雨は砕き、雷鳴は胸を貫く。

「先生、どうにかしてください。こんなの間違っています」


「・・・・・・・なんで皆、僕のところに来るのかなぁ」


数学の準備室、そこで高校教師の田端たばた光輝こうきは、そう愚痴をこぼした。


一夜明けた今日、水樹みずき遥斗はるとの現状を訴えるため、田端たばたのもとへ直談判しに来ていた。


神崎かんざきさんはクラスも違ったよね?それにそういうことは僕じゃなくて君の担任に・・・」


遥斗はるとはあなたの生徒じゃないですかッ!」


準備室に響いた叫びに、田端たばたは顔を歪める。

水樹みずきの言葉はその通りであり、浅井あざい遥斗はると田端たばた光輝こうきの管轄である。

そのため、これまでも彼女のように生徒が暴行を加えられているという苦情は何度も届いていた。


だが・・・・。



水樹みずきの言葉通り、この問題に首を突っ込む教師はこの学校にいない。

水樹みずき田端たばたのもとへと来る前に、多くの教師へと訴えた。

だがその中に、首を縦に振る者はいなかった。


田端たばたもそれは予想できた。

教員の間でも、この話題は有名だ。


学校の問題、ひいては職員の問題にとなるこの悪逆に、なぜだか「手を出すな」と上から釘を刺されているのだ。


その中で自分だけ歩調を乱せば、どんな目で見られるのか・・・。

その奇異の目は、田端たばた光輝こうきが最も恐れているものだ。


「ほら、そんなに断られたのなら、わかるだろ?今回は相手が悪いよ。一介の教師がどうにかできる問題じゃないんだ。それによく考えてみてよ?僕たち教師は通常授業を受け持つばかりか休日は部活動の顧問に時間を割かれる。平日も休日もなく馬車馬のように働かされて、正直もう手一杯なんだ。そこに今回みたいな、複雑な問題が迷い込むものだから、もうパンクしちゃうよ」


「お願いです、先生・・・・」


女生徒の願いを、直視できなかった田端たばたはデスクへと向き直った。彼はそのまま背中越しに、、会話を続ける。


浅井あざいくんも、なんで佐々木ささきさんを敵にまわしちゃったかな・・・・。あんなの理事長のお気に入りなんだから、どんなことしても揉み消してもらえるってわかるだろうに・・・」


「助けてください」


背後から聞こえる助けを求める声に、田端たばたは伸びをした。


「さあて、仕事は山積みだ。・・・・ああ、あのロッカーの処理、どうしようか。とりあえず始末書は確定だとして、事務員さんに頭を下げて—————」


田端たばた先生しかいないんです・・・」


そんな蚊帳の外であろうとする田端たばた水樹みずきは尚もしがみつく。

そぜならもう、彼しかいないのだ。


だが田端たばたは・・・・。


「・・・・・・やめろ」


背中から聞こえる正しさに、怒りを覚えた彼は、小さくそう言った。


しかし、その小さな怒りは水樹みずきには聞こえていない。それほど小さかった。それが、彼の教師としての最後の防波堤ぼうはていであり、矜持きょうじだったのだ。


だが、その矜持きょうじも現状の前では簡単に砕けた。


「もう頼れるのはあなたしか——————」


「やめろって言ってるだろッ!」


田端たばたは叫ぶと同時に、デスクで頭を抱えた。

その姿は耳を塞ぐ子供のようだった。


「これ以上、僕の弱さを晒さないでくれッ———————」


水樹みずきはその叫びに面喰めんくらい、唖然あぜんとした。

夕焼け色に染まる窓が、少しずつ水樹みずきから体の熱を奪っているようだった。


「こんな無力な僕を突き付けないでくれ!もうすごく惨めなんだよ!」


最後の一人、頼みの綱であった教師が、いなくなってしまった。


「本当はこんなはずじゃなかった。もっと尊敬される先生になりたかったっ・・・」


教師にはなりたかった姿があった。

だけれどそんなのは夢のまた夢で、叶おうはずもなかったのだ。


「もっと生徒を救ってあげられる大人になりたかったっ・・・」


最後に部屋に響いたのは、田端たばた光輝こうきの嘆きだった。



◇  ◇  ◇



自宅のベッドで、浅井あざい遥斗はるとは目を覚ました。


(ああ・・・、もう夕方か・・・)


遥斗はると茜色あかねいろに染まった外の風景に、自分が寝込んでいたことを思い出した。


熱を出してしまった遥斗はるとは、本日の学校を休んだのだ。


身を起こして自室から出た彼は、体温を確かめた。


熱は下がっているし、体中にある苦痛も幾ばくかマシになっていた。


(これなら・・・・)


