第一章 フェーレースの少年1

 空挺手が泊まる宿は、どこの島でも似通っていた。


 一階は酒場を兼ねた食堂になっている。テーブルとイスがところせましと並べられ、長い年月を経た板張りの床は誰かが歩くたびに音を立てた。


 泊まり客の話し声、注文をとる声、食器の音などに混じってしまうから、たいがいは踏んだ本人にしかわからない音色だ。


 シュゼットが足を踏み入れた宿も、ご多分に漏れず床板がよく鳴った。


 彼女がこの宿を選んだ理由はない。たまたま目の前にあったから、入っただけだった。食堂に変わったところはなく、多くの空挺手と、彼らに憧れる少年少女が居座っていた。見慣れた光景だ。


 シュゼットは人目を避け、ひっそりと食堂のすみで夕食をとった。


 からまれることがあって、うんざりしていたのだ。うっかり素顔をさらそうものなら、彼女の美貌に惹かれて男(たまに女も)が声をかけてくる。


 別段、己の美貌を飾り立てる真似はしていないのだが、生来の美しさは隠しようもないらしい。


 つややかな長い髪と澄んだ瞳が印象的で、いったん視界に入ると、男女を問わず好奇心に駆られた者がやって来てしまうのだった。


 おかげで彼女は常にフードを目深にかぶり、警戒心もあらわに気配を消して、目立たないように行動する癖がついていた。


 シュゼットの試みはうまく行き、今日の彼女は平和な夕食をとることができた。今は食後の紅茶を楽しんでいる。


 彼女は淡いランプの光で照らされた食堂を見まわし、誰からも注目されていない現状に満足した。


 とはいえ、のんびりしているといつ目をつけられるかわかったものではない。彼女は最後の一口を飲むと、紅茶の入った陶器をテーブルに置き、そろそろ部屋に戻ろうかと腰を浮かせかけた。


 そのとき、宿の扉が開いた。


 入ってきたのは、自分と同じようにフードを目深にかぶった小柄な人物で、たぶん年は十歳ぐらいだろう。裾の長いローブを着ている。


 彼はぐるりと食堂を見まわした。


 異様な光景だった。すでに日は落ちて、辺りは暗くなっている。空には残照さえ残っていない。子供は帰って寝ている時間だ。


 宿には十代の少年少女もいたが、彼らとて一番若い者でも十五歳か十六歳だ。十歳の子供が、こんな夜遅くに空挺手の集う宿に足を運ぶことなどない。


 その異様さは、シュゼットだけでなく、宿にいた全員が感じ取っていたのだろう。食堂からは音が消え、皆が入ってきた人物に目を向けている。


 給仕でさえ足を止めた。じっと、この奇妙な闖入者を見つめている。


 彼はフードの下で顔をしかめ、手を鼻のあたりにやった。酒と料理と煙草の入り混じった独特の臭気がお気に召さなかったらしい。


 彼は扉を閉めると、宿の主人がいるカウンターまで歩いて行った。ぎしぎしと鳴る床の音が耳に入った。誰も、何もしゃべらなかった。


「地上に連れて行ってくれる人を捜しているんだ」


 見た目どおりの少年の声だ。宿の主人が応じた。


「お前さんが行きたいのか? 何々がほしい、とかじゃなく?」


「僕自身が行きたい。ここは、空挺手が集まる空挺宿だと聞いた。空挺手なら、浮遊島から地上へ降りられるはず。だから、僕を連れて行ってほしい」


「行って、どうする?」


 少年は答えなかった。宿の主人は困り顔で相手を見つめ、ため息をついた。


「金はあるのかい?」


 少年はローブの下から、布製の小さな袋を取り出した。


 ひもをほどき、カウンターの上に中身をばらまく。大きな宝石がいくつも転がり出てきた。何人かの空挺手が立ち上がった。イスが大きな音を響かせる。


「全部、天然物みたいだな。加工も、魔術じゃなく手作業か……」


 宿の主人は宝石を手にとって、ルーペで調べていた。


「お前さん、これをどこで手に入れたんだ?」


 少年は答えなかった。


 宿の主人はそっと息を吐き、小さく首を振った。そしてルーペと宝石を置くと、こつこつと指先でカウンターを叩きながら諭すように言った。


「地上に行きたいが、目的は言えない。金はあるが、どうやって手に入れたかは言えない。それで他人の信用が勝ち取れるとでも?」


「うん、そうだね。無理だろうね」


 少年は冷ややかに告げた。


 違和感のある態度だ。シュゼットは警戒と同時に好奇心が湧いてきた。少年は落ち着きすぎていた。


 あの宝石が盗品なら、もっとびくついているだろう。それでなくとも年上の、五十過ぎのいかめしい宿の主人を相手取っているのだ。普通なら、もう少し緊張しているはずだ。


「目的は話せないし、これをどこで手に入れたかも言えない。ただ、盗品でないとだけ言っておくよ。売り払っても面倒事にはならない。僕を地上に送り届けてくれればいいんだ。ほかに要求はないよ。その条件でかまわない、という人を捜してる」


