第三章 降下大山7
シュゼットは憐れな変異種から目をそらし、目的地まで進むことに意識を集中させた。視線の先には、標高の低い山々や大きな湖、川などが連なっている。
よく手入れされた田畑、地上の民が住まう里、広い広い草原と大きな森や林を通り過ぎていき、時には気流の境界線よりほんの少し上を移動する浮遊島を見つけた。
浮遊島の面積はおおむね共通で、三八〇万アゲル(およそ二万平方キロメートル)前後――だいたい一六三ウィア(およそ一四一キロメートル)四方の土地と同じくらいだ。距離が離れていても、浮遊島の巨大さは嫌でも目についた。
おまけにちょうど雨が降る時刻だったようで、浮遊島のまわりだけ雲が渦巻いていた。
気流の境界線が真下にある白い雲を取り込んでいき、上空に向けて雨粒を飛ばす。きらきらと日の光を反射させながら、雨粒は浮遊島に降りそそいで、空に虹をかけていた。
雨がやむ直前、雲がうごめくように律動したのが遠方からでもわかった。渦巻くように収束したあと、雲は唐突に雲散霧消してあちこちに飛び散り、消えていった。
浮遊島は緩慢に見える――しかし実際はパラグライダー以上の――速度で移動していった。巨大すぎるがゆえにゆるやかに見えるが、迂闊に近づこうものなら激突しかねない。
遠くに浮遊島を見つけたとき、シュゼットはいつも緊張で肝を冷やす。
だから、何事もなく浮遊島がシュゼットたちのはるか横を通り過ぎていくの見たとき、彼女はほっとため息をついたのだった。同時に、地平線にぽっかりと山の頂が見えてきた。
最初は、うっかりすると見逃してしまうほどの小さな突起だった。
だが、飛行を続けていくうちに、尖った山の頂上はだんだんと大きくなっていく。
目的の降下大山だ。まだまだ距離は離れているが、ようやく目的地までやって来たのだ。シュゼットは気を抜かないように注意しながら飛び続けた。
山の頂が少しずつ大きくなっていき、やがて山の全貌が見渡せるまでになった。降下大山は周囲にあるほかの山々よりもはるかに高く巨大だ。
近づくと、山というより巨大な壁に向かって突き進んでいる感じさえした。遠近感が狂いそうになるほど、降下大山は大きい。
シュゼットは、そろそろ着陸するわよ、とリックに伝えた。
「どうすればいいの?」
「少なくとも気流の境界線より上の部分――山頂付近に降りるから、しばらくは大丈夫よ。むしろ危険なのは突破の瞬間ね。空挺手は無理やり気流の境界線を突破するから、魔女みたいに楽々通過することはできないのよ」
「そっか……そういえば、降りてからが本番なんだね」
「だからって着陸がまったく安全ってわけでもないんだけどね。下手くそな降り方をすると怪我をするし――そんなヘマはしないつもりだけど」
宣言どおり、シュゼットは油断しなかった。
降りる瞬間、彼女は魔術で風を巻き起こし、ふわりと着地してみせた。シュゼットをたたえるようにリックが笑顔を向けた。シュゼットはリックの頭を撫でて一息つくと、すぐさまパラグライダーを片づけて下山の準備をととのえた。
ひとまずリックに頼んで、シュゼットは魔女の家で休息をとらせてもらった。
食事をとり、ベッドで横になって、ついでに
リックとしては、そのまま一眠りしてもらってもよかった――というより、シュゼットの体をおもんぱかって、むしろぐっすり休んでほしかった様子なのだが、もちろん彼女にそんなつもりはない。
ここは降下大山だ。
しかもサーブリー大陸は降下大山の数が少ない。標高が気流の境界線を軽く超えていて隠れる場所がたくさんあるといっても、誰かに見つからないとも限らない。
地上ならともかく(といっても人間とフェーレースが一緒にいたら、奇異に思われるだろうが)、ここはまだ気流の境界線の上なのだ。
こんなところにフェーレースがいていい理由はない。
シュゼットは必要最小限の休息だけとって、さっさと魔女の家から出て下山を開始した。リックはシュゼットが休んでいるあいだに携帯食を食べ、腹を満たしていた。
人間以上の体力を誇るフェーレースのリックは、まったく疲れていない様子だった。
シュゼットは白光石を取り出すと、高度を確認しながら慎重に、しかしできるだけ素早く下山していった。岩だらけで、小石がいくつもある草の生えていない地面は歩きづらい。
だが焦って移動すると体力を消耗する。
「僕がシュゼットを抱き上げて、一気に駆け下りたほうがいいんじゃない?」
「それだと、うっかり気流の境界線にふれてしまった時がまずいわよ? 地面から遠く離れた上空ならまだしも、山肌と隣接する気流の境界線は敏感よ。ちょっとでも接触すると、すぐさま浮遊島まで吹っ飛ばされるわ」
