第一章 フェーレースの少年2

 ざっと見たかぎり、自分たちに注意を向けているものはいない。


 建物の壁に穴や修理のあとはなく、空き地に出入りするための道にも人の気配はない。


 シュゼットが少年を見ると、相手もあちこちに目を走らせ、そして音を探っていた――本人は意識していないのだろうが、ときどきフードの下にある猫耳がひょこひょこと動いているのが布越しにもわかった。


 シュゼットはくすくす笑った。


「何?」


「ごめんなさい。だって、妙なところで間が抜けているものだから」


 少年は困惑した様子で首をかたむけた。


「耳」


 とシュゼットが静かに言うと、ハッとした様子で彼はフードのうえに手をやった。


「さっきの動きといい、隠そうとしている割にはツメが甘いのね」


 少年は恥ずかしそうにうつむいた。


「地上に行きたいなら、いっそ捕まってしまうのも手よ? あなたたち地上の民は、本来この浮遊島にいてはいけない種族なんだから」


 もし地上の民が浮遊島で発見された場合、本人の意志に関係なく地上に強制送還される。


 地上に戻りたいだけならば、自分からフェーレースだと名乗り出てしまえばいいのだ。


「それは……できないよ」


「そう」


 とだけ答えて、シュゼットは深く追及しなかった。


「お姉さんは……」


「シュゼットよ」


 少年は怪訝な顔をした。


「シュゼット・パルメ・シャルリエ。わたしの名前よ、よろしくね」


 右手を差し出すと、彼は戸惑った様子でおずおずと握り返してきた。とても小さな、繊細な指をしていた。


「あなたの名前は?」


「リック・ビセンテ……」


「ふぅん、ビセンテ地方の出身か」


 シュゼットは頭のなかで、現在地と少年――リックの出身地を照合する。


 この浮遊島は現在、イェルニック大陸上空を飛んでいるはずだった。


 ビセンテ地方は、ティセレベ大陸の地名だ。となると、リックを地上へ戻すのは難しいかもしれない。


 浮遊島の行き先は割と気まぐれで、どこの大陸をどういうルートで通過するのかはなんとも言えないのだった。もちろん大雑把な予測は立てられる。


 数日後にどの辺りを移動しているか? ぐらいなら正確に把握できる。だが、一ヶ月後にどこを飛んでいるかはまったくわからなかった。


「僕が行きたいのはそこじゃないんだけど」


「故郷に帰りたいわけじゃないの?」


 リックは答えなかった。それから、すねたように口元を引きしめてそっぽを向いた。


 何か怒らせるようなことをしたかしら……? シュゼットは内心で首をかしげた。


「お姉さんはまだ――」


「シュゼットよ。さん付けもいらないわ」


「……シュゼットは、まだ僕の質問に答えてないよ」


「質問?」


「どうして、僕がフェーレースだってわかったか」


 リックはフードの下から、不満そうな目でシュゼットを見ていた。彼は唇を尖らせて、


「僕だけ一方的に答えるなんて、不公平だよ」


 シュゼットは微笑した。


 おそろしい強さを見せつけたかと思えば、どこかしら間が抜けていて、そしてやっぱり年相応に子供らしいのだった。


「さっきも言ったでしょう? あなたの動きが人間離れしすぎていたからよ」


 少年は、その答えでは納得できないらしかった。


 もっと説明を求めるように、リックは無言でシュゼットに顔を寄せた――猫のようなつぶらな瞳に、苦笑いするシュゼットの顔が映っていた。


「たとえばね……天才と呼ばれるほど、身体能力の高い人間がいたとしましょうか。その人間が十年、二十年と鍛錬を積んで――人類史上最高の戦士と讃えられるまでに成長したとしましょう。それでも、あなたがやったような動きはできないの、決してね」


「絶対に?」


「絶対に。種族差ってそういうものよ。才能や鍛錬でどうこうできるものじゃないの。あの動きを見せた時点で――自分は人間ではない、と公言したのと同じだったのよ」


「魔術は? 魔術のなかには、身体能力を強化するものもあるでしょ?」


 シュゼットは目を丸くした。


「よく知ってるわね?」


 フェーレースは魔力が低く、魔術を不得手としていた。


 必然的に魔術に関する知識も少なく、どういう魔術があるのか知らないことがほとんどだとシュゼットは聞いていた。


「それは、えっと……!」


 リックは目に見えて焦った。


「動揺しすぎよ」


 シュゼットは呆れ混じりに言った。


「わたし――にかぎらず、フェーレースのことを知らない人間は珍しくないわ。空挺手でもね。冷静に受け答えすれば、簡単にごまかせたでしょうに」


「そうなの?」


「そうなの」


 シュゼットの言葉に、リックは気落ちした様子で黙った。


「話を戻すとね、確かに身体強化の魔術を使えば、ある程度の底上げはできるわ。馬鹿みたいに効果を『増幅』すれば、一時的にフェーレース以上の身体能力を発揮できるかもしれない。でも、そんなことをする人間はいないわ」