そうして遥斗はるとは、荷物を鞄に詰め込んで身支度を始めた。


学校を休んでズルい気はするが、もう文化祭まで時間が無いのでそんなことは言ってられない。早く明日華のもとへ行って当日の打ち合わせをしなければ。


靴を履いて、扉に手を掛けた。


「・・・・え?」



「・・・・あれ?・・・・・あれぇ?・・・・・」


意を決して外に出ようとするが、どんなに力を込めても外には出られなかった。


その上に、震えが止まらない。


手首を握って、震えを抑えようとする。


そうだ、扉が開けないのはこの震えのせいだ。


「はは・・・はははは、大丈夫だ。少し休めば、すぐに動けるはずだ」


震えがするのは多分寒いからだ。季節は冬に近づいている。身が凍えるのになんら不思議なことはない。


なら体を温めよう。


遥斗はるとは自室で毛布にくるまった。


「大丈夫・・・大丈夫だ」


肩が寒い。肩をさすろう。


そうすれば頭に思い浮かぶ、あの金属の光景は消えるはずだ。


「はあ・・・はあ・・・ハハッハ!」


膝が寒い。もっと身を固めよう。


そうすれば頭に思い浮かぶ、あの鈍痛の光景は消えるはずだ。


お腹も、背中も、頭も、胸も、あばらも、腰も、腕も、顔も、足首も、手首も。


体中にある〝これ〟は、そうすればきっと、消えてくれるはずだ。


「はあ・・・はあ・・・ハアッ・・・ハアァッ・・・」


しかし、そう願おうとも、震えも〝それ〟も消えてはくれなかった。


もう何も、何も残ってはいない。

寒くない場所なんて、どこにも・・・・。


「いや、違う・・・俺にはまだここがあるじゃないか」


遥斗はるとは、自分の胸を押さえてそう言った。


この胸の内は、なによりも、どこよりも強い。



◇  ◇  ◇



「姉さん、起きてる?」


遥斗はるとすがるように、姉である若菜わかなの部屋の戸を叩いた。


その声には、数日前の寄り添うような優しさは見る影もなく、とても余裕は見られなかった。


「起きてないなら、それでもいいんだけさ・・・」


もう体だけではなく、声まで震えていた。

その声には、話した内容からは考えられないほどうものであり、これまでの遥斗はるとからは考えられない悲痛さだった。

その悲痛さは、扉の向こうの無言で一層増していく。


「今度の文化祭でさ、見てほしい物があるんだ。姉さんにとっては、一年ぶりだよね・・・・って、姉さんは行ってなかったんだっけ?なに言ってんだろ、俺。あはは・・・」


それはまるで、外に締め出されて中に入れてほしいよとすすり泣く子犬のような泣き声だった。


「出てきてよ、姉さん。お願いだから・・・それで見てほしいんだ。、見てほしいんだ」


その発言に、扉の先から微かに音がした。



言葉を言い終わると、静寂が下りた。

それはこれまで体験した中でも、感じたことのない時間だった。


遥斗はるとの視線が一点、目前の扉である。彼はそこから目を離さなかった。

すると・・・。


カチャリ・・・・・、と扉が開いた。


遥斗はるとは戸の先から視線を外せなかった。

だって、そこには会いたかった人が立っているのだ。


そのふたりを見て、かつての姉弟を思い浮かべる者はいない。

一年しか経っていないのに、彼らの姿形はあまりにも変わっていた。

まるで数千年も経ってしまったかのようだ。


「さっき言ってたのって・・・ほんと?」


遥斗はるとが言い淀んでいると、若菜わかなが口を開いた。

再会して初めの一言は、疑問だった。


「あ、ああ!姉さんに見てもらうために頑張ったんだ!」


その疑問に、遥斗はるとはすぐに答えた。


「今度の文化祭でやるんだ。見に来てほしい」そう遥斗はるとは、姉である若菜わかなに頼んだ。だけど、若菜わかなは・・・・・。


「・・・・・やめときな。ロクなことにならないから」


遥斗はるとの願いを、残酷にも斬り捨てた。

一瞬、何を言われたのかわからなかった遥斗はると、それを受け入れることを拒んだ。だって彼にはもうそれしか残っていなかったのだ。


だから、惨めにも未だに縋りついている。


「そんなことにはならないよ。それに俺はあなたに見てほしい」


「じゃあ、やっぱり意味ないよ。だってわたし行かないから」


若菜わかなは縋りつく遥斗はるとを突き放すように、「絶対に行かないから

」と、そう言葉を叩きつけた。


遥斗はるとの中で、心の指針が迷った。


(あなたに見て貰えないのなら、俺はなんのために・・・。)


