灰色の日常 持つべきではない想い

くすぶった灰色の廊下が、一歩ずつ歩くごとにきしみをあげる。


俺、浅井あざい遥斗はるとは、扉へと突き出した手を、所在なげに一度引いた。


胸の中のにがみを噛みしめて、決心けっしんした彼は戸を叩く。


努めて明るく、寄り添うように。


「姉さん、父さんも母さんも、もう家を出たよ」


「・・・・・・・」


「俺ももうすぐ出るから・・・」


返ってくる声はない。

彼女が心を閉ざしてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。


浅井あざい若菜わかな。一つ上の遥斗はるとの姉だ。


「行ってきます」


そう言って、遥斗はるとは学校に行った。


固い扉が開いたのは、彼が自宅から出た一時間後だった。



◇  ◇  ◇



ローファーがアルファルトを鳴らす、もう慣れ始めた通学路。

遥斗はるとはそこを歩く。


「はーるとっ!」


背後から声がかけられた。

肩に当たった衝撃へと振り向くと、そこには遥斗はると幼馴染おさななじみがいた。


神崎かんざき水樹みずき。幼稚園から高校まで、ずっと一緒に通う幼馴染おさななじみだ。


頭の斜め上に結ったサイドテールに、反対側に垂れた特徴的な長いサイドヘアが揺れて、ほのかにリナリアの花の香りがした。


「おはよう!」


「おはよう。水樹みずき、驚かさないでくれよ」


「辛気臭い旦那がいたもんですから、元気をおすそ分けしてやろうかと」


むふふんっ!と得意げに言った水樹みずきはそのまま、「一緒に行こ!」と背中を押した。


「危ないって!転ぶ転ぶ!」


「転ばない転ばない!走れ走れ!」


その足が落ち着きだしたのは、遥斗はるとの自宅が見えなくなるまでだった。


「髪、伸びたね」


「お!旦那も女の子についてわかってきましたね。そういえば髪は長いほうがタイプでしたね。どうです?かわいい?」


水樹みずきは垂れたサイドヘアをはらりと持ち上げた。


「似合ってるよ。でも心配だよ。部活だと目に入るでしょ?」


彼女は運動部に所属している。


「そこは結ぶんで大丈夫ですよ~。年頃の乙女が、運動でおしゃれを捨ててやるもんですか」


「・・・・・・」


遥斗はるとは、どこか陰りの感じる笑みを浮かべて応対した。


彼らが歩き出して、最寄りのコンビニに差し掛かった頃だった。


「ちょっと朝ごはん買ってくる。先行く?」


「わたしはそこまで薄情じゃないですよ。

 早く行ってきなされ。っていうか家で食べてこなかった?」


「うん・・・ちょっと、家では食べづらくて・・・」


「・・・若菜わかなのこと?」


水樹みずきから、先程までのおちゃらけた様子がなくなった。


「うん・・・」


彼女の面持ちが、一瞬、沈痛なものに変わった。それに申し訳なさを抱くが、同時に、一緒に分かち合ってくれるから、どこか救われていたのだ。


「元気出しなよ。きっとすぐに元通りになるよ」


「・・・そうだといいね」


「まあ、シスコンの旦那のことですし、旦那の想いが届いたり?愛の力ですべてが上手くいきますよ~」


「・・・ああ」


「・・・否定しないんだ」


「自分でもわかってるよ」


彼女が言いたいこともわかる。誰かに理解されたいとも思ってはいない。


この恋は、自分のなかだけに押しとどめておくべきものだ。


だから、小さい頃は、それを隠すように、別の恋をするようにした。幼稚園が同じだったり、同じクラスになったり。

漫画なんかである、テンプレートに当てはめて、そうなんだって決めつけて。


でも、消えなかった。


〝『遥斗はるとが間違ってるなんて、ありえないよ』〟


その言葉に、凄く救われた。

この気持ちは間違いじゃないと、言ってもらえた。


当時不安定だった遥斗はるとを支えてくれた水樹みずきがいたから、今の彼がある。


この恋を抱いてもなお、こうして普通に生活できている。


「でも最近はすごく怖い。もしかしたら自殺するんじゃないかって・・・」


「・・・・・・・」


水樹みずき?」


押し黙った様子を不審に思った遥斗はると、だが水樹みずきは、


「ううん、なんでもない。ほら!早く買ってきて!学校遅れるよ!」


強引にコンビニへと押し出した水樹みずきに、遥斗はるとはしぶしぶ向かった。


「・・・・・・なんてこと考えたんだ、わたし」


遥斗はるとの背中が、コンビニに消えた頃には、水樹みずきの表情は一転していた。



◇  ◇  ◇



学校から帰ってきた遥斗はるとは、いの一番に姉である若菜わかなの部屋に向かった。


「ただいま。帰ったよ、姉さん」


返答はない。


「寝てるの?」


あまりにも返答がないものだから、嫌な想像をする。しかし、微かに生活音が聞こえて、安心できた。


「学校で預かったものがあるんだ」


少しでも会話をしたい。していたい。長く、確かに。


「・・・顔が見たいよ」


この目で、確かに。


「また、一緒にご飯を食べたい」


もう一度、家族としてでもいいから。


「出てきてほしい」


切実な願いが、余韻を残してこだまする。

落ちた沈黙に、ダメかと、嘆息して自室に戻ろうとした時だった。


本当に小さく、声が聞こえた。


「姉さん!」


その声に、遥斗はるとはすぐに扉へ飛びついた。


「何て言ったの!?姉さん!姉さん!」


機会はここしかないと思った遥斗はるとは、何度も力強く呼びかけた。


「姉さ———」


「うるさい!」


だけど返ってきたのは、この世のすべてを恨む拒絶だった。


「うるさいうるさいうるさい!」


その絶叫に、遥斗はるとは唖然とした。言葉を発せなかった。



「もうやだ! ・・・ やだ 、やだ ! ヤダアアアアァアアァッ !」


絶叫が、遥斗はるとの心を揺らした。

悲痛に歪んだ彼女の声は、何者をも受け付けない壁で、もしかしたら別人なんじゃないかって疑うほどに、脳内の笑顔だったころの姉とは重ならなかった。


壊れた錆びつきの人形だった。

錆びた部分を、互いにすり減らす、耳障りなかなぎり声。

ぱぁーんっ!という甲高い割れ音が、ずっと響いていた。

それは、うそいつわりないの魂の叫びだった。それほどまでに、鬼気迫るものだった。


「こ、こんなはずじゃ・・・」


遥斗はるとは、現状を受け入れられなかった。望んだことが、こうも裏返るなんて。


「ごめん、ごめんなさい!許して!」


遥斗はるとは預かったものを扉の前に投げ捨てて、自室から道具を持ち出して、家を飛び出した。


その間にも、絶叫は彼の鼓膜を揺らした。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※次回『憩いの場所』

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