愛と隣人の世界

愛と隣人の世界

       


 月明かりさえ照らさない裏路地。倒れている男にピストルを向けている男。

「頼むよ・・、ガキが待ってんだよ・・」男は肩を押さえ呻く。

男は何も言わず引き金を引いた。

背中がいやに小さくなった男だった。

疲れ切った影。


「寒くなってきましたね」浜屋木綿子はまやゆうこを隣に、ハンドルにもたれかかり吉村未来よしむらみらいが呟いた。

枯れ草は下を向いて、常緑樹さえ葉を落としている。

「臓器売買が発端でしたね」

浜屋は何も応えなかった。おしゃべりがあまり好きじゃないらしい。

二人は「特任」という形で出向して来た刑事だった。

麻薬の密売人が殺される連続事件。

そこに浮かび上がってきた容疑者が不破美雄ふわよしおという元刑事だった。

モミ消しが目的だ。

内偵を進め、それらしき所に「特任」が張り付いている。

「どっかで重なってしまったんですかね? レイさんのこと・・。白血病でしたっけ?」

「敗血症。刑事失格よ」浜屋が車に入って初めて口を開いた。

「刑事も人間ですもんね・・」吉村の呟きは耳に入らなかったことにしたらしい。

「普通じゃない」検屍官が言った。

遺体をまじまじと見つめたのはあれが初めてだった。

供述から割り出した不法組織の「捨て場」から発見されたのは、十数体の白骨化した遺体。

どれも十代の女性の行方不明者だった。

遺体にはひどい拷問を受けた跡があり、何らかの薬物による骨の変形が見られた。

MAIDENという新しく取り引きされるようになった麻薬によるものだという事が後になって分かった。

犯人は挙がらず、未だにお宮だ。

不破も吉村も浜屋も、以前その捜査本部の同じ専従班だった。

吉村はネクタイを緩めた。

女みたいな顔、が彼のコンプレックスだ。

浜屋はだんまりだ。

爪に土をかきむしった跡。

生きたまま埋められたのだ。

生かされたまま焼かれた死体もあった。

吉村は爪を噛んだ。

考える時のクセだ。

マザコンと思われるのも嫌なので普段はあまりしない。

浜屋は死んだように黙っている。

身元が割り出せたのは数名。

今も引き受け人がいない人がいる。

家出少女だろう。

「浜屋さんって笑ったことあるんですか?」

それなりに美人なのに。

「何で刑事になったんですか?」

「冤罪を減らすため」

浜屋はさっきから外を見ている。

ガラスに映る自分の顔を透かして、夜を見ている。

吉村はハンドルに顎肘を突いてため息を吐いた。

息が煙草臭い。

「外したか」浜屋が呟いた。

他の班は他を当たっている。

どこに居るのかは知らない。

モミ消しとはそういうものだ。

夜に似ている。

吉村は腕時計を見た。

もう少しで帰って来る。

見ると、浜屋も爪を噛んでいた。

「望み薄ですね」

浜屋がコクリと肯いた。


不破は名前も変えずに暮らしていた。

誰にも聞かれないから名前なんか無くっていい。

不破は半導体メーカーで日勤の警備員をしていた。

昼でも夜でもない光。

誰もが通り過ぎる。

A番。

腰がメキメキ言う。

体をほぐすように街をぶらぶらする。

不破は眠らない。

仮眠をとるだけだ。

もう警察が追っていることも知っている。

動き出した頃だろう。

不破は鼻が利く。

肚を見る。


しずくの母親は雫が生まれた時に亡くなった。

「この頃、お母さんに似てきたな」

それが家出をするきっかけになった。


家を出たばかりの所在なげに佇んでいた雫の周りを男がうろうろしている。

肩に重く手を置かれた。

「男に買われていいのか」

不破だった。

雫はすごすごついていった。

「一人占めかよ」

「スケベじじい」


反張たんばり雫」

「たんばり? タンバリンみたいだな」

「おじさん、警察の人でしょ? 私、よく見たんだ。近くに自殺の名所があってさ」

「どこだ?」

「違う、って言わないのね」

「それ、スパッツって言うんだろ?」

「レギンスだよ」雫は嬉しそうだった。

「これ、知ってる?」

「短パンじゃないのか?」

「ホットパンツだよ」雫は笑顔を見せた。

「それ、ウール?」

「ん、まあな」

不破はいつでも灰色に色褪せたジーンズを穿いている。

「学校なんて馬鹿が行く所よ」

不破と雫は半導体メーカーの屋上に上がった。

寝るためだけの小屋がある。

所長に頼んでご厚意で住まわせてもらっている。

帰った不破は無造作に腰からピストルを取り出し置いた。

「わあ! これ本物?」

「俺のマスタングに触るな」

「ピストルに名前付けてるの? 可愛い」

気付かなかったが、雫はドクロのエンブレムが付いた服を着ている。

「そんな服やめろ」

不破は財布を開けた。

「新しい服を買ってやる」

「何、買ってくれるの?」

「スカートを買ってやる」

「ぜつぼー」

「簡単に言ってくれるな。人間は絶望したら生きていけない。だから絶望なんて言葉は意味がないんだ」

「先の事考えるなんて、どうかしてるよ」

「昔のことだ」


「異常犯罪ですよ、これは」

吉村は憤慨を隠さずに言った。

声を荒らげた。

「まだ若いな」物腰柔らかに不破が制止した。

その時その場に浜屋がいたかどうかは覚えていない。

不破は辣腕だった。

皆に一目置かれていた。

まさか追うことになるとは。

浜屋さんは何か思ってないのだろうか?