「直前に上昇気流があって気づくんじゃ?」
「それがどういうわけか前兆がないのよ。いきなり来るの。たぶん地面と直接接触してる影響だと思うんだけど、いきなり吹っ飛ばされるから、しっかり高度を確認しながら降りないといけないのよ」
それでも心配そうな顔をリックがするので、シュゼットは笑って、
「平気よ。気流の境界線より上だから、高山病になる心配もないし、空気だって温暖で、あたたかいでしょう? ちょっと地面がななめに傾斜してて、おまけに小石だらけで足を滑らしそうになってるから歩きづらいだけ。それより、リックは気流の境界線を突破するのは初めてでしょ? どうする? なんなら魔女の家に避難しててもいいけど」
「僕がいて、邪魔にならない?」
「大丈夫よ。ただ、いかにフェーレースが頑強な肉体を持っていようと、怪我する確率が結構高い……ってことだけは覚悟しといたほうがいいわ。空挺手でも怪我をするのが当たり前だから。下手なやつだと、そのまま即死するし」
「……本当に大丈夫なの?」
リックは不安そうに訊いた。
「下手なやつは大丈夫じゃないわ。ただ、わたしはなんだかんだでしょっちゅう地上に降りてるから。浮遊島が降下大山のそばまで来たら、どこであろうと、とにかく降りる。ま、気流の境界線を突破するのに失敗するだけなら、わりと気楽よ? なにせ浮遊島に戻されるだけだから安全だしね。でも、なまじ腕がよくて、気流の境界線を突破するだけの技量があるやつだと、悲惨なことになる場合があるってだけ」
リックは歩きながら、心配そうにシュゼットを見上げた。
「だからそんな顔しないの。わたしは何度も降りてるって言ってるでしょ? 一度も降下したことのない新米じゃあるまいし、少なくとも即死するようなヘマはしないわよ。どうあがいても怪我はするけどね? だから安心して身を任せてなさい――怪我はするでしょうけど。むしろ一緒に突破する気なら、自力でどうにかしようとしないで、何があってもわたしを信じてじっとしていること。いい?」
「う、うん……」
リックは神妙な顔でうなずいた。
ふたりは黙って歩いていき、やがてシュゼットは立ち止まった。リックもシュゼットが立ち止まったのを見て、ぴたりと足を止める。
はた目には、同時に歩くのをやめたようにしか見えなかっただろう。シュゼットはリックの反応の鋭さに苦笑しつつ、前を向いた。
「この先ね」
シュゼットの視線の先にあるのは、ごつごつとした山肌だった。少なくとも視覚的な情報からはわかることはない。見える景色に違いはなかった。
しかし間違いなくこの先に、気流の境界線があった。シュゼットは、かばんから
「で、どうする?」
「邪魔じゃなければ、一緒について行きたいんだけど……」
リックは遠慮がちに言った。
「わかったわ。じゃ、わたしの言うとおりにして」
シュゼットはうなずくと、真剣な顔でリックを見つめた。
「わたしにしっかり捕まって――いえ、むしろわたしのことを抱きしめなさい。力いっぱい――だと死にそうだから、死なない程度に、気絶しない程度にぎゅっと」
「そ、そんな絶妙な力加減を突然求められても……」
リックは困惑した様子で弱音を吐いたが、シュゼットはとにかく自分に抱きつくように、と言った。
リックはおずおずとシュゼットの体に腕をまわし、ちょっとずつ力を込めていった。ある程度のところで、彼女は叫ぶように言った。
「はい、そこまで! それ以上は痛くなりそうだからやめて! 集中できなくなる!」
「わ、わかったよ。このぐらいの力を保ってればいいんだね?」
「ええ。それと魔女の家はちゃんと持ってきているのよね? ここまで来て、山の上に忘れちゃいましたー、なんてのは勘弁よ? 登るときは実質上、浮遊島に飛ばされるのと同義なんだからね?」
「平気」
リックはまじめな顔でうなずいた。
「じゃ、行くわよ。魔術で風を操って一気に境界線の向こう側に突破するから、絶対に余計なことはしないように。わたしに身を任せていること!」
うん! という返事とともに、シュゼットは魔術を発動させた。
風でふわりと体を浮かせて、気流の境界線に突入する。突然身を裂くほどの突風が吹き荒れるが、シュゼットは魔術で強引に緩和させた。
ただし、完全になくすことはできず、五体をばらばらに粉砕するような暴風がふたりに襲いかかった。
それでもシュゼットは前進をやめなかった。猛然と貫くように――否、実際に気流の境界線を突き破るべく、一気に魔力を放出していた。
