間章 少女ふたりの嘆き

姉が好きだ。浅井遥斗はそう言った。


「わあ、久しぶり~。何にも変わってない!」


わたし、神崎水樹かんざきみすきは、努めて平静にリビングを見まわした。

校門で遥斗はるとを待っていたわたしは、溢れる心臓の鼓動を抑えるように、渇く喉元に生唾を流し込んだ。


「うわ~。懐かし~」


そうして訪れた彼の家、実に一年ぶりだ。


「ごめん、ちょっと出てくる」遥斗はるとは廊下に出た。


それは正直ありがたかった。まだ前までどう過ぎしていたのか、思い出すので必死だった。


たった一年来なかっただけなのに、こんなにも過ごし方が分からなくなるなんて、なんだか別の場所に来たみたいだ。


所在なげにしていたわたしの目の前には、都合のいいことに革張りのソファが、行っちゃえの精神で、そこに身を投げる。この時には、落ち着かないのでスマホをいじりいじりする。


少しして、遥斗はるとが戻ってきた。

遥斗はるとはわたしと対面になる形で、扉側のソファに寝転んだ。


いや、女の子が家に来てるんだから少しは意識しろよ。


遥斗はるとはそのままテレビをつけて見始めた。

夕方の情報バラエティが、わたしの緊張を逆なでして、こんなにも緊張してるのはわたしだけなのかなって、呆れてきてしまう。


遥斗はると~、麦茶とって~」


「いや、自分でとれよ」


そんな奥手だから、わたしはスカートでも憚らず、足をぷらぷらとさせたり、これでもバレーやってる身だし、足にはそれなりの自信があった。


でももしかしたら下着が見えてるんじゃないかと焦ってすぐにやめたけど。


ここに来るのは、決まって、つかれた時に、泣きたい時に、休みたい時。

こころり所、だった。


ずっとこのままでいいのかな?


ふと、そんな疑問が過った。


ここにはいつも遥斗はるとがいて、邪魔だと思ってたけど若菜わかなもいて、そうして弱虫なわたしがいた。


遥斗はるとと二人っきり、若菜わかなを入れて三人、どちらの方がいいとか、まだ結論はつけられないけど、悪くはなかった。練習で疲れたわたしの心には、十分な休息になったし、なにより肩にかかる重圧がなかった。


でもこんな状況でも、昔のままでいいの?


「・・・・・・良いわけないじゃん」


深い海の底から浮かび上がったような黒い感情が、わたしの口元から苦言を零した。


「旦那~、漫画が読みたいです」


いつまで経っても鳴りやまない鼓動を、必死に抑えて、あの時と変わらないような口調で言った。

ぱちん、とこの時にうるさいスマホのを落とした。


「取ってこようか?」


「いちいち持ち運ぶの面倒でしょう?わたしが行くよ」


やわらかいフローリング階段を上がって二階に、いつもはしゃいで登った階段が、今では小ぶりで手狭だ。あんなに足を一生懸命あげて登っていたのに。

まあ、その感想は小学校を上がって少しすれば無くなったが、そう思ってしまうという事は、わたしの中の時間は、あの時から動いていないのだろうか。

過去を睨むように、若菜わかなの部屋の扉を見た。


やっぱり、終わりにしないとダメだよね・・・。


ずっと変わらないと疑わなかった。遥斗はるとを好きになった時だ。

終わりはあるのかもと、薄く気付いた。遥斗はると若菜わかなを好きとわかった時だ。

永遠に続けばいいのにと思った。彼と共に歩いた帰り道。

終わりが来たんだと悟った。遥斗はると若菜わかなを好きと言った時。


「なに読みたい?」


ベッドの横、本棚の前に座りこんだ彼は、手のひらで収まる厚さに、一瞥する。


もうこの関係はうんざりだ。


〝 いいの? 〟


こいつからは絶対に動かないから。


〝 いいの? 〟


いいに決まってる。自分のものにすることの何が悪い。気持ちを伝えることの何が悪い。


〝 それはズルじゃない? 〟


ズルじゃない。隙を与えたあいつが悪い。取られたくないのなら、彼を閉じ込めておけばよかったのだ。わたしの手の届かないところに置いておけばよかったのだ。


だからわたしのすることに間違いなんてない。


そうしてわたしは遥斗はるとをベッドに押し倒した。


「み、ず・・・き・・・・」


遥斗はるとは今まで見たことないくらい、驚愕から目を見開いていた。その様相に、自分がどれだけ女として見られていなかったんだと、悔しさが渦中で渦巻く。



なんでそんなにわたしのことを見てくれないの?



今は言えてないけど、あの時は何度も好きって言ったよ?


あなたが髪が長いほうが良いって言ったから伸ばしたよ?


あなたが、若菜わかなに見られるのが嫌って言ったからすぐに離れたよ?言うこと聞いたよ?



何が足りないの?



もしかしたらガツガツ行くのが悪いのかと思って我慢したよ?


わたしに足りないのは若菜わかなみたいな優しさなんじゃないかと思って、君を励ましたよ?


いつも隣を歩いてたのはわたしで、一緒にいた時間も負けてないはずだよ?