「……どうして?」


「意味がないからよ。たとえばね」


 とシュゼットは路地に目を向ける。


「わたしが脚力を何倍にも強化して、町を走りまわろうとしても、うまくいかないの。絶対に転ぶか、壁に激突する。その速さに慣れていないんだもの。一時的に高い身体能力を得ても、それを使いこなせるかどうかは別問題。ましてや近接戦闘なんか、地上の民のほうが圧倒的に上だもの。苦手分野で張り合おうなんて、馬鹿のすることよ」


 人間は、地上の民にくらべて圧倒的に脆弱だった。


 腕力、脚力、持久力、何もかもが劣っている――だが、魔力の高さだけは群を抜いていた。


 フェーレースがすさまじい怪力と駿足を誇るように、人間という種族は莫大な魔力を持っている。圧倒的な魔力を活かすには、魔術に習熟するのがもっとも効果的だった。


「人間にとって、身体強化の魔術はあくまでも護身用ね。決してそれ主体にはなりえない。わたしにとってもそうだし、ほかの人間にとってもそう。仮にそれをやる馬鹿がいたとしても、魔術を使われれば気づくわ。でも、リックがあの動きを見せたとき、魔力はいっさい感じなかった……つまり、素の状態であの強さってことでしょ?」


「だから、それで――フェーレースだってわかったの?」


「あの時点ではまだ、地上の民だろう、ってことぐらいかしらね。正直、かまをかけて、あなたが引っかかるまでは半信半疑だったのよ」


 ほぼ間違いなくフェーレースだろう、とシュゼットは考えていた。

 しかし、確たる証拠もなかった。


「でも、シュゼットは僕のことをはっきり『フェーレースでしょ?』って……」


「子供だったからよ」


「子供?」


 リックは首をかしげた。


「いくら地上の民が高い身体能力を持つといっても、十歳そこそこであんな動きができるとは思えなかったのよ。さっきも言ったように、種族差っていうのは絶対的な要因だからね。考えられる可能性としては、もともと身体能力に優れた種族で、なおかつ天才と呼ぶにふさわしいほどの素質を持っている子供である、ということぐらいよ」


 フェーレース、カニス、クニークルス、カペル、アウィス……どの種族も、人間以上の身体能力を誇ってはいるが、種族ごとに差があった。


 一律に同じ能力を有するわけではなく、それぞれに得手不得手があるのだ。


「まず、あの圧倒的な怪力と駿足を見て、カニス、カペル、アウィスが外れたわ。人間よりは圧倒的に上だけれど、地上の民のなかでは傑出していないからね。つまり、あなたはフェーレースかクニークルスのどちらかということになるわ」


 シュゼットは人差し指を立ててみせた。


「でも、クニークルスは違うわよね。だってあの種族はとても温厚で、しかも戦うことが大嫌いだから。争いを極力避けようとするクニークルスが、自分から積極的に攻撃を仕掛けるなんて信じられない……。それに、フェーレースは格闘戦をもっとも得意とする種族でしょう? クニークルスは弓矢を扱うものがほとんどだし、そういう意味でもフェーレースっぽかったのよね」


 戦闘時、フェーレースは武器を使わないと言われている。


 己の肉体のみで敵を倒すのだ。彼らの武器は己の拳であり、足であり、そしてなにより爪だという。


 獲物を引き裂く鋭い爪そのものは、カニスやクニークルスも持っているはずだ。


 しかし、それを自前の武器として十全に活用しているのはフェーレースぐらいしかいない。


「状況的に見れば、フェーレースである確率が一番高くて……だから、フェーレースでしょ? って声をかけたのよ。そして真っ先に爪を突きつけられたことで、間違いなくフェーレースだって確証が持てたわ」


