第三章 降下大山6

 シュゼットは白光石を手に取ると、魔術で光を操った。一瞬、目の前の視界がぼやけて、やがて元に戻る。一見すると何ひとつ変化が起きていないように思える。


 だが、遠目から確認すれば、シュゼットたちの姿がパラグライダーごとぼんやりと歪んで、見えなくなっていくところが観察できたはずだった。


「何したの?」


「ちょっとまわりから見えづらくしただけよ。飛ぶと目立つでしょうから。浮遊島を出て、しばらくは発動させておくことになるかしら? それより、行くわよ?」


 シュゼットは魔術で風を起こし、そっとキャノピーを浮かび上がらせた。ラインによってキャノピーとつながっているハーネスも重力に逆らって、地面から浮き上がりそうになる。


 独特の浮遊感だ。


「リック、軽く地面を蹴って前に走って――」


「こう?」


 突然のことにシュゼットは悲鳴を上げた。


 ふたりはパラグライダーのキャノピーを置き去りにするかのような速度で駆け、あっという間に浮遊島から飛び立った。


 シュゼットがリックに文句を言ったのは、離陸して機体が安定してからのことだった。


「軽くって言ったでしょう……?」


 少しばかり怒気を含ませて言うと、リックは困り顔でシュゼットを振り返った。


「別に、そんなに力を入れたつもりはないんだけど……」


「ああそうね、あなたたちフェーレースの怪力と駿足っぷりをうっかり失念していたわたしのミスだわ。それもかなり重大な――。ごめんなさいね、リック。あなたは悪くないわ。すべては浅はかなわたしのせいよ?」


「そ、その――ごめんなさい、シュゼット……。次は気をつけるから……」


 シュゼットは苦笑いを浮かべると、


「まぁいいわ。それより、このまま南のドヴォー地方まで行くわよ」


「南へ五時間?」


「一番手近にある降下大山は、今いるヘイマー地方の山なんだけどね」


 シュゼットはブレークコード(操縦のためのライン)と風を同時に操って、パラグライダーを器用に旋回させた。遠くに巨大な山があった。


 目を凝らすと、その山に向けてパラグライダーがいくつも飛んでいくのが見えた。


「あれがヘイマー地方の降下大山よ。魔女と違って、人間はああいう大きな山からしか地上へ降りることができないの。標高が九〇〇〇ブラキウム(およそ六五〇〇メートル)を越える――要するに、気流の境界線よりも高い位置に頂がある山じゃないダメなのね」


「あの人たちも、みんな空挺手なの?」


「そうよ。降下大山に行こうとするやつなんて空挺手ぐらいのものだわ」


「気づかれない?」


 リックは不安そうに言った。距離はだいぶ離れているが、見晴らしがいいので向こうからも丸見えだろう――本来ならば、だが。


「大丈夫よ。光の屈折でこっちの姿は見えないはずだから。もちろん近くまで来られれば違和感に気づかれるでしょうけど」


 シュゼットはパラグライダーを旋回させて、南に進路を向けた。


「さて、追っ手の気配もないようだし、しばらくは空の旅を楽しみましょうか」


「平気なの?」


「何が?」


「その、五時間も飛んでて疲れない? それに白光石で大丈夫なの?」


 シュゼットはくすりと笑った。


「ねぇリック、パラグライダーがどうやって飛んでるかわかる?」


「風でしょ? 風を操って――」


「半分正解かしらね。確かに離陸のときは魔術で風を起こしたわ。さっき旋回したときも、わたしは魔術を使って風を操ってる。でも、最初ほど強くは使ってないのよ?」


 え? とリックは振り返ってうしろのシュゼットを見た。目が驚きでまんまるになっている。かわいらしいと思って、自然とシュゼットの口から笑みがこぼれた。


「気流の境界線よ」


 シュゼットは真下に視線を向けた。


 小さな山々が目に映った。頂上の高さがそれぞれ違うので、でこぼこした緑の絨毯のようにも見える。


「気流の境界線の近くには、常に上昇気流が吹いているの。知ってる?」


「吹っ飛ばされて浮遊島に戻される前から、体がばらばらになりそうなほどのものすごい風が吹きつけてくるよね。あれのこと?」


「なんだか飛ばされたことがあるような言い方ね?」


 リックは答えなかった――が、シュゼットは今の会話でだいたいの事情は想像できた。


 おそらく空挺宿に来る前、すでにリックは試していたのだろう。パラグライダーを見たとき、真っ先にパラシュートかと訊いてきたのも、自分で作ったことがあるからだと考えられる。


