第2話 婚約破棄とその後
夢を見ている。見るに堪えない夢だ。ありえるはずのない夢だ。ありえていいはずのない夢だ。だからこれは、僕の見ているただの悪夢だ。
「――お前の■■■■ッ」
「――■■! お前なんて■■■え!!」
怨嗟が降り注ぐ。憎悪が投げつけられる。聞くに堪えない雑音が鼓膜を震わせる。目をそむけたくなるような醜悪な瞳が僕を見ている。それもひとつやふたつではない。数えきれない目が僕を睨みつけてくる。
ああ、なんて気持ちが悪いんだ。
見たくない。聞きたくない。それなのに、奴らの声は僕の胸に消えない傷を刻みつける。奴らから投げつけられた小石が頭をかすめた。目の前が真っ赤に染まる。それなのに、痛みはない。あるのは深い後悔だけ。
「憎い憎いお前が憎い! お前なんて■■でしまえばよかったのに! お前なんて■■■■れこなければよかったのに! お前なんて――」
……ああ、もうやめてくれ。
視界にノイズが走った。気が付けば僕は広場にいた。いいや、違う。目の前には見上げるほど高い椅子がある。端の方には身の毛もよだつ処刑場が建てられている。
ここは裁判所だ。
木の柵で囲まれた周囲には奴らの目があった。裁定者の座る椅子には、どこか見覚えのある、けれど見たことのない誰かが座っている。
検事は告げる。僕の罪状を。
弁護士は言った。意義はないと。
傍聴人は願う。僕の■を。
「――――――――――――――」
裁定者は決定を下した。
夢の終わりはもうすぐだ。逃げ出そうとした。抵抗しようとした。足掻いて藻掻いて、泣いて叫んで救いを求めたかった。
けれど、身体はいうことを聞かない。一歩一歩確実に断頭台に続く階段を登っていく。
酷い夢だ。
悪い夢だ。
なぜこんな理不尽に会わねばならない。
なぜこんな不条理に付き合わねばならない。
もういい。もう嫌だ。こんなのあんまりだ。好きにしろ。誰か助けてくれ。僕はただ、本物の■がほしかっただけだ。悪気はなかった。こんな事になるなんて思いもよらなかった。だから、だから、だから――
ヒュンと風を切る音が聞こえた。視界が回転する。ごとりと何かが落ちる音がした。割れんばかりの歓声が聞こえる。いつの間にか空を見つめていた。雲一つない綺麗な青空だ。視界が徐々に暗転していく。僕の意識は空と暗闇に溶けるように消えていった。
・・・
「……」
僕――リチャード・メルベーユは最悪の気分で目覚めを迎えた。内容は覚えていないが酷く嫌な夢を見ていた気がする。
「お目覚めですか殿下……」
皺枯れた声。疲労が滲む大人の声。誰だ? 視線を向けるとどことなく見覚えのある男がいた。こいつは……父上の家臣で大臣を務める宮廷貴族だったはずだ。
妙に距離が近いと思えばガタゴトと振動が伝わってくる。どうやらここは、馬車の中のようだ。それも移動中の馬車。なぜ、と疑問が頭に過るのは一瞬。すぐに先ほどの記憶を思い出す。
「貴様……どういうつもりだ?」
「……」
大臣は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべるばかりでなにも答えない。
学園の卒業パーティーで、僕たちは憎き悪役令嬢イザベラを断罪した。あのパーティーには学園関係者の他に多くの来賓が訪れる。それも国を代表するような有力者たちだ。そのような場で婚約破棄を告げられたイザベラは、最早貴族令嬢として終わっている。僕たちの計画は見事成功した。悪は断罪され愛と友情が勝利した。
重要なのはその後だ。婚約破棄したことにより楔を解き放たれた僕は、愛しのアリスに告白した。最初、アリスは驚いた様子だったけど、花も恥じらう笑顔で受け入れてくれた。晴れて僕たちは愛し合う恋人になったんだ。
テンションがあがった僕は、本来イザベラと踊るはずだったファーストダンスをアリスと踊り舞い、勢いに身を任せてファーストキスをしようとした。そんないい所で邪魔が入った。それがこの大臣たちだ。