「骨が溶けてる」

それもMAIDENの特徴だった。

インスタントカレーが常食だった。

レトルトと験を担いでのことだった。

初動は組織犯罪を疑った。

どうもそうではないらしい。

「外注ですね」

「手法が一貫してます」

「徹底的になぶって殺す。キリで穴を空けるのが被害者が抵抗できないようにさせられていたものと思われます」

「監禁、暴行、傷害、殺人、遺棄致死、はてさて・・、準死刑ですな」

「口は割れないのか」

「誰も、何も知らないと」

「掛け合わないと無理か」不破が落ち着いた低い声で言った。

皆が不破を見た。

レイ子さんが大変だった時だった。

職場の皆が知っていたが口には出さなかった。

その後、レイ子さんが死んだかは誰も分からなかった。

それくらい、不破は気丈だった。

専従班が空中分解した後、不破さんは警察を辞めた。

吉村が専従班を止めたのは、そのこともある。


「本当に一人がやれるものでしょうか」

「なにがー」浜屋はつれない。

「あのヤマのことですよ」

「不破も同じ事考えてるんじゃない?」

「けど、それで暗礁に乗り上げたわけですよね」

「座礁ねー」

「もう一度、洗い直してみませんか」

「どこを?」

「僕たちが思っている以上に不破さんは何か掴んでるかも知れませんよ」

「あのヤマをもう一度調べ直すわけ?」

吉村は肯いた。


不法組織「ネブラスカ」。

「よう、来たな罪人殺し」

「総長に会いに来た」

「知ってるよ」取り巻きがドアを開けた。

ソファに幹部が座っていて、上座に総長がいた。

机の上にピストルを置いた。

総長はしばらく歯の裏を舐めていた。

「もう殺されるのは御免でね。こっちも死活問題なんだよ」

「で?」

総長は咳払いをした。

「ミレミとかいったなあ」

幹部たちが肯く。

哀哀あいあいと名乗って暮らしているようだが」

総長はドスを効かせた。

「後は自分で探れ」

「今度はお前が追われる番だぞ」幹部の誰かが言った。


不破と雫は塀の外にいた。

出所した男が、見送りに頭を下げる。

「お務め、ご苦労さん」

「あんたが出迎えてくれるとはな」

「おい、犬。骨までしゃぶり尽くすのが、お前らのやり方だよな?」

「娘さんは死んだって聞いたけど?」雫を見て言った。

抱き上げるように首を持ち上げた。

「冷や飯は旨かったか?」

男の名は万屋紺よろずやこんといった。


万屋は元麻薬の売人だった。

「生きてるか死んでるかも分かんねえ奴」

万屋はミレミをそう言った。

万屋は情報屋だ。

「居場所は?」

「知らねえよ。ホントだ」

雫は黙ってそれを聞いている。

「絶対に表に出せない仕事を任せる」万屋は軽く肯くと、「一度でもポカした奴は、お払い箱さ。捕まえられるからな」と続けた。

「何であの事件にそんなにこだわるんだよ? あんなの氷山の一角、だぜ?」

「ガキが待ってんだよ・・」

「おじさん、子供いたの?」

「ドラえもんでもいれば違ったかな・・」

「ドラえもんはそんな恐い顔じゃないよ」

不破はため息を吐いて立ち上がった。

「おじさん、どこ行くの?」

「仕事だ」

「マスタング持って?」

不破は苦笑いして、階段を下りていった。

「変わらないな」万屋が呟いた。


万屋は逃げた。

「シャバにもブタ箱にも居場所がない」と言って。

不破は気にしてないようだった。

「アンビバレンスだな」

「何それ。どうゆう事?」

「相反する感情を同時に持つ事。好きだけど嫌がらせをするとかな」

不破は雫の服のラメを見ていた。

「家族なんだから」

雫は不貞腐れた。

「早く出て行け」


「家まで送るよ」

「いいったら」

「保護したのは俺だ」

「その子を離しなさい!」浜屋がピストルを構えている。

「浜屋か」

素早くマスタングで付け根を撃った。

それはあまりにも偶然だった。

万屋が指を差している。

高級マンションの一室から明かりが漏れている。

「お前はここにいろ」雫を置いて、不破は走り出した。

雫が追いかけてくる音がする。

万屋はもう闇に隠れた。


吉村は浜屋に駆け寄った。

「何してるの、確保!」

吉村は携帯電話で119を掛けた。

「追いなさい。早く」

吉村は無視した。


管理人はもういなかった。

コンクリート剥き出しのデザイナーズマンションだ。

確か五階だった。

覚えてるよ。死臭ってのはなかなか消えないもんなんだよな。

番号札を見てみると五階には十部屋ある。

当てずっぽうで何回か押してみる。

「哀哀さんですか?」

「いえ、違います」

「どちらですかねえ」

「留学生の方ですか? それなら・・」

503。