ただ、通常のシュゼットの魔力だけでは、気流の境界線を貫くだけの力は得られない。
烈風をまといながら、強烈な暴風の嵐を突き抜けるように進むシュゼットたちだったが、ある程度のところで速度が急激に落ちた。
硬く、どっしりとした壁にぶち当たったかのように動きが止まり、進行方向から恐ろしいほどの、体を上空へぶっ飛ばそうとする強風が襲いかかってきた。
今! と内心でシュゼットは叫んだ。
両の手のひらにそれぞれ握りしめた赤光石が、強烈な光を生む。瞬間、抱きしめているリックが、びくりと尻尾と猫耳の毛を逆立てるほどの猛然とした魔力の奔流が、シュゼットの体からあふれ出した。
シュゼットの体内から、破裂するような勢いで魔力が周囲に拡散した。
まとっている烈風がすさまじい力を帯びた。リックは恐怖を感じたらしい。抱きしめる力が強くなった。シュゼットはつらそうなうめき声をあげた。
はっと気づいたリックは、すぐに力をゆるめた。
シュゼットは正面だけを見据えて、身にまとう風をより強烈なものに作り変えていく。少しずつ少しずつ、シュゼットたちの体は気流の境界線を突き進んでいった。
前方から来る風は、シュゼットの生み出す烈風によってかき消され、ふたりの髪の毛すら動くことはなかった。
そして長い長い――しかし実際は十秒にも満たない短い時間が過ぎたとき、ふたりの体は気流の境界線の向こう側へ、高度九〇〇〇ブラキウム(およそ六五〇〇メートル)の壁を突破したのだった。
リックは小さく、やった! と歓声を上げたが、すぐに、え? と声を出した。
今度は逆のことが起きた。シュゼットたちを押し戻そうとしていた暴風が、気流の境界線を突破した途端、ふたりを地上へ叩きつけようと猛烈に吹いてきたのだ。
小石だらけの山肌に、ふたりの体が激突する――九〇〇〇ブラキウムの高さから地面に叩きつけられるよりはマシだが、それでも恐ろしいほどの衝撃が来るのだ。
地面はすぐそばにあったが、この程度の高さですら、人間にとっては危険だった。
加減を誤って、命を落とすものも珍しくない。反射的に、リックは動こうとした。
このままでは危ない!
――そう思っての判断だったのだろう。間違ってはいない。
だが、この場においては最悪の、大変よろしくない動きだった。少なくとも、未だに魔術を行使しようとしているシュゼットの前では。
リックは行動を起こそうとしたが、すぐさま自分を諌めた様子だった。動物的な直感とでもいうべき第六感が、まだシュゼットが魔術を行使しようとしていることに気づいたのだろう。
シュゼットは激突の衝撃を弱めるべく、烈風を制御しようとしていた。
シュゼットたちは、もともと加速していた。気流の境界線を突破すべく、猛然と地上にむけて突き進んでいたのだ。
ここに、気流の境界線そのものから放たれる暴風が加わる。先ほどまで押し返そうとしていた風が、今度は押し出そうと吹き荒れている――なまじ腕のいい空挺手が即死する理由がこれだった。
気流の境界線を突破した速度に、暴風の後押しが加わる。たとえ、転んだのと変わらない距離であろうと、叩きつけられれば人間の体など一瞬でひしゃげつぶれてしまう。
これを避けるには、空挺手が身にまとう烈風を逆方向へ――ただし、自分の体を守るようにうまく風量を調節しないと風で引き裂かれる――吹かせるしかない。
シュゼットは極限まで意識を集中して、風を逆方向へ、同時に自分とリックの体を保護するように魔術で操った。
ほんの一瞬の出来事だったが、地面に衝突する直前、風の勢いが衰えた――即死することがない程度には。
風をクッションのように吹かせて、どうにかシュゼットは衝撃をやわらげることに成功した。
確かに衝撃はやわらいだが、それでもなお、シュゼットの体は硬い山肌に肩から叩きつけられ、赤光石が砕ける音とともに骨の砕ける音が同時に響き渡った。
リックもまた側頭部を打ちつけて、一瞬くらくらとしていた。
平穏無事とはいかなかったものの、ふたりは地上側に出た。
そして、シュゼットとリックが真っ先に感じたのは強烈な冷気だった。先ほどまでの温暖な空気はどこにもなく、肌を突き刺すような冷たい空気が流れていた。
ふたりとも、吐く息が白かった。
リックは慌てて起き上がり、かたわらにいるシュゼットに身を寄せた。シュゼットは仰向けのまま痛みにうめくように手で肩を抑えた。
そして、浅く何度も弱々しい呼吸を繰り返した。凍りつくような寒さだというのに、額には玉のような汗が噴き出ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます