第二章 魔女1

 ついて来て、とリックは言ったが、実際には運ばれているのと同じだった。


 シュゼットの意志を無視して、フェーレースの少年は、街灯と月明かりに照らされた夜の都市を駆け抜けていく。


 リックは二本の足だけを使って、シュゼットを抱きかかえたまま器用に壁を登って屋根のうえを駆けた。ふたりの姿は、都市の人間にはまったく気づかれていない様子だった。


 だが、ときおり月や街灯の明かりに、屋根や壁を素早く駆けるリックの影が映って、不審そうに空を見上げる人々の姿がシュゼットの目に入った。


 といっても、彼らが見上げたときには、すでにリックははるか彼方を移動している。おそらく、なんの姿も捉えられなかったろう。


 リックは貧民街から都市の中央にある魔術協会本部の建物を通り越し、隣接する高級住宅街を駆け抜けていった。


 都市の中央に近づくほど、街灯の数が増え、離れるほどに街灯の数が減っていく。


 リックは都市全体を横断するように通り抜けて町の外へ出た。その先にあるのは、月の光だけが照らす平原だ。


 風のない夜で、草木も眠ったように静かだった――背後の町並みから、人の喧騒が聞こえてくるほどに。


 リックは都市の外に出ても、速度をゆるめることなく進んでいった。雑草を踏みしめ、平原を風のように駆けていく。


 シュゼットは、前から吹く強烈な風圧に顔をしかめた。まるで大気そのものを引き裂いて突進しているかのようだ。


 進行方向にあるのは森だった。都市からほど近い距離にある広葉樹の森林――しかしリックの速度は異常だった。


 馬を全力で駆けさせても、五分はかかるであろう道のりだ。それを一分足らずで走破した。


 リックは森に入っても速度を落とさなかった。森は木々が密生していて暗く、月の明かりも届かないほどの真っ暗闇だった。


 人間であるシュゼットの目には、ほとんど何も見えない。


 ときおり、黒く大きなものが目の前を横切るのがわかるだけだ。おそらく大木だろう。通り抜けるときにびゅんと鋭い音を立てるのだ。


 不意にリックがひときわ大きく跳んだ。


 突然視界がひらけて、月の光に照らされた小さな草地が目に入った。


 真っ暗闇から出てきたので、それほどの明るさではないにもかかわらず、シュゼットは一瞬まぶしさを感じた。


 森を抜けたわけではない。黄色い花畑だった。木が生えておらず、代わりのように丈の高い花が咲いていた。


 まわりは木々に囲まれていて、そこだけぽっかりと穴が開いているかのようだった。


 リックは花畑をあっさりと跳び越えてみせた。高々と跳躍し、花畑の向こう側へ跳ぶ。滑空するように進んで、リックは向かい側の太い枝に着地した。


 そうして、まるで足をすべらせるように垂直に落下した。


 シュゼットは小さく悲鳴を上げた。だがリックは声ひとつ漏らさず地面に降り立って、また森のなかを駆け始めた。


 やがて、暗がりのなかでリックが足を止めた。


 ここが目的地であるらしい……とシュゼットはぼんやりと思ったが、なにしろ暗闇なので何も見えなかった。


 リックはシュゼットの困惑にはいっさい気づいていない様子で丁寧に彼女を下ろした。それから衣ずれの音が聞こえた。


 リックがローブをまさぐり、探しものをしているらしい。


 しばらくすると、音もなく目の前に大きなものが現れた。もちろん前は見えないが、妙な圧迫感があったのだ。急に巨大な建造物が出現したように感じられた。


 シュゼットは思わず後ずさりしかけたが、その瞬間を狙ったかのようにリックに手を引かれた。導かれるようにシュゼットは歩き出した。


 そして、リックのささやき声を聞いた。声が小さくて、内容はわからなかった。


 シュゼットはリックに連れられるまま歩いた。そうして全身がずぶ濡れになるような、水中にもぐるときのような感触をいきなり味わった。


 直後、淡い光で視界がまぶしくなって、彼女は目をすがめた。


 明るさに慣れてくると、小さな庭園が目に入る。


 綺麗に整えられた植木と、花壇があった。目の前には石が敷きつめられ、靴が汚れないように舗装された小道があって、それが二階建ての家の前まで続いていた。


「ついて来て」


 リックは家を指さして歩き出した。シュゼットは一度首を動かして庭園を見まわしたあと、黙ってリックについて行った。


 家は木製で、それほど大きなものではなかった。近づいてみると――いや、近づく前から漠然と感じ取ってはいたのだが、家は不思議な魔力を放っていた。


 魔女の家だ、とシュゼットは思った。


 聞いたことがある。実際に入るのは初めてだが、魔女と呼ばれる種族は、自分のねぐらとなる拠点を自らの手で作り出すと聞く。


 つまり、この家を作った主がいるはずだ。リックの仲間だろうか?


 シュゼットが問いを発するよりも早く、リックは家のなかに入っていた。慌ててあとを追い、家のなかに足を踏み入れた途端、彼女はぎょっとして立ちすくんだ。


 たくさんの猫に出迎えられたからだ。床に猫が何匹も寝転がっていた。階段や棚のうえにもいて、それぞれ入ってきたシュゼットをじっと見たり、無関心にそっぽを向いたり、にゃあと鳴いたりしている。


 人なつっこい猫が三匹いて、シュゼットの足元にすり寄ってきた。


 三匹の猫は代わる代わるシュゼットの足に体を押しつけて、うれしそうに尻尾をまっすぐ立てながら、にゃあと鳴いていた。ときおり、首をかしげるようにシュゼットを見上げる。


 そのうちの一匹が、シュゼットの目の前でごろんと寝転がった。


 ねだるように鳴いて、ちらりと顔を上げてシュゼットを見てから、また床のうえに頭を戻した。シュゼットが撫でてやると、猫はうれしそうにのどをごろごろと鳴らした。


 猫好きの魔女なのかしら……?


 シュゼットは戸惑いつつも、心地よい毛並みに夢中になっていた。だが、階段からかけられた声で我に返った。


「こっち」


 リックは天井を――二階を指さした。


「い、今行くわ」


 シュゼットは名残惜しそうに猫から手を離すと立ち上がった。


 猫を踏んづけてしまわないように注意しながら二階へ上がる。扉が三つあり、階段と反対側の位置に、はしごがかけてあった。屋根裏部屋があるのだろう。


 リックは扉のひとつを開いて、シュゼットを招き入れた。寝室のようで、部屋の奥にはベッドがあった。


 窓のカーテンは開け放たれてあり、夜だというのに室内には外から入ってくる光で明るかった。


 壁には猫の絵が飾られていて、その絵の下には本物の猫がひなたぼっこでもするかのように眠りこけていた。


 小さなテーブルとイスが一脚ずつ、テーブルのうえには飾りのようにランプが置かれている。


 大きなベッドには、少女がひとり眠りについていた。リックと同い年くらいだろう。


 肌は雪のように白く、冷静に観察すれば病的に見えてもおかしくないはずなのに、まったく不健康という感じがしなかった。


 穏やかな寝息を立てている。ときどき毛布に覆われた小さな胸が上下に動いて、この少女が間違いなく生きているのだということをシュゼットに実感させた。


「この子は?」


「ロゼール」


 とリックは言った。ゆっくりとベッドに近づき、そっと少女の頬にふれる。


「名前はロゼール・アンフィーサ。この家の主だよ」


「そして、あなたのお友達?」


 リックは首を横に振った。


「家族だよ」


「ここで、一緒に暮らしていたの?」


 リックはうなずいた。


「五日前、僕らは遺跡にもぐったんだ。そのとき、変異種と遭遇して――」


「呪言種ね」


「よくわかったね?」


「これでも空挺手としてはそこそこ年季が入っているから」


 安全な浮遊島と違って、地上には変異種と呼ばれる化け物がいる。


 もともとは普通の動植物だったらしいが、一〇〇年以上昔に起きた天変地異のせいで、変わってしまったと語り継がれている――といっても、シュゼットが生まれる前の話だ。


 どこまで正確なのかはわかっていない。なにせ謎が多すぎるのだ。


 天変地異によって人間は地上での住処を失い、浮遊島での暮らしを余儀なくされたと伝えられているが、その天変地異が具体的にどういったもので、なぜ起きたのかについてはさっぱり解明されていなかった。


 一説には、変異種の出現によって危機に陥った人類を救うべく、神々が地上から浮遊島へ人間を移住させたのだという。


 実際、浮遊島には変異種がまったく存在していなかった。


 変異種のなかには飛行能力を持った個体もいるが、そういった個体であっても浮遊島に侵入することはできない。


 気流の境界線があるからだ。九〇〇〇ブラキウム(およそ六五〇〇メートル)よりも上から接触すれば、最寄りの浮遊島まで吹っ飛ばされるだけで済む。


 しかし地上側から接触した場合はそうは行かない。


 もし下から気流の境界線にふれた場合、すさまじい突風によって地面まで真っ逆さまに突き落とされる。


 たいていは即死だ。


 もちろん昔の空挺手にように、パラシュートを使ってうまい具合に着地することも可能だが、成功率は低い。


 浮遊島は、この気流の境界線によって変異種の脅威から守られているといってもよい。


 だが、だからといって神々が人類を救うために――などという荒唐無稽な話を鵜呑みにすることはできなかった。

 シュゼットにかぎらず、この説に疑問を持つものは多くいる。


 だいたい危機に陥った人類を救うためというが、なぜ人間だけを救ったのか?


