第六章 決着1

 シュゼット・パルメ・シャルリエは、その名のとおりシャルリエ島のパルメという町で生まれ育った。


 島の中心地となる都市ほどではないが、それなりに栄えた大きな町で、往来も人でにぎわっていた。


 彼女の一番古い記憶は、窓から見下ろす大通りのながめで、そこには様々な年格好の人がいた。


 買い物帰りの若い女、手紙の配達人、馬車を駆る御者、商店へ入る客、店から出てくる男女、そしてそんな人々のあいだを器用に走り抜ける子供たち……シュゼットは三階にある自分の部屋から、よくその光景を見ていた。


 彼女の父親は大きな商会を営んでいた。食料や生活雑貨はもちろんのこと、美術品や空挺手が持ってきた地上の品なども取り扱っていた。


 商会にはひっきりなしにいろいろな人がやってきて商品を買い求め、あるいは自慢の品を売り込みに来ていた。活気にあふれていて、娘であるシュゼットは特に可愛がられていた。


 父親は眼鏡をかけた気弱そうな男だった。


 一代で商会を築き上げたとは信じられないほどのお人好しで、誰か困った人がいると知れば、すぐさま駆けつけてあれこれと相談に乗っていた。お金を貸すことも珍しくない。


 あまりに人がいいので知り合いの商人から、そんなことだといつか痛い目を見るぞ、と忠告されたことさえあったという。


 だが、シュゼットの知るかぎり、父親が痛い目を見たことはなかった。


 もし金を持って逃げたやつがいれば、どこかで事故に遭って亡くなるか、意識不明の重体に陥っていたからだ。


 騙そうと取引を持ちかけてきた相手は、街道の途中で盗賊団に襲われて身ぐるみを剥がれた挙句、子供や妻を誘拐されてしまった。


 これらの出来事を、まわりの人々は天罰だと言っていた――あんないい人を騙さそうとするから、と。


 シュゼットはそんな父親を誇りに思っていた。だから父の言うことはなんでも聞いた。


 彼女に魔術の素質があると知った父は、シュゼットにわざわざ専門の家庭教師をつけて、徹底的に娘の才能を伸ばした。


 練習や勉強は厳しくつらかったが、彼女は泣き事ひとつ言わなかった。父の言うことだから間違いない、そう思っていた。


 なにより彼女自身、魔術の腕前が上がっていくことが楽しみで楽しみで仕方なかったのだ。


 母親はシュゼットが新しい魔術を使えるようになると、にっこり笑ってうれしそうに娘の頭を撫でるのだった。


 将来はやっぱり魔導師かな――と母親が言うと、いや僕としては商いの道にも興味を持ってほしいんだけどなぁ、と父親はぼやいた。


 そんな父の頭を小突いて母は、だったら魔術だけじゃなくて、ほかのことも教えてあげなよ、と苦笑いしていた。


 幸せな日々だった。穏やかで、こんな日がいつまでも続くのだと、この頃のシュゼットは思っていた。


 勉強も順調、魔術の腕前もぐんぐん上がって、町の人たちもみんな親切だった。同じ年頃の子ともよく遊んで、将来を語り合った。


 空挺手になりたいと言って、両親に怒られている男の子もいた。


 シュゼット自身は、実のところこれといった目標は持ち合わせていなかった。


 ただなんとなく、自分は魔術の才能にあふれていて、弟や妹は商売のことを熱心に学んでいたから、きっと商会は継がないのだろうな、と思っていた。


 たぶん、自分と弟妹との関係は、今の父母と同じようなものになるのだろう。彼女は自分の将来をそう予測していた。


 弟や妹が商会を切り盛りし、自分は魔術協会の協会員になって、魔導師となるための厳しい試験を突破し――最終的には母と同じように警邏隊の隊長に就任、町の治安を預かるような生活をするのだと、そんなふうに考えていた。


 ある日のことだ。シュゼットは十三歳になっていた。


 雨がやんだばかりの夕暮れで、空が真っ赤に染まっていた。その日は珍しく人が少なく、とても静かだった。大通りからの喧騒がやけに小さく、遠くから聞こえてくるように思えた。


 シュゼットは、商会の奥にある倉庫の前まで来ていた。いくつも並んだ倉庫のうち、ひとつの扉が開きかけていたからだ。誰かが慌てて出て行ってしまって、鍵を閉めるのを忘れていたのだろう。


 シュゼットはふらりと倉庫の前に立って、扉を閉めようとした。鍵をとってこないと……そんなことを考えながら。


 物音がした。何か落ちたのだろう、反射的にシュゼットはそう思った。


 別に、そのまま扉を閉めて商会の建物へ戻っても、なんの問題もないはずだった……だが、彼女はなにげなく倉庫のなかへ目を向けてしまった。


 少女がいた。目隠しをされ、猿ぐつわをかまされ、音が聞こえないように耳栓もしてあった。手足を縛られ、身動きひとつとれず、ときおり小さくうめき声のようなものをあげていた。