押してみても返答がない。

マスタングを見せるとオートロックが開いた。

雫は不破を探していた。


ノックすると、「誰? 新しいお客さん?」とドアが開いた。

「クサ?」ボロボロの黒い服を着た華奢な体つきの女だった。

麻薬常習者特有の顔つき。

ミレミはこっちに頓着する事なくドアを開けたままで背を向けた。

そのサテンの背にマスタングを突き付けた。

「売られたのね」ミレミは軽く手を上げた。

イヤリング。

欠けた爪。

銀色のペディキュア。

ナイロンのカーテンがかけられている。

簡易ベッドの他に家具らしき家具はない。

上から何本か途中で切られたロープが垂れ下がっている。

「どうやって殺した?」

「勝手に死んだのよ」

「最初から死ぬ運命だったのよ」

「生かして帰すわけにいかないし」

「拷問? どのくらいの痛みに耐えられるかの実験よ」

一歩一歩、簡易ベッドに押していく。

「お前にとって人間とは何だ」

「意味のない血の塊。トマト缶よ」

「あるいは血を含んだスポンジ」と言った瞬間に、ミレミが何かを簡易ベッドのすき間から抜き取って、こっちを向いた。

脇腹が裂かれていた。

カッターナイフだった。

「顔洗って出直してきな」ミレミは不破の顔に唾を吹き付けた。

「バラバラにして海に沈めてやる」

「あの麻薬は脳内快楽物質から出来ているの。人体には無害なはずよ」

「死ぬのが嬉しいの?」

不破は脇腹を押さえながら笑っていた。

「愛なんて時代じゃない」不破は銃口をミレミの目に向けた。

世界の隣りで。

「目クソ鼻クソを笑うね」

ミレミが雫とカブって見えた。

気持ちがブレた瞬間、首をサッと撫でられた。

立ち上がれない。気付いたら不破は血まみれで座っていた。

「誰でもよかった。殺すのに理由なんかいらない。殺してから考えるわ。人を殺したくてたまらないの」

不破はミレミの太腿を撃った。

命中してミレミがよろけた。

「俺が怖いか?」

「許して・・」びっこを引きながら、ミレミがナイロンのカーテンの陰に隠れた。

非常階段があるらしい。

不破も後を追おうとしたが、血で滑る。

ハシゴのような階段を滑り落ちた。

「レイ子・・レイ子・・」

携帯電話が震えた。

「レイ子? レイ子か・・?」

「おじさん」


「これが本当なんだろう、な」不破は夜空を見上げて呟いた。

雫が隣に駆けて来た。

「朝になったら、俺が死んだこととここの場所を警察に電話してお前は逃げろ。そうしたら全て分かってくれる」

「おじさん、警察嫌いでしょ?」

不破は微笑んで黙って首を振った。

「学校行けよ」

「運命なんかないよ」

「家帰って、学校行ったら、な」

冷たくなってゆく。

「何? 何、おじさん」

「人生は勉強の時間だ」

「馬鹿みたい」雫のつけまつげが取れた。

「あわよくば風呂場」

「おっさんギャグ」雫は不破に肘鉄を食らわせた。

「ドラえもんもいないのび太だ」

黄色い歯が可愛かった。

「人間はみんな今日死ぬんだな」

「嫌だよ。そんなの」

「なあ、一つ頼まれてくれないか。俺が死んだら――死ぬんだけど――俺をレイ子に会わせてくれないか」

「お安いご用よ」

「絶望なんて言葉は使うな」

不破は寝返りを打った。

「絶望の淵にいたのは俺かもな・・」

銀の空。

「皮肉だよね。こんな夜に限って、星が降るなんてさ」

不破は息をしていることだけが、生きている証拠だった。

「星屑なんてよく言うよね。屑なんてこの世に無いのに・・」

不破は血へどを吐いて苦しそうだった。

「奇跡っていつでも起こってるんだよね。昨日の続きが、明日なんだからさ」雫は顔を埋めて不破を揺り動かした。

「また会えるかな?」

不破は微笑んで肯く。

「私、おばあちゃんになっちゃうよ」


吉村が来た時には、もう雫が遠慮がちに不破の瞼を押しつけていた。

吉村は横を向いた。

「不破さんはどんな人だった?」

「分からない」

吉村は雫の隣に片膝を付いた。

「ハンカチも忘れちゃった・・」

吉村はよく見たら震えていた。

「震えてるの?」

吉村は泣いていた。

「馬鹿らしいね。僕らしいね」

「泣いてくれるんだね・・」

「どんな人が死んだって悲しいよ」

「当たり前」

「当たり前か・・。僕もそう言えば良かったのかな・・」

吉村はそっと不破の瞼を押し続ける雫の手を取った。

「愛は終わらないから愛なんだよ」

雫は少し大人になった。


浜屋さんは口も利いてくれない。

「吉村、義足の殺し屋がいるってさ」

先輩に新聞で肩を叩かれた。

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