 おおかたフェーレースの怪力で強引に気流の境界線を突破し、地上に激突することを避けるべくパラシュートを使う心づもりだったのだろう。


 だが、強烈な上昇気流に弾かれて浮遊島へと逆戻りさせられ、仕方なしに空挺手の助力を得ようとした――自分と出会わなければ、助力というより利用になっていただろうが。


「空挺手はパラグライダーに乗って、降下大山まで向かうわ。浮遊島が降下大山の近くまで来るのを待って……。だから、必ずしも降りたい場所に行けるわけじゃないのよね」


「じゃ、それまではずっと浮遊島で待機?」


「基本的にはそうなるわ。で、時期が来たらパラグライダーで目的の降下大山まで向かうんだけど――降下大山って数が多くないのよ」


 たとえば、今いるサーブリー大陸には四つしかない。


「ここから北に三五ウィア(およそ三十キロ)ほど進んだ地点にひとつ。さらに東に一六〇〇ウィア(およそ一三八六キロ)ほど進んだ地点にひとつ。で、残りふたつのうちのひとつが……」


「これから向かう山?」


「そうよ、だいたい二一〇ウィア(およそ一八二キロ)くらいの距離かしらね。パラグライダーの速度だと五時間くらいかかるわ。ちなみにサーブリー大陸の最南端にも降下大山があって、そっちのほうが圧倒的にリンデル地方に近いんだけど、でもここからだと距離が三五〇〇ウィア(およそ三〇三三キロ)くらい離れてる……さて、ここで問題よ。リック、もしわたしたちがパラグライダーで最南端の降下大山へ向かうとしたら、何時間かかると思う? はい、十秒以内に答えて」


「え!? えっと――!」


 リックは焦った様子でまごついていたが、すぐさま、


「わかんない……」


 とあっさり白旗を上げた。シュゼットは苦笑する。


「降参するのが早すぎない?」


「だって、計算とか苦手だし……」


「ま、不得意分野は得意なやつに任せてしまったほうが効率がいいからね」


 人間やフェーレースと同じだ。フェーレースが魔術を使おうとしたり、人間が徒手格闘を極めようとしたり、そういうことをしてもうまく行かない。


 格闘戦ならフェーレースに、魔術なら人間にやらせたほうがはるかに効率がいい。


「正解は八三時間ちょっとよ。日数に直せば四日弱というところかしら」


「休みながらなら、意外と――」


「ただし、途中休憩はないわ。いえ、正確には二一〇ウィア(およそ一八二キロ)ほど進んだ先で一時的に休めるけど、そこから先はぶっ続けで飛ぶことになるわ。食事も睡眠もとれない。不眠不休でずっと飛び続ける。気流の境界線があるから魔術で風を起こさなくても上昇気流の恩恵を受けられるけど、方角を見失わないために、操縦士であるわたしは常に気を張って、パラグライダーを操ってなきゃいけない。それに多少は風を起こして移動速度を速めてるから……」


「うん、それは無理だね。途中で力尽きる」


「理解してもらえてありがたいわ」


 シュゼットはほほえんだ。


「そんなわけで、わたしたちはドヴォー地方で降りる。そこから先は、陸路で目的のリンデル地方を目指すことになるわ。いい?」


「わかった」


 リックは前を見ながらうなずいた。


「でも、五時間は飛び続けるんだよね? 体力とか、大丈夫?」


「一応魔術で疲労回復しながら飛ぶわ。だから……まぁ五時間くらいなら平気ね。ただ、丸一日とかになると、さすがのわたしでも落ちるわ。試したことはないけれど」


 そもそも普通は五時間も飛ばない。


 空挺手がパラグライダーで飛行する時間は、長くてもせいぜい一時間から二時間程度だ。二一〇ウィアも離れた場所へ行こうとするものなどそうそういない。


 通常は浮遊島が降下大山の近くに来るまでじっくり待っているものなのだ。


「とにかく、しばらくは空の旅を楽しみましょうか」


 シュゼットはそう言って前を向いた。視線の先には空と大地があった。地上に存在するありとあらゆるものが上空からは見渡せた。


 ところどころ、大地に青い線を引くように川が流れている。日の光を受けて、水面が輝いている湖があり、その近くには地上の民の里があった。おそらくクニークルスのものだろう。里の近くに広大な田畑があったからだ。


 気流の境界線よりも高く飛んでいると、ときおり下のほうに鳥のような人影を見かける。


 大きな翼をはためかせて、悠々と空を飛行していた。


 アウィスだ。カペルと違って頭に立派な角はないが、背中に翼があるという点で、両種族は同じだった。


 ただ、アウィスのそれは鳥によく似ていた。羽毛が生えていて、コウモリのようなカペルの翼とはだいぶ違う。


 彼らは地上の民のなかで、唯一高い空を飛びまわれる種族だった――だが、そんな彼らであっても、気流の境界線を越えることはできない。


 例によって地上側から突っ込むと、強烈な突風によって地面に叩きつけられるからだ。


 ゆえにアウィスは、決して高度九〇〇〇ブラキウム(およそ六五〇〇メートル)には近づかない。どんなに高く飛んでも気流の境界線が近づけば高度を下げる。


 彼らの本能が危険を察知して、それ以上高く飛ぶことを拒絶するのだと主張するものもいる。


 今も、シュゼットの視界に映る彼らの姿はとても小さい。距離が離れすぎているためだ。彼らが大きな獲物を運んでいる途中でなかったら、気づくことさえできなかったに違いない。


 隊列を組むようにして飛ぶアウィスたちは、網にくるまれた巨大なクジラを運んでいる真っ最中だった。


 網には、太く頑丈なロープが幾重にも結びつけられていて、アウィスたちはそれぞれロープを握りしめて空を飛んでいた。遠目から見ていると、強風に煽られてぐらんぐらん揺れ動くクジラの様子が観察できた。


 アウィスたちは一糸乱れず悠々と飛行している。墜落の気配さえ見せない。


 クジラはさすがに重すぎるため、複数のアウィスたちが共同で運んでいた。目を凝らすと、彼らの近くに別のアウィスたちがいた。大小の魚の入った大きな網を吊るすようにして持っている。


 彼らの飛行速度はとても速い。パラグライダーで飛ぶシュゼットたちが、散歩をするような速度で飛んでいるとすれば、アウィスたちは馬に乗って駆けるような速さで飛翔していた。


 空には変異種もいるが、高速で飛びまわるアウィスたちに追いつける個体はそうそういない。今も彼らを襲撃しようと果敢に追いすがっているが、残念ながら標的との距離は開くばかりだった。


 アウィスたちの姿はたちまち見えなくなり、大きなクジラの体さえも小さくなっていき、やがて視界から消えていった。


 目ざとくパラグライダーで飛ぶシュゼットたちに気づいた変異種が、何羽か突っ込んでくる。


 だが、気流の境界線によって阻まれ、垂直に落ちていった。引きしぼった弓から放たれる矢のようだ。すさまじい勢いで落下していく。しかも地上へ近づくほど加速していくのだ。地面に激突する前に、体を引き裂かれて死ぬことも珍しくない。


 上からふれた場合と異なり、下から接触した場合、気流の境界線に下降気流のような前兆はいっさいない。


 これといった前触れもなく、突如恐ろしいほどの突風に襲われる――いや、突風などという生やさしいものではない。抵抗不能の竜巻のようなものだった。


 どんな巨体であろうと、気流の境界線にふれた途端、真下にむけて勢いよく射出されてしまうのだ。


 即死だろう、とシュゼットは思った。降下大山ならばともかく、気流の境界線から下に射出されたら生きている術はない。


 パラシュートで無理やり地上へ行こうとした昔の空挺手たちでさえ、半数以上が落下途中の加速に耐えられずに意識を失い、残りのほとんどもパラシュートを開けられずに生きたまま地面に激突するか、落ちている途中で肉体を引き裂かれて死んでいったのだ。

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