第六章 決着2
シュゼットは嘘をついた。
宿の主人は疑わしそうな顔をしていたが、まぁどこを通るかくらいなら、と教えてくれた。ちょうどよく、明後日には降下大山の近くを通るようだった。
シュゼットは礼を言って出て行った。
そして――尾行された。シュゼットを見て、何か金目の物を持っているとでも思ったのか、それとも父の手先だったのか、あるいは単にシュゼットが女だから追いかけられたのか。
彼女にとって理由はどうでもよかった。シュゼットは得意の魔術を駆使して空挺手たちをまいた。これが神童とまで謳われた天才児の実力だった。
だが、そんなシュゼットでさえも、気流の境界線の突破から下山までは死にかける羽目になった――いや、むしろ運が悪ければ間違いなく死んでいただろう。
彼女は追いかけてくる空挺手たちをまいたあと、浮遊島各地を転々として身を隠した。たったの二日間だったが、それでも彼女にとっては緊張の連続だった。
浮遊島は小さすぎたのだ。シュゼットは、ふと気づくとこのあいだのように、父が背後に立って肩に手をかけるのではないかと怯えて、心の安らぐ時間がなかった。
不幸中の幸いというべきか、起きているときはあまりにも緊張していたから、夜はぐっすり眠ることができた。疲れすぎて、ベッドに入るなり朝まで熟睡していたのだ。
シュゼットが初めてパラグライダーで空を飛んだ日、すでに太陽は中天に昇っていた。寝過ごしたと慌てて、それから冷静になってみすぼらしい宿の一室で深呼吸を繰り返した。
もちろん変装し、できるだけ父や母と関わりがなさそうな村や町を選んで泊まってはいたが、はたして本当にその程度のことでごまかせたのかどうかはわからなかった。
シュゼットは宿の勘定を払うなり、足早に村を出て行った。
そして人目につかない場所で魔術を発動させ、自分の姿を隠した。まわりから見えなくなっているはずだが、それでも彼女は監視されているのではないかと疑心暗鬼に陥った。
安堵できたのは、降下大山まで無事にたどり着いたときだ。
彼女は、ひょっとしたらここに父や母の手勢がいて、自分を捕まえるのではないかと思っていた。だが、そんなふうにはならなかった。
少なくとも見える範囲に人はいなかったし、すでに昼過ぎであるためか、ほかの空挺手の姿もなかった。
彼女は遠ざかっていくシャルリエ島を見ながら泣きそうになっていた。だが、ぐっとこらえて目尻をぬぐった。もう二度と戻ることもないだろう。
父、母、弟、妹……商会の人たちとも、町の人たちとも、もちろんあの議員の娘とも。
シュゼットは頂上から、気流の境界線がある場所にむけて歩き出した。
彼女は下調べを済ませていたから、むやみに気流の境界線に突っ込むような愚は犯さなかった。ちゃんと直前で止まって、赤光石を駆使して見事に突破――したはいいが、ここでシュゼットにとっての誤算が起きた。
彼女は知識として、気流の境界線がどういうもので、突破するときにどういうことが起き、そして下山するときはどうすればいいのか知っていた。
しかし、経験として身についていたわけではない。
シュゼットはうまく気流の境界線を貫いて、無事に地上側へ出ることができた。そして地面に叩きつけられるときも、衝撃を緩和するようにしっかり防御障壁を展開していた。ここまではよかった。
問題は、激突で喰らう怪我の痛みが、シュゼットの想像をはるかに超えていたことだった。しかも背中を強打してしまい、しばらく呼吸することすらできなかった。
そして猛烈な冷気がシュゼットの体温を奪い、あっという間に意識すら刈り取られそうになった。
シュゼットは必死に傷を治療しようとするが、とても集中できるような、魔術を使えるような状態ではなかった。震えて涙を流しながら、来なければよかったと、あるいはいっそのこと、あの空挺手たちに捕まってしまえばよかったと彼女は思った。
慰み者にでもされたのか、父のもとへ送り返されたのか、身ぐるみを剥がれたのか、あるいはそのすべてか。どちらにせよ、ひどい目に遭えば商会に帰ろうと考えを改めたかもしれない。
過酷な環境と、怪我の痛みでシュゼットの思考は麻痺していた。死ぬ、という言葉が本気で頭をよぎり、生きるのをあきらめたくなった。
これ以上、必死になって魔術を使おうと、意識を失うまいとあがくのはつらい……だが、それでも彼女は生にしがみついた。
シュゼットはまず、赤光石を砕いて痛みを強引に消した。痛覚をすべて遮断したのだ。痛みはもちろん寒さも感じない。
気持ち悪い感覚だったが、魔術を使うための、本当に一時的なものだと自分の心に言い聞かせた。
彼女は自分の傷を癒やし、耐寒のための魔術をかけ、さらに高山病にならないように自分の周囲の気圧も調整した。シュゼットは呼吸をととのえると、額の汗をぬぐってまっすぐに山を降り始めた。