 目隠しの部分が濡れているのは涙のためだろうか。綺麗に仕立てられた上等な服も、よく手入れされていたであろう綺麗な髪も乱れ、土で汚れていた。


 シュゼットの知っている少女だった。


「魔術の神童」の異名をとるシュゼットに興味を持って、わざわざ数日前にたずねてきてくれた女の子だ。


 確か、父親は魔術協会本部のある都市で、魔導師と市議会議員をやっている人物だ。


 パルメの町には三日ほど滞在し、シュゼットとは何度も顔を合わせている。町のあちこちを案内したのは、つい一昨日のことだったろうか?


 今朝方、都市へ帰るために御者や従者とともに自家用馬車に乗ったのではなかったか。


 シュゼットは目の前の状況が信じられず、しばらくのあいだ呆然としていた。


 が、やがて正気に返り、助けなくてはと倉庫内へ足を一歩踏みだした瞬間、肩をつかまれた。振り向くと、父親が怖い顔でシュゼットを見ていた――知らない人のように思えた。


 彼は不快そうにかたわらにいる男をあごで促した。


 年をとった男、その人物もシュゼットの知っている人だった。母の部下だ。


 警邏隊の隊員をしているはずの、魔術協会の協会員。年老いた男は恐縮した様子で、おずおずと倉庫の扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。


 そして、そのままシュゼットは商会の自室へ連れて行かれた。


 ここで待っていなさい、と父親は言うと足早に出て行った。


 シュゼットはわけがわからず、ただぐるぐると同じことばかり考えていた。


 どうしてお父さまはあの子を助けなかったのだろう? どうして警邏隊の隊員は、あの子を解放しなかったのだろう?


 彼女は混乱しきっていた。


 そもそもあれは現実だったのか? 窓から往来を見下ろして、自分は今まで白昼夢を見ていたのではないか、と彼女は考えるようになった。


 そう、あんなことは起こるはずがない、起こるはずがない……。


 不意に扉が開いて、心配そうな顔の母親が飛び込んできた。シュゼットは母が来ても、まだ夢のなかにいるみたいにぼんやりと現実の空間をたゆたっていた。


 意識は相変わらず混濁して、夢と現実をうまく処理できずにいた。


「大丈夫よ、シュゼット。心配することは何もないんだよ。お父さまが全部うまくやってくれるんだからね」


「はい、お母さま」


 夢うつつで彼女は答えた――そして数日後、盗賊団に捕らえられていた市議会議員の娘が無事に解放され、家族と再会したという話を知った。


 新聞記事によると、パルメから都市へ帰る途上で襲われ、盗賊団に連れ去られたそうだ。


 盗賊団は莫大な金を要求したが、議員ひとりでは現金を用意するのが難しく、困っていたところをシュゼットの父が話を聞きつけて、すっ飛んでやって来たらしい。


 ――僕の娘に会うためにパルメの町まで来たんです、これは僕の責任でもあります、どうか僕にも協力させてください……!


 父は涙ながらに訴え、足りない分の金を支払ったそうだ。


 議員はこの行動に大変感激し、この恩はいつか必ず返す、君が困っているときは必ず私が力を貸そう、とこれまた涙ながらに語ったそうだ。


 なるほど、とシュゼットは思った。


 確かにお父さまはうまくやってくれたのだろう。事実、父も母もとても上機嫌だった。シュゼットは自分の部屋で新聞記事を読み、ぼうっと夢のなかにいるような気分でイスに座っていた。