何を思ったのか、こいつらは2階の来賓席から走って会場に乗り込み、愛する恋人、僕とアリスの仲を物理的に引き裂いた。それだけでも憤慨ものだが、奴らの狼藉はまだ続く。
何様か知らないがこいつらは、僕、アリス、シーザーをその場で拘束した。ラルフが側にいてくれればどうにかしてくれたかもしれないが、生憎その時は、邪魔なイザベラを会場の外に追放する任を与えていたのでその場にいなかった。
護身術を習っているとはいえ多勢に無勢の僕。アリスは戦闘向きではない。シーザーに至っては頭脳労働専門で戦力皆無。そんなパーティーで無数のおじさん連中に勝てるはずもない。無理やり馬車に乗せられ今に至る。
「このような狼藉、ただで済むと思っているのか!」
「……全ては国王陛下の御判断に従うまでです」
「何? 父上だと?」
馬車の小窓から外を見る。薄暗いくてわかりにくいが、どうやらこの馬車は王城に向かっているようだ。こいつらの魂胆がいまいちわからない。
「父上とお会いしてどうするつもりだ? いくら寛容な父上と言えどこのような蛮行お許しにはなられない。わかっているのか? 学園の卒業パーティーは、王家が主催した正式な国事。王子である僕は主賓としてパーティーを成功させる義務があった。……それを、こんな形で台無しにして……貴様らの目的はなんだ!」
「……お話は城についてから致しましょう。その方が私にとっても殿下にとっても最優でしょう」
大臣の起こした騒ぎは、パーティーを台無しにするに値する。パーティーとは社交の場である。王族にとって社交界での失敗は大きな過失となり後の人生に影響を及ぼす。たとえ、こいつらが責任をとって自害しようと、僕につけられた傷は永遠に消えない。
ギロリと睨みつける。しかし、大臣は僕の視線に気が付かない。顔色悪くずっと頭を抱えていた。
いっそ馬車から飛び降りてやろうかとも思ったが、流石にやめた。走行中の馬車から飛び降りれば僕もただでは済まないし、こいつらの目的は不明だが、王城に行くとなれば僕の身の安全は保障されたようなもの。わざわざ危険を犯す必要もない。
「チ」
舌打ちをしながらドカリと座席に腰を下ろす。馬車の座席は座り心地がよくない。勢いをつけて座れば普通に痛い。くそう。
不平不満を貯め込みながらふと外を見る。もうすぐ王城に到着する。
――王城。
城の正門をくぐり抜け、馬車は中庭で止まる。扉側に陣取っていた大臣から馬車を降り、続けて僕も降りる。
出迎えに来たのは見覚えのある老執事だ。
「お待ちしておりました。事情はすでに承知しております。このまま先にお進みください」
大臣とはそこで別れ、僕は執事に案内されるままどこかの部屋の中に入った。
僕はこの城で生まれ育った。でも、これまで立ち入ったことのない部屋、用途の分からない部屋というのは意外と多い。城というのは、城主の生活空間と貴族の仕事場が複合されている。まだ幼かった僕は、城の中でも奥まった所にある王宮と呼ばれる区画の更に奥にある離宮と呼ばれる離れから外に出たことがない。
今いる場所は城の中でもまだ浅く、貴族たちがよく出入りしている区画だろう。見知った城の中でも、地理が分からない。
この部屋は……中央にある寛ぎやすいソファーと机。内装の質を見るに待合室の類だろうか。
「陛下の御準備が終わるまでこちらでお待ちください」
「なぜ僕がここで待たねばならない。どうせ待つなら自分の部屋に向かう」
「なりません」
不本意な形とはいえ、実家に帰って来たのに来客用の部屋で待つのも妙だろう。しかし、自室のある離宮に向かおうとすると執事に止められる。
「陛下よりご命令です。支度が整うまでリチャード様をこちらにて待たせるようにと」
「父上が? 一体なぜ?」
「愚鈍なる私には陛下の崇高なるお考えは理解できません。お茶と軽食をお持ちいたしますのでどうかご寛ぎください」
「……」
この執事は使用人の中でも最古参の男のはずだ。確か、小耳にはさんだ話だと父上の家庭教師を務めたこともあるとか。そんな男が父上のお考えが分からない、なんてことはないはずだ。……回答を濁された? なぜ?
