほら」
玲は安定剤を渡した。
飲んだ輝はベッドに倒れ込んだ。
「一錠でそんなになっちゃうなんてよっぽど疲れてたのね」
尾上は一人で秋田屋に向かっていた。
身元不明の遺体があったことを覚えていた。
その内の女中が一人、理由もなく辞めたという。
「交際相手の朽木輝も行方不明です」柏木が調べた。
「恋なんて始めからする奴はなあ、最初っから浮気者だ」尾上は離婚したばかりだった。
旅館。秋田屋。上にあきたやとくずれた文字で書かれている。
「こういうものです」尾上はサッと警察手帳を女将に見せ、上がり込んだ。
泊まり客たちは少なかった。
「なにせ、こういう季節なもんですからね・・」女将はどこか言い訳じみた言い方をした。
簡単なメモを取って、柏木に電話した。
「どうやら間違いないらしい」
尾上はとろろ蕎麦を食べて、淡雪の道を歩いていた。
心臓を押さえて、膝を付く。そのまま倒れ、近くの渓流へと落ちて行った。
その翌朝、尾上の遺体は北国の川に流されているのが見つかった。
死因は心筋梗塞だった。
心臓は何処も悪くないのに。
「赤ん坊の呪いだ」噂が立った。
柏木は赤ん坊の様子を見に行った。
赤ん坊は深緑色の瞳をしていた。
「君のお母さんはどんな人かな?」
輝と玲の泊まっているホテルに電話があった。
「
玲が取った。
「はい。私ですけど・・」
「おつなぎいたします」
「き、
「心配してるよ。皆。早く帰って来なよ」
「姉さん。後ろの声、誰?」
「何? 何って、あんたの子よ」赤ん坊の泣き声がする。
玲はハッとして、受話器を置いた。
「誰?」輝が起きた。
「清子姉さんは、死んでる。それも、ずっと前に。・・私、何で忘れてるんだろ」
また電話が鳴った。
「私たちが殺される」玲はもう一度電話を取った。
赤ん坊の泣き声が延々と聞こえてきた。
「軽い女だと思うでしょ」玲は呟いた。
柏木は秋田屋からの帰り道、尾上の遺体が上がった川に手を合わせた。
朽木輝と秋玲が捕まるのも時間の問題だ。
二人連れは目立つだろう。
寒天のような川を見ていると、携帯のバイブが鳴った。
柏木は一人でホテルに行った。
もう、逃げる気はあるまい。
きっと、待っているはずだ。
柏木が輝に警察手帳を見せる。
外に出た。
「君」柏木が輝に声をかける。
「ちょっと二人きりにさせてくれないか」
輝は離れた。
「大丈夫。逮捕だなんてことはしないから」
「え?」
「赤ん坊をお母さんに返すだけだ」
「でも、育てなきゃ」
「明日の朝、取りに来て」
柏木との約束の前、輝と玲はあのフェリーに乗った。
「私、ここから・・」
玲はしゃがみ込んで、柵にガンと頭をぶつけた。
「誰か許して・・誰か許して・・」
輝は玲を抱き寄せた。
「誰か、・・・許して・・」
二人が行方をくらませたのは、昼間まで待っていた答にだけ分かった。
「君のお母さん、逃げ出しちゃったよ・・」
輝と玲はスキー場のコテージにいた。
屋根だけが不格好に大きい。
スキー客に紛れて、下りた。
赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
輝は後ろを振り向いた。
誰にもだっこされていない赤ん坊がいた。
「早く! 走って!」玲が悲鳴にも似た声を上げて走り出した。
赤ん坊は追ってくる。
夢の中のように足が動かない。
赤ん坊が玲の服のはしを掴み握った。
よくいる、赤ん坊がするみたいに。
深緑色の目が顔色を窺っている。
「私だって産みたくて産んだんじゃないよ!」玲が叫んだ。
輝が手を伸ばす間に、玲は転がり落ちた。
いつの間にか赤ん坊ももうそこにはいなかった。
空振りした手は雪を掴んで、玲のいる所まで転がり落ちた。
心臓を押さえ、悶え苦しむ二人。
心臓が痛い。
雪が降り積もる。
柏木は「この世のおわりのような」叫び声を聞いた。
起き上がった柏木は赤ん坊の様子を見に行った。
もう息をしていなかった。
「お母さんを守ろうとしたんだもんな?」柏木はそっと産毛を撫でた。
海の上はまだ乾いている。
赤ん坊を火葬にして、あのフェリーからゆっくりと、その白い粉を撒いた。
水平線に白くかかる雲。
「キミは、人間だよ」
フェリーの屋根から一つ光が見えた。
差し込む光は、もう春の明るみだった。
柏木は尾上の墓参りに来た。
「人間が亀に似てくるのは、肉だけになり、シワだらけになって、口角が下がるからですよ」
「柏木らしいね」の声も聞こえなかった。
世界で一番あなたがキレイだったから。
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