 少なくともシュゼットからすれば、その部分がまったく納得できないのだった。確かに変異種は厄介な化け物で、そして肉体的に見れば人間は極めて脆弱な種族だ。


 しかし代わりに強大な魔力があるし、鍛え上げられた魔術の数々もある……変異種の出現によって困ったのは、何も人間だけではあるまい。


 なぜフェーレースをはじめとした地上の民を無視して人間のみを救ったのか?


 シュゼットとしては納得のいく説明を聞きたいところだったが、未だに彼女を得心させたものはいない。


 むしろ、実は変異種を生み出したのは人間で、その罰として地上から追放されたのだという説のほうが納得できるくらいだ。


 なにせ普通に落ちるだけでは、気流の境界線を突破できない。地上に降りられないのだ。


 当時、人類はなんの前触れもなく浮遊島に送り込まれたという。


 浮遊島は無数にあったが、幸いにも家族や同じ村、町に住む者同士で固まっていたため、最初のうちはそこまで動揺しなかったらしい。


 だが、そんな彼らも地上に帰還できないという事態に接してからは、かなりの恐慌状態に陥ったそうだ。


 地上へ戻ることをあきらめた者もそれなりにいたそうだが、たいていの人間は帰還のためにありとあらゆる手を尽くしたという。


 当時は空挺手にかぎらず、とにかく地上へ――生まれ故郷へ帰ろうとする者が大勢いたのだ。


 しかし度重なる失敗と、ごくわずかな帰還者から伝えられる地上の現状……なにより浮遊島での安逸とした暮らしに蝕まられて、ほとんどすべての人間は帰還をあきらめた。


 いや、とシュゼットは内心で首を振った。


 そうではない。人類は、あまりにも時間をかけすぎたのだ。


 当初は魔術とパラシュートを用いて、強引に気流の境界線を突破していたと聞くが、こんな方法では死者は増えるばかりだ。実際、地上へ向かった者のうち、九割は墜落死したという。


 残る一割にしても、ほとんどは変異種の犠牲になったと聞いている。


 必要な情報を収集して戻って来られたのは、一〇〇人にひとりいれば上出来だったらしい。いくらなんでも、こんな惨状では地上へ帰ろうなどとは思うまい。


 そうこうしているうちに、浮遊島で過ごす年月がどんどん積み重なっていった。


 気づけば地上を知らない浮遊島生まれ、浮遊島育ちの人間ばかりになってしまっていた……現在では、もう少し安全に――といっても、それでも一割弱の死者は出るのだが――降りる方法も確立されているが、今さら故郷へ帰ろうなどという人間はいなかった。


 そもそもシュゼットのような浮遊島生まれ、浮遊島育ちの人間にしてみれば、浮遊島こそが故郷なのだ。地上へ帰ろうなどと言われたら、いったい何を言っているんだこいつは? と不信感を抱くだろう。


 空挺手であるシュゼットでさえそうなのだ。ましてやそれ以外の人間からすれば、気が狂っているとしか思われまい。


 特に変異種が出現して以降の地上は危険地帯だ。もちろん一〇〇人二〇〇人、あるいは一〇〇〇人二〇〇〇人単位で人員を送り込み、拠点を作ることは可能だろう。


 じっくり活動範囲を広げていけば、いずれはかつてのような地上暮らしを取り戻せる。


 だが、それは浮遊島での安全な暮らしを――争いのない平和な生活を捨て去ることを意味する。


 代わりに得られるのは闘争だ。


 日常と化す変異種との戦い、永遠の闘争……狂気の沙汰だ。そんな奇特なことをやりたがる人間など、もはやどこにもいなかった。


 結局のところ、今の時代に地上へ降りる者など、好奇心に駆られた物好きしかいないのだ。あるいは故郷にいられなくなった『わけあり』か……。


 まっとうな人間は、せいぜい空挺手のみやげ話と、彼らが持ってくる地上の品を見るなり買うなりして満足するものなのだ。


 変異種がうごめく――それも、なかには呪言種と呼ばれる忌まわしい呪いの力を持った化け物と遭遇する危険を冒してまで、地上へ行きたがる人間などいない。

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