そそくさと部屋を出て行った執事にそれ以上聞くことはできない。
少ししてノックの音が聞こえ、入室を許可すると見覚えのある侍女が勢いよく部屋の中に入って来た。
「リチャード様! 一体全体どうなさったんですか!?」
「……相変わらず騒がしいなヨム」
僕より4歳ほど年上の侍女見習いのヨムは、学園に入学する前、離宮で僕の世話を焼いていた娘だ。あまり裕福ではない子爵夫人で城には出稼ぎに来ている。既に成人を迎えているというのにピョンピョンと騒いで飛び跳ねる姿はウサギを彷彿とさせる。
「久しぶりだな元気にしていたか?」
「はいもちろん! ヨムは毎日元気いっぱいです! ……て、そうじゃないですよ!! 私の事よりもリチャード様のお話です。お城の中はリチャード様の話題で持ちきりですよ! お城に強制送還されるなんて一体全体何をしでかしたんですか!?」
「なぜ僕が悪さをした前提なんだ?」
この娘は昔から、そそっかしく噂話が好きで、そのせいでよく侍女長に怒られていた。どうやら3年たった今でも成長はしていないらしい。
「ヨムがどういう話を聞いたのかは知らないが、僕は無実だ。なんの落ち度もない。今だってなぜ僕が城に連れてこられたのか理解できないほどだ」
「そ、そうなんですか……?」
ヨムの不安そうだった顔が安堵の表情に変わる。
「よ、よかったです~。私はてっきりリチャード様が若いパトスに物を言わせて大失敗をしでかしたのかと~」
酷い誤解だ。この娘は相変わらずそそっかしい。
「じゃあじゃあ、リチャード様がイザベラ様と婚約破棄をして他の女性を口説いたというのも全部作り話だったんですね!」
「それは本当の話だな」
「え?」
「ん?」
「……待ってくださいリチャード様。今、本当の話って言いましたか?」
ヨムがよくわからない確認をしてきた。とりあえずコクリと頷いておく。
「そ、それは……何が本当、なのでしょうか? リチャード様が他の女性を口説いた、という方ですか? ……それとも」
言葉を濁したヨムの顔からサーと血の気が引いていく。両手を口元に持っていき、目が泳ぎまくっている。何をそんなに動揺しているのか。ヨムの独特な考えは昔から理解できないところがある。ただ、噂好きのこの娘に中途半端な情報を与えるのは危険だ。ここはしっかりと明言したほうがいい。
「どちらもだな。僕は悪役令嬢イザベラと婚約破棄をして愛しいアリスと真実の愛を確かめ合った。無論、アリスから了承を貰ってるから両思いだ!」
「な、ななななななな――」
わなわなと震えながら壊れた録音機のように同じ言葉を続けるヨム。僕が首を傾げて彼女の顔を除くと、ヨムは突然大声をあげる。
「何をしてるんですかあああああああああああああああああああああ!?」
「うるさいぞ」
咄嗟に耳を押さえられたからダメージは少ない。が、とにかくうるさい。毎回思うのだが、彼女はよくこんな落ち着きのなさで王宮の侍女なんて続けられるものだ。
僕の知る使用人たちは、もっと、こう、洗礼されているのだが……。まぁ、王族の側仕えともなると信頼性が何よりも優先される。騒がしいだけで能力が低いわけでもないし、こんなこともあるのだろう。
「なんでそんな事になってるんですか!? リチャード様とイザベラ様は幼い頃からの婚約者。あんなにも仲睦まじいご様子だったじゃないですか!!」
イザベラとの顔合わせは、まだ僕が5歳の頃に行われた。それから定期的に遊びという名目でお茶会を開いたりしていた。……確かにヨムの言うようにその頃の僕たちの関係は良好だった。お互い幼く純粋で、何より生まれた時から「貴方の将来の花嫁はイザベラ・ローズフィート様です。陛下と王妃様のように良き夫婦に御なりくださいませ」と聞かされて育ったのだ。当時はまだ刷り込みを否定できるほどの自我が育っていなかった。
それが学園に入学して変わってしまった。
ガミガミと口うるさく僕に指図してくるし、アレをしろコレをするなと鬱陶しい。僕もいい歳した大人だ。誰かに指図されずとも自分のことは自分でできる。何より、奴は僕にアリスと接触するなと命令してきた。王子の僕に公爵令嬢の奴が命令するとか何様のつもりだ!
それに比べアリスの天使なこと。彼女と共にいるだけで心が華やぐ。というかアリスは無事だろうか?
「そんなことより」
「そんなこと!?」
「シーザーとラルフ……それにもう一人連れてこられたと思うのだが、どこにいるか知っているか?」
「ラルフ様は知りませんがシーザー様と見知らぬ女の子なら知ってます。それぞれ別のお部屋で待機中だと侍女仲間から聞きました」
「その少女の特徴がわかるか?」
「えーと、確か、綺麗なピンク色の髪で可愛らしい子だって言ってましたね」
間違いないアリスだ。シーザー共々2人とも無事だったようだ。あの場にいなかったラルフの動向が少し気になるが……まぁ、大丈夫か。ラルフの父、騎士団長は国の英雄として有名だ。ラルフもまた父親同様優れた騎士なのだし、自分の身ぐらい自分で守れるだろう。
「アリスの……その連れてこられた少女の元に案内できるだろうか?」
「そりゃあ勿論! ……て、駄目ですよ!? リチャード様は今陛下と会うために待機中の身です! 勝手に出歩いてはいけません! というか、そんなことで流さないで私の質問に答えてください!」
うがーと、奇声なのか雄たけびなのかわからない鳴き声を発しながら、両腕を振り上げるヨム。頬を膨らませる動作に何か意味があるのだろうか?