降下大山には多くの変異種がいる。クニークルスの里に着くまで気を抜くことはできない。彼女はちゃんと学習していた。
だが、やはり頭でわかっているだけで、きちんと経験を積んで血肉と化しているわけではなかった。彼女は下山に時間をかけすぎた。
普通なら、遅くとも一日で地上まで到着しなくてはならない。降下大山には危険な変異種がたくさんいる。そのような危険地帯を何日もうろつくのは自殺行為だった。
下山に時間をかけるのは愚策であり、普通は魔術を駆使して一気に降りる――もちろん変異種に遭遇しないよう細心の注意を払って。だが、彼女は五日もかかってしまった。
当然のように変異種とも鉢合わせし、何度も何度も戦闘をする羽目になった。
シュゼットの魔術の才覚は見事なものだった。だが、それでも四つ五つの魔術を同時に発動させ続けるのは難しかったのだ。
耐寒と高山病対策、これに変異種を見つけるための探知魔術が加わり、さらに雪や氷だらけの悪路や下り坂を歩くべく魔術魔術を駆使する。
もちろん方角も常に確認せねばならない。霧や猛吹雪で視界がきかなくなったら、魔術で位置を把握しなければならないのだ。
ひとつひとつの魔術はそれほど難しいものでもない。しかし同時に、しかも常時展開させ続けなければならないのがつらかった。おまけに日が落ちてからは暗視の魔術も使わなくてはならない。
夜になれば睡眠をとり、食事もしなければならないが、彼女の心が休まることは決してなかった。
なにせ敵だらけだ。味方がいない状況では休息もままならない。彼女はろくに眠れず、食事も喉を通らず、常に緊張状態で魔術を使い続けていた。
その疲労は、シュゼットの想像を容易に飛び越えていた。彼女はたびたび疲労回復の魔術も併用しなければならなかった。
そして、慣れていないがゆえに過酷な環境で変異種と交戦する羽目になった。熟練の空挺手なら、そもそも変異種に悟られることなく降りていただろう。だが彼女はまだ新米で、しかもひとりきりだった。
頼れる大人はどこにもいなかった。彼女は猛吹雪のなかで変異種と戦いながら、何度も何度も祈るように思った。
――誰か、自分を守ってくれる人がいてくれたら……! と。
空挺宿で、誰かに仕事として依頼をしてみたほうがよかったのだろうか? ひとりで来るのが無謀だったのか? 神童などとおだてられていても、結局は何も知らない無力な子供と同じ……。
彼女は切実に、自分のとなりに誰かがいてほしいと思った。
心細くて、さみしくて、とにかく一緒に山を降りてくれる仲間が、苦楽を共にしてくれる誰かがほしかった。どうやって山を降りたらいいか、クニークルスの里まで行けばいいのかを教え、導いてくれる頼りがいのある誰かにいてほしかった。
だが、彼女はひとりだった。
となりには誰もいない。すべて、自分ひとりでどうにかしなければいけない。
彼女は視界の利かないなかで、探知結界を頼りに変異種を仕留め、そして山を降りた。前を向いて。
だが、彼女は怖くて怖くて仕方がなかった。初めて見る変異種は、幸いにも小物ばかりだったが、それでも鋭い牙や爪で襲いかかってくる迫力はすさまじいものがあった。
十三歳の少女を恐怖させ、あれほど固く決意していたはずの心を折るほど、変異種は恐ろしい存在だったのだ。
シュゼットは変異種との遭遇を避けるために、しょっちゅう立ち止まっては探知範囲を広げ、場合によっては岩陰や木のうしろに身を隠した。ときには下るのではなく登ったこともある――そうしないと避けられなかったからだ。
だが、そこまでやってもなお、変異種との戦闘は続いた。
どうしても見つかってしまうのだ。うまくやり過ごしたと思った直後、寒気を感じてシュゼットが防御障壁を展開させると、死角から攻撃を加えてくる。そんなことが何度もあった。
いつしか、シュゼットは防御障壁も常時展開するようになった。
攻撃を受ける直前に察知して発動! などということが何度もできるはずがなかった。戦闘が避けられないのなら、常に防御障壁を張って敵の攻撃にそなえるしか手はない。
彼女は疲れをとる魔術を何度も何度も使った。八合目から七合目、六合目、五合目、四合目、三合目、二合目、一合目……そして無事に地上にたどり着いても、彼女の緊張が途切れることはなかった。
重々しいまでの疲労感も。
疲れは魔術で回復しているはずなのに、どういうわけか疲れきっていた。何度かけても、赤光石を砕いて増幅しても、とれることはなかった。
彼女はあきらめて、森をさまよった。
変異種をよけるのに必死で、目的の方角までまっすぐ進むことができないのだった。彼女は幽鬼のようにうつろな瞳で足を引きずって歩いた。
唇は乾燥してかさかさになり、肌も荒れ、目も落ちくぼんでいた。十三の娘には見えないほど、彼女は衰弱していた。
森を抜け、遠くにクニークルスの里らしきものを見つけたとき、彼女の心にはなんの感慨も浮かばなかった。
ただ、目の前にあるものが幻のように頼りなく、現実ではないように見えていた。近づいたら、儚く消え去ってしまいそうな気がして。
彼女は歩きながら無感情に、機械じかけの操り人形のように動いていた。
少しずつ少しずつ近づいていく。だが、彼女の体は持たなかった。
クニークルスの里まで、あとほんの少し……というところでシュゼットは倒れた。あらゆる意味で限界が来ていた。
肉体も、精神も、すべてが摩耗していて、どうしようもなかった。
シュゼットは自分が倒れたことさえ自覚できず、ただただぼんやりとしていた。頭に霞がかかったように何も考えられなかった。
気がついたとき、シュゼットは暗闇のなかにいた。
すぐそばに誰かのぬくもりを感じた。とてもあたたかい、安心できるものに自分が包まれているのを感じた。それがなんなのか、よくわからないまま彼女はまた眠りに落ちた。
数日ぶりの安眠だった。彼女はぐっすりと寝入っていて、すぐには目を覚ましそうになかった。
結局、シュゼットが起きたのは五日後のことだった。
といっても、彼女は最初、自分がどこにいるのかまったくわからなかった。何も見えなかったからだ。
まぶたを開けているのか閉じているのかさえ、はっきりとしない。彼女は怖くなって、かたわらのぬくもりに抱きついて顔をうずめた。
ぬくもりは優しくシュゼットを包み、安心させてくれた。
「起きられる?」
と、あたたかな声が聞こえた。シュゼットは返事をしなかった。が、代わりに胸のなかでうなずいてみせた。相手は笑ったように思えた。
すると、シュゼットの体がふわりと持ち上げられて、どこかへ連れて行かれた。
シュゼットはこれが自分の見ている夢なのか、現実なのかわからない状態で、されるがままになっていた。まだ、彼女は本調子を取り戻してはいなかった。
無理をしすぎて、体を動かすのが――否、頭を働かせることさえ億劫だった。
進むにつれて、暗闇のなかに光が満ちてきた。彼女はまぶしさに目を閉じた。まぶたを通して光が入ってくる。今まで感じたことがないほどの明るさだった。
そうしているあいだも、どんどん先に進んでいく――やがて立ち止まった。
さわやかな風が吹いていた。上から暖かいものが降りそそいで来て暑いくらいだったが、そのおかげで風が心地よかった。
シュゼットはまぶしさに耐えながら、少しずつ目を慣らしていき、自分の周りにある光景を見た。
まず目に入ったのは、高い高い青空だった。
ところどころに雲があって、そのあいだから、はるか遠くに群青色の空が見えた。雲は白く、大きく、天をつくように伸びていて、その間隙を縫うように青い色が空を染めていた――雲のない浮遊島の空とは、まるで違う光景だった。
このとき、初めて本物の空を見たのだと彼女は思った。
浮遊島から見るのではない、先祖たちがずっと昔から見てきた光景を目にしたのだと。
しばらく呆然と空に見入っていると、まわりから声をかけられた。
首をめぐらしてみると、見たことのない人たちが――うさぎの耳と尻尾を持ったクニークルスたちが――心配そうにシュゼットをのぞき込んでいた。
彼女はぎょっとして、自分を抱き上げている女性の豊かな胸にしがみついた。
だがその女性にも、うさぎの耳と尻尾が生えていた。つややかな長い髪をした二十歳前後の女性で、とても綺麗な瞳をしていた。
「怖い?」
と彼女は微笑して訊いた。シュゼットがなんとも言えずにいると、
「大丈夫よ。あなたはちゃんとたどり着いたの」
そういって抱きしめてくれた。
暗闇のなか、ベッドのなかで感じたぬくもりが、またシュゼットを包み込んだ。
彼女は安堵で意識を失って、闇のなかに舞い戻った。だが、もう怖くはなかった。さみしくもなかった。心細いと思うこともない。
かたわらには、常にぬくもりがあった。
二ヶ月ほど経った頃、彼女は完全に回復し、同時に里を訪れた空挺手から地上に関するあれこれを学んだ。
ほかにも降下大山を下山するときの注意、逆に登るときに留意すべきこと、本当に様々なことを学び、吸収していった。
そして半年ほど経った頃、彼女は里を出て旅を始めた。ずっとここで暮らしてもいいと言われてはいたが、せっかく地上へ来たのだからと、シュゼットは空挺手として生きることを選んだ。
地上から見える遠い空を何度も瞳に映しながら。
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