必死に言葉を探る。しかし、思い浮ぶ言葉はなく。これまで15年間も生きて来たことがバカらしくなってしまうくらい真っ白だ。


なにより来たくない人を来させる言葉なんて遥斗はるとにはわからない。

そんなの今までしてこなかった。


「好きなんだ。姉さん」


だから彼には、己が内のただ一つの気持ちを伝えることしか出来なかった。


もう挫けてしまいそうなのだ。もう壊れてしまいそうなのだ。


彼はもう限界だったのだ。


(あなたの言葉があれば、俺はまだ戦えるから。)


彼の中で、もう支えと言えるモノは若菜わかなしか残っていなかったのだ。

言葉さえあれば、彼はよかったのだ。


「・・・何よそれ・・・・・・」


だが、欲した言葉は彼に送られることはなかった。



◇  ◇  ◇



「・・・何よそれ・・・・・・」


わたしは弟の言葉を受けて、怒りを覚えた。

こいつは今なんて言った?


一年ぶりに部屋から出てみればこれだ。やっぱり良い事なんてひとつもないのだ。


わたしが好き?ふざけるな、それはもうわたしにはない感情だ。


顔に熱がこもる。怒らずにいられない。


わたしがどんな気持ちでそれを捨てたと思っている・・・。


それならわたしが大好きな弟から身を引いた意味がないじゃないか。


「ふざけんな!」


なぜだ?言葉にしなかったからか?


「どうせお前も嘘をついているんだろ!」


言葉にしなかったから弟は立ち止まっているのか?なら、望み通りそうしてやる。


「それは一時の感情で、状況が変われば平気で捨てるんだろ!」


わたしが消えれば、弟は幸せになれるはずだから。


「気持ち悪いんだよ!昔から!」


わたしが突き放せば、弟は普通の生活に戻れるはずだから。


そう言ってわたしは、遥斗を突き飛ばした。

振った裏拳が、弟の眉骨に直撃する。


よろめいた遥斗は、そのまま背後の階段を転げ落ちた。



◇  ◇  ◇



額に衝撃を受けた俺は、そのまま背後によろめいて階段を転げ落ちた。


だけど今の俺には、体に走る激痛よりも、姉さんにぶつけられた拒絶の方が痛かった。


姉さんはそこまでのことをするつもりはなかったのか、落ちた俺を見て、ただ茫然としていた。


時間が少し経つと、眉間から血が垂れた。頭を切ったのだ。


「ちょっと、何の音ッ?!———————遥斗ッ?!」


突然の気味の悪い音に、騒動を聞きつけた母さんが駆けつけた。

母さんは階段を駆け上がり、目前の踊り場で横たわる遥斗はるとを見るや、すぐに駆け寄った。


遥斗はると、何があった・・・アンタ、ちょっと体を見せなさい?!」


母さんは俺の体を見まわして、えりからのぞいたに、血相を変えた。


慌てて裾を持ち上げた母さんは、それを見て口元を覆った。


そこにはおびただしいほどのあざ傷跡きずあとがあったのだ。


「うそ・・・・」


姉さんも俺の体を見て、信じられないと言うようにうわ言を吐いた。


その言葉で姉さんの存在に気付いた母さんは、俺と姉さんを左右に見比べた。


若菜わかな、アンタ・・・」


次の瞬間、母さんは明らかに顔に怒りを浮かべた。それは娘に向けるものではない。


当の姉さんは、母さんが迫る前に、部屋に逃げ出した。


それを追いかけた母さんは、華奢な右手が壊れてしまうほど力強く、扉を殴った。


その振動は、俺の心の奥深くで響いた。


「若菜!あんたいい加減にしなさいよ!」


やめて・・・————————————、


「部屋からも出てこないで!」


やめてください・・・————————————、


「あんたなんてお荷物よ!」


僕の大好きな人を攻撃しないで・・・————————————、


「この疫病神!」


お願いだから・・・母さん・・・お願い・・・————————————、


「あんたみたいな娘なんて持ちたくなかったわよ!」


もうこれ以上、姉さんを傷つけないで・・・————————————。





「母さん、やめて・・・。俺は大丈夫、大丈夫だから・・・」





階段の小さな踊り場で横たわる遥斗は、そのまま力なく呟いた。


でもそれは吹けば消えてしまうほどのかすれ声で、とても激昂する母に届くものではなかった。


その様子に、遥斗は、全てを悟り、考えることすらも嫌になって、ただ倒れた。




もうすべてが痛い。


バッドで殴られた肩が痛い。


蹴り折られた足が痛い。


踏みつぶされた背中が痛い。


口の中も、血交じりのよだれで、呼吸すらもままならず億劫だ。







唯一、残っていた心も、今、砕けた。







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次回「打つ雨は止み、覆われた雲が晴れる。」

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