ともあれ、ヨムは抜けているが馬鹿ではない。それに意外と頑固だ。説明をしなければテコでも動かないと言わんばかりの顔をしている。
なんともめんどくさい。別に話しても問題ないのだが、イザベラが悪に落ちアリスが天使として舞い降りた。そんな学園での運命的な物語は話すと長くなる。
……適当に答えておくか。
「かくかくじかじかまるまる」
「え――!? イザベラ様がアリスさんという女の子に嫌がらせをして、見るに見かねたリチャード様たちがアリスさんを救うためにイザベラ様を断罪したんですか!?」
「……」
なぜ伝わる!?
僕はかくかくしかじかまるまるとしか言ってないぞ。それがなんで正確な情報として理解できているんだ!!
……昔から思っていたが、この娘少しおかしいぞ。こわ。
「何を騒いでいるのですか?」
内心、僕が戦慄しているとワゴンを押すコロコロという音と共に部屋の扉が開かれる。入って来たのはヨムの上司である侍女長だ。白髪をまとめた貴婦人で、背中がピンと伸ばされている。
「ゲ、侍女長!」
「……栄えある王宮付き侍女の端くれがそのような下品な声を出すとは何事ですか」
侍女長を見て露骨なまでに表情を強張らせるヨム。そんなヨムを侍女長は、変わらない表情で静かに、けれど確実に、怒りながら真っすぐ見つめていた。
「も、申し訳ございません!」
「……殿下お茶の御準備ができました。どうぞ席にお座りください」
「あ、ああ」
腰を直角に折り曲げ頭を下げるヨム。侍女長はそんなヨムを一瞥した後、ニコリとした笑顔で僕にお茶を進めてくる。芳醇な香りが鼻孔をくすぐった。
席につき目の前に用意された紅茶を飲む。一緒に持ってこられたサンドイッチをつまみながら、部屋の隅で説教をされてるヨムをチラリと視界にとらえる。
「貴方はこのような有事に何を騒いでいるのですか?」
「い、いえ、私はただリチャード様に騒動の詳細を聞こうと思って……」
「貴方は宮廷の調査官。もしくは憲兵ですか?」
「ち、違います」
「なら、殿下に事情聴取をすることが貴方のお仕事なのですか?」
「……ち、ちがいます」
女性としてはやや大柄なヨムと比べ、侍女長の身長はさほど高くない。それなのに言葉が行きかう度にヨムの姿が段々と小さくなっていく、幻覚を見た。
「では改めてお聞きします。貴方が今やらねばならない事はなんですか?」
「リチャード様の身の周りのお世話です! それに陛下との謁見の準備です!」
「ならばさっさと行動に移しなさい。正装とはいえ、今の殿下の御姿は少々問題がありますよ」
自分の姿を見降ろしてみる。パーティーの為にあつらえた純白のスーツは、会場から連れ出された時の大臣たちとのひと悶着のせいで汚れやヨレが目立つ。家族とはいえ国王陛下に合う為には不遜だろう。
「ただちに着替えを持ってきます!」
そう言うとヨムは凄い勢いで部屋を出て行く。それを見送った侍女長は頭に手をやり深くため息を吐いた。後で説教が延長されることだろう。
しばらくしてヨムが着替えを持ってきて、身支度を整える。丁度いいタイミングで案内の従者が父上の準備が整ったと告げに来た。
「……おい、どこに向かっている?」
ヨムと侍女長とわかれ、護衛騎士に囲まれながら案内の後についていく。そこでふと疑問に思った。僕が父上と会う時は、王族専用のプライベート空間である王宮に呼ばれる。しかし、今向かう先は王宮とは別方向だった。
「陛下は『玉座の間』にてお待ちです」
「玉座の間だと……?」
読んで字のごとく、玉座が備わっている部屋のことだ。勲章の授与式のような特別な式典。王家主催の祭事。他国の使者との謁見。後は、稀にだが罪を犯した貴族の裁判に使用されるような場所だ。
なぜそんな場所で父上は待っているんだ?
玉座の間に続く渡り廊下には大勢の騎士が配置されていた。それも全身甲冑のフルプレート。随分と物々しい。何かあったのだろうか?
「こちらです。扉より先は殿下お1人でお進みください」
解けない謎に思考を持っていかれているうちに玉座の間の前まで到着していた。
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