 そこへ母親がやって来て、新しいドレスがほしくない? と訊いてきた。


「あのね、シュゼット。お母さまはね、今の暮らしをとっても気に入っているんだよね。あなたもそうでしょ? この暮らし、手放したくないわよね? 今の幸せな生活を?」


「はい、お母さま。わたし、この家で暮らせてとても幸せよ」


「そうだよねぇ。シュゼットは聡い子だし、わざわざ言わなくってもよかったことかしら。じゃ、どうすればいいかも、ちゃんと理解してるわよね?」


「誰かに言ったりなんかしないわ、お母さま」


「いい子ね。で、そんないい子のシュゼットには、新しいドレスをプレゼントしてあげるわ。なんならドレス以外でもいいわよ? お父さま、だいぶ張り切ってるから」


 考えておくわ、お母さま、とシュゼットは答えた。


 しかし、彼女が考えていたのはまったく別のことだった。空挺手のこと、地上のこと、そして今回の一件のことだった。


 彼女は一ヶ月ほど、おとなしくしていた。


 その一ヶ月のあいだに、彼女は図書館に通いつめて地上に関する情報を、空挺手に関する情報を徹底的に収集した。


 同時に、あの一件について、あれこれと頭を悩ませていた。


 父は……今までずっと同じようなことをやってきたのだろう。


 困っている人のところへ行き、力を貸す――今まで幾度となく聞いてきた父の行動だ。今回も、そしてそれ以前の件も、おそらくすべては父の手で起こしたことなのだろう。


 調べたかぎり、父と被害者の市議会議員とのあいだに特別なつながりや確執といったものは見つからなかった。


 単純に市議会の有力者に恩を売ることと、金を手に入れること――このふたつが目的だったと考えて間違いない。


 そして、母もこれら一連の出来事に関わっている。


 そもそも父と一緒にいた男は警邏隊の隊員だったのだ。隊長である母が、この件に関わっていないなどあり得ない。


 それに盗賊団の長期にわたる活動を見れば、警邏隊に協力者がいることは明白だった。


 議員の娘をさらったのは、シュゼットが生まれる以前から存在する有名な盗賊団だ。彼らの悪名はシャルリエ島全土にとどろいている。


 だが、浮遊島は広いようでせまい。


 最北端から最南端まで、あるいは最東端から最西端まで行くのに四日か五日あれば十分なのだ。


 十数年にわたって、警邏隊の目をかいくぐって逃げ続けるなど不可能だろう。どこかで尻尾をつかまれるはずだ。


 だが、もし仮に、警邏隊のなかに――それもかなり高い地位にいる者の協力が得られるのならば話は別だろう。母はパルメの町の警邏隊隊長であり、魔術協会本部にもちょくちょく顔を出すような凄腕の魔導師だ。


 父にしてもそうだ。


 父には多くの友人知人がいた――魔術協会の協会員、魔導師、村議会、町議会、市議会の議員たちなど……。今回の件と同じだ。


 父はよく、ああやって知り合いを増やしていた。いざというときに力になってくれる人たちを。


 ひょっとして、とシュゼットは地上について調べながら考える。


 父がシュゼットに、あれほど熱心に魔術の勉強をさせたのは、母の跡を継がせたかったからなのか?


 成長したシュゼットが警邏隊の隊長になり、魔導師として魔術協会本部で確固たる地位を築けば、商会はより盤石なものとなる。


 それが目的だったのか? かつてのシュゼットが夢見た未来――自分が警邏隊の隊長として働き、弟と妹が商会を切り盛りする。


 何も、変わってなどいない。


 少なくとも、表面上は同じだ。以前、思い描いていたとおりだ。


 ただ、ひとつだけ違うところが、変わったところがあるとすれば……それは自分たち家族が、盗賊団と連携して私利私欲を満たすために犯罪に手を染めている、という点だけだ。


 その未来は、シュゼットにとってひどく不快なものに思えた。


 今の生活が嫌いなわけではない。家族仲だって良好だ。誘拐された議員の娘にしても、怪我のひとつもせずに無事に帰還している。


 シュゼットの日常に変化はない。


 だがそれは、ちゃんと金が支払われたから――議員が父の利となるように振る舞ったからにほかならない。


 もし、あそこで協力を拒んだり、正義のために自分の娘を見捨てるような行動をとっていたら……シュゼットはため息をついた。


 このことを告発すべきなのだろうか?


 常識的に言えば、すべきなのだろう。魔術協会本部に足を運んで、父と母の罪を訴える。


 だが、訴えれば商会は終わりだ。


 シュゼットたちの平穏な生活は終わりを告げるだろうし、父も母もいなくなる。後ろ指をさされ、場合によっては恨みを買った誰かに襲われるかもしれない。


 結局、シュゼットは決断できなかった。


 このまますべてを見なかったことにして、元の生活に帰ることもできなければ、魔術協会に父母の非道を訴えることもできない。


 切羽詰まって、追いつめられた十三歳の少女がとった行動は、逃亡だった。


 事件からひと月ほど経ったある夜、シュゼットはこっそり旅装をととのえ、家を出た。この日のために大量の赤光石しゃっこうせきを作り、入念に準備を重ねていた。


 魔術で姿を隠し、町を出てひたすら歩いた。そうして明け方に都市までたどり着き、彼女は空挺宿くうていやどをたずねた。


 よく覚えている。


 シュゼットが扉を開けて足を踏み入れた途端、会話がぴたりとやんだ――明らかに旅装束で、異様に見えたのだろう。シュゼットは宿の主人に浮遊島の飛行ルートをたずねた。


「空挺手なのか?」


 宿の主人は怪訝な顔だ。


「そうよ。新米だけどね」

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