 シュゼットは立てていた人差し指をリックに向けた。


「納得してもらえたかしら?」


「僕の正体は、最初からバレバレだったってこと?」


「一応隠してはいたから、宿の人間にはバレていなかったんじゃないかしら。怪しんではいたけれど。わたしだって、あなたが戦うまではわからなかったわけだし」


 リックは黙ってしまった。


「ひとつ確認させてほしいんだけれど、誰かに捕まっていたわけではないのよね?」


 地上の民を浮遊島へ連れ込むことは固く禁じられている。


 これは、どこの島でも同じはずだった――少なくともシュゼットの知るかぎり、地上の民の上陸を許可している浮遊島はひとつもない。


 浮遊島は、神の手によって作られたとされる人間の居住区域だ。


 ここに住めるのは人間だけであり、地上の民がやって来ることは許されていない――もちろん、シュゼットは神など見たことがないし、そもそも神が実在したという確たる証拠も知らない。


 地上の遺跡には神を祀った神殿がたくさんある。


 だが、だからといって神が本当にいたのだと無邪気に信じることはできない。単なる信仰対象として祀られていただけの可能性も十分にある。


 しかし、浮遊島では一般に神は実在し、浮遊島を作って人間を助けたと信じられている。


 だから地上の民を浮遊島へ連れてくることは、重大な、神に対する背信行為と見做されるのだ。


 もちろん物好きな金持ちはどこにでもいる。シュゼットのようにそこまで信心深くない人間も大勢いる。


 地上の民を自分の愛玩動物として手許に置こうとする輩は、後を絶たないようだ。


 シュゼット自身、かつて知り合った魔女にそういう話を持ちかけられたことがあった。


 いい儲け話があるので、一枚噛まないか――そう声をかけられて、よくよく話に耳をかたむけてみれば、クニークルスの子供をさらってきて島の金持ちに売りつける、というものだった。


 シュゼットは不快に思ってすぐさま魔術協会に連絡したのだが、魔女はすでに姿を消したあとだった。


 魔女の集まりである魔女の夜会からも追われていた女だったらしいが、結局そのときは捕まえられなかったという話だ。


 思い出したら腹が立ってきて、それで怖い顔をしていたらしい。


 どうしたの? とリックが驚き半分、心配半分という表情でシュゼットをのぞき込んでいた。


「ああ、なんでもないわ。で、どうなの?」


「僕は誰かに捕まったことなんて一度もないよ」


「そう」


 まぁ確かに、とシュゼットは思った。


 浮遊島に連れ込むなら、おとなしいクニークルスを選ぶのが普通で、フェーレースのように好戦的(と一般に言われる)を生け捕りにしようとする馬鹿なんて、さすがにいないだろう。


 しかし、だとすればリックはどうして浮遊島にいるのか?


 魔術を不得手とするフェーレースが、気流の境界線を突破できるとは思えない。


 偶然迷いこむなどということがあり得ない以上、誰かに連れてきてもらったはずだ。


 思っていたよりも厄介事なのかしら? シュゼットは内心でため息をついた。


 今さらながら、やはり先輩の忠告には耳をかたむけておくべきだったかもしれない。


「本当に、僕を地上に連れて行ってくれるの?」


 遠慮がちにリックが言った。上目遣いに、そっとシュゼットを見上げている。


「だって、わたしが連れて行かなかったら――あなた、あのゴロツキどもを連れ去って、無理やり言うことを聞かせるつもりだったんでしょう?」


 あらかじめロープを用意していたあたり、最初からそのつもりだったとしか思えなかった。


 自分一人では気流の境界線を突破できない、だから空挺手の誰かを釣り上げて誘拐し、地上までの道案内をさせる――なかなか強引な手だ。


「フェーレースやカニスは狩猟民族で、好戦的だから関わるなって言われているけれど……本当に迂闊に近づくと危ない種族みたいね?」


 からかうようにシュゼットが言うと、リックは不満そうな顔をした。


「とりあえず、さっきの宝石をもう一度見せてくれる?」


 リックが取り出した袋を受け取って、シュゼットは宝石をひとつずつ丁寧に見ていった。専門ではないが、一応本物か偽物かの区別くらいならできた。


「これで全部?」


「足りないの?」


「まだ、わからないのよ」


 シュゼットは首を振った。


「あなたの事情を説明してくれないかしら? 依頼の危険度や内容によって、料金は変わってくるの。地上に連れて行くだけなら――場所にもよるけど――これでいいわ。でも、内容によっては追加料金をもらうことになるかもしれないから」


 リックは思案顔になった。シュゼットは黙って待っていた。やがてリックは右手を差し出してきた。


 交渉不成立かしら? と思ってシュゼットが袋を返そうとすると、リックは首を横に振った。


「手を」


 いぶかしげにリックの手をとると、途端にシュゼットの体がふわりと宙に浮いて、次の瞬間にはリックの小さな腕に抱き上げられていた。


「ついて来て」


 とリックは言って、跳び上がった。

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