なのに、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで———————。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


どれくらいの時が経っただろうか・・・・。

お互いが、お互いの顔を見つめて、


——————ああ、でもそっか・・・。


悪い虫が付いているのなら、消しちゃえばいいんだ。


「塗り変えてやる」


この時のわたしは声も体も震えていた。なんかちょっと泣いてたかも。いつもつけてる香水の匂いも、どこか遠い。


押し倒しているのはわたしだけど、実はすごく怖い。


「んっ・・・・」


意を決して彼の唇を奪った。

そのつやのある柔らかな感触に触れられただけでも、して良かったかなって思った。


わたしの伸びた髪が、ベッドに沈む彼の顔を包んだ。それは外界を遮断するとばりで、若菜わかな遥斗はるとを隔絶する防御壁のようだった。


嫌に鼓動がうるさい。彼もそうだと良いな。


あ、これヤバい。やめられないヤツだ。


こんなに気持ちいいこと、もう少し早くにやっておけば良かったな。


遥斗はると・・・・」


ごめんね、本当は若菜わかなとしたかったよね。


「・・・・・好き」


きゅぽんっと、水槽の底、水止めを引き抜いたように、気持ちが溢れた。

そこからはもう止まらなかった。


「わたし・・・ずっと遥斗はるとのことが好きだった」


自分でもどう伝えるのが正解なのかわからないから、だたひたすらに彼に気持ちを伝えた。


「抱きしめて貰えてうれしかった。いつもそばで支えて貰って救われた。遥斗はるとしかいないの。わたしがここまでやってこれたのは遥斗はるとのおかげ。遥斗はるとの為なら何でもするし、全てを捧げらる。」



言い終わってしまった。ダメだ止まるな。わたしの気持ちはその程度ではない。もっと言いたいことはたくさんあったはずだ。取り繕うな、品がないだとか、可愛くないだとか、関係ない。・・・ないのだけれど・・・なんでわたしの喉音にはこんな厭らしほどに小骨が詰まっているんだ?


わたしは言葉で表現できないから、彼の体に訴えた。


あ、嚙んだら声が出た。これが気持ちいのかな。ならもっとやってあげよう。ほら、わたしあなたのためなら何でもするよ?痛い事も、苦しい事も受け入れるよ?する方でもされる方でもいい。


男のくせにつややかなうめき声。もっとしてあげたい。


最後に鎖骨さこつから口元をみやびに離したわたしは、


遥斗はるとが好きっ・・・遥斗はるとが好き!・・・・大好き!」


少しずつ高まった声が、静寂の中で消えた。わたしは心臓が弾けそうになるのを意識して、彼からの言葉を待った。


「・・・・・水樹みずき、俺は姉さんが好きだ」


・・・・・・・・・・・・・あ・・・ああ・・・・・。


やだ、捨てられる、やだ。


彼の傍にいられなくなっちゃう。こんなに好きなのに、こんなに愛してるのに。


わたしのこと好きって言ったじゃん・・・。ねえ、好きなんでしょ?わたしも好きだよ?ねえ、遥斗はると・・・遥斗はると・・・。


「だから———————」

「やめて・・・」


言葉にしないで、それを言ってしまえば、わたしは本当にあなたと一緒に居られなくなる。


力が抜けて、へたりこんだわたしは、虫さえも殺せない力で、迫る遥斗はるとの胸を突き放そうとした。だけど、そんなもので止まるわけがなかった。


「聞いてほしいんだ、水樹みずき

「やだッ!」

「聞いてくれ!だからッ!———————」


力強く、彼女の両肩を掴んだ。

突然の事で、わたしは肩をびくりとはねさせた。


やだ、こんな、こんな痛みはやだ。


遥斗はるとは正面からわたしの目を見た。


「だから・・・—————————」


何かを言おうとしていた。

けれどその内容は、言葉にしなくても、分かってしまった。


なら、そのまま言わないで。聞かないから、それでなかったことにしよ?それならまだわたしはあなたの傍に居られるよね?今はダメでも、次なら、今度なら・・・・。


だからわたしは、その場から自分の存在を消してしまおうと、逃げてしまおうとしたのだ。けれど、それは遥斗はるとに止められてしまった。


掴まれた腕、離してッ!、と叫びそうになった唇を、今度は彼の方から塞いできた。


その行動が、どんな意味を伴うのか、残酷にも、冷酷に、わたしの胸の中に刺さった行動原理、心臓を貫いた。


〝 これが最後だから、諦めてくれ 〟


(・・・やだ・・・やだやだ・・・イヤアァッ!)


お別れなんていやだよ。これから一人だなんて考えられないよ。いつも遥斗はるとと並んで歩けることが嬉しかったのに。


もうそれが終わりだなんて、こんな終わり方だなんて。


わたしは泣いていて、優しいから振ったことに心を痛めた彼も泣いていた。


なら振らないでよ。傍に置いてよ。


「・・・んっ・・・遥斗はると、好きっ・・・・・やだ、やだぁ・・・・」


わたしも初めは抵抗ていこうしていたけど、もうこれ以上この快楽を味わうことが出来ないとわかれば、せめてもと、自分から求めた。味わうように求めた。彼の首に腕を回して、それを求めた。


こんな最悪なものは、したくなかった。


◇  ◇  ◇  



次の日になった。玄関で膝を抱えるわたしの頭の中は、真っ白だった。

あの時の感覚が、今もよく残っている。


最後に感じた愛は、冷たく鋭く、けれど甘い。


玄関げんかんから出て、学校に行こうとした。


「あっ・・・み、水樹みずき・・・」


出ると偶然ぐうぜん遥斗はるとと出くわした。家がとなりなのだから、よくあることなのだ。


「・・・・・・・」


わたしは踵を返して、学校に行った。


見てはいけないと思った。戻れなくなる。彼がせっかく最後に与えてくれたものが無駄になってしまう。


わかったよ遥斗はると。あなたは若菜わかなが好きなんだよね?


大丈夫、消えるから。もう関わらないから。できるかわからないけどあなたのことを忘れるから。


「さようなら」


そうして、わたしの恋は、終わったのだ・・・・・。



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次回『〝星〟になりたい。浅井遥斗はそう言った。上』

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