「悪いが、ほかを当たってくれ。少なくとも、うちの店でお前さんの依頼を扱うことはない。理由は、さっき言ったな?」


 少年はうなずいた。粘りさえしない。あっさりと引き下がった。


 少年は宝石を叮嚀に拾い集めると袋に入れた。それをローブの下にしまって、ゆっくりと出て行った――来たときと同じように、ぎしぎしと床を鳴らしながら。


 扉が閉まるのとほぼ同時に、何人かの空挺手が宿から出て行った。


 先ほど立ち上がった者たちだ。彼らは互いに顔を見合わせると、一様にうなずいて外へ向かった。シュゼットも立ち上がると、宿から出ていこうとした。


 すると、背後から声がかかった。


「関わらないほうがいいぞ。明らかにやばそうだ。わかっていない馬鹿どもが何人か釣り上げられたようだが」


「あら、わたしにだけ忠告してくれるの?」


 シュゼットは笑みを浮かべて、宿の主人を振り返った。


「どの業界でも、新人にあれこれ助言しようとする口やかましい先輩はいるもんだ」


「お生憎さまね。わたし、もう下に降りて六年ぐらい経つのよ」


 床を指さして、彼女は楽しそうに笑った。


「若手ではあるけれど、もう新人とは呼べないわ」


「そいつは失礼した」


 宿の主人は苦笑いで手を上げた。


 シュゼットは外へ出ると、道の左右に目を走らせて、例の少年と空挺手の一団を探した。むかって右手の方角に、目的の集団はいた。


 あとをつけるのは簡単だった。


 少年はゆっくりと歩いていたし、それを追う空挺手の集団はとても目立ったからだ。シュゼットは雑に舗装され、ところどころ土がむき出しになっている、でこぼこした通りを歩いた。


 都市の中心にある大通りならば、もっと歩きやすい道になっているのだろう。


 だが空挺宿は貧民窟の近くにある場合が多かった。そういった道はまともに管理されておらず、荒れているのが常だった。


 道はぼんやりした街灯と、店や家の窓から漏れ出る淡い光と、月明かりに照らされていた。人気はなく、せまい通りでも悠々と歩くことができた。


 先頭を行くフードの少年は、わずかに傾斜した坂道をゆるやかな足取りで昇っていく。追う空挺手たちは堂々と真後ろを歩いた。


 少年の連れと錯覚しそうだ。シュゼットは警戒し、結構な距離をおいて尾行した。


 少年は一度も振り返らなかった。自分の背後を気にかけず、平然と歩き続けている。遠目から見るかぎり、微塵の動揺も感じられなかった。


 古びた木造家屋のあいだを通り抜けて、彼らは貧民街へと歩いていく。


 道の窮屈さは相変わらずだが、街灯の数が減って暗くなってきた。よくよく見れば、建物の外壁や屋根もだいぶ粗末になっている。傷んで今にも崩れそうだ。


 なかには壁の一部が壊れて、適当に板を張り合わせて間に合わせの修理しただけの家もある。


 歩きながら板のあいだをのぞき込むと、小さなろうそくを囲んで、何人かが毛布にくるまっているのが見えた。


 ろうそくよりも、外の月の光のほうが明るそうだ。


 シュゼットは視線を戻し、例の一団を見つめた。彼らは変わることなく、せまい通りを歩いている。シュゼットは少しばかり急ぎ足になった。


 フードの少年は、ふらりと横へ曲がった。


 空挺手たちは一瞬立ち止まって、彼が入った通りを見つめていた。粗野な笑い声が聞こえると同時に、彼らは小走りに通りへ入っていった。


 シュゼットも駆け足になって、彼らがいるであろう通りへ急いだ。


 まだ、何事も起きてはいなかった。街灯はいっさいないが、月の光はせまっ苦しい屋根のあいだからでも横道に降りそそいでいる。


 フードの少年は、自分を追跡してきた空挺手たちと対峙していた。


 距離があるせいで、表情はわからない。ただ、動じていないことだけは雰囲気から見て取れた。空挺手たちは、まわりにいる仲間と目配せしながら、笑い声を立てている。


 全部で六人、ほかには誰もいなかった。フードの少年と、空挺手と、曲がり角からのぞき込んでいるシュゼットを含めて、八人が現場にいた。


 一番奥に少年が、そこからほんの少し手前に空挺手が一人、さらに離れて別の空挺手が四人……最後尾の空挺手は、壁にもたれて余裕綽々の様子だ。


 最奥にいる空挺手が、少年に近づいて下卑た声を出した。


「地上に行きたいんだろ? 報酬があるなら、考えないでもないぜ?」


 少年は無言だった。


「でかい宝石を持っていたよな? しかも天然モノで、地上の民が――カニス辺りが加工したやつなんだろ? もっとあるってんなら、俺たちが地上まで運んでやってもいいんだぜ? なぁ坊や、悪い話じゃ――」


 空挺手は腰をかがめて、下からのぞき込むように彼の素顔を見ようとした。


 途端、男の膝ががくんと崩れて、のけぞるように仰向けに倒れた。口から泡を吹いて、白目をむいている。痙攣していた。


 まわりの空挺手たちがざわついた。


 壁にもたれていた男も、動揺した様子で少年に向き直った。驚いたのはシュゼットも同じだった。


 今、少年が何をしたのか、まったくわからなかった。魔力を感じず、どんな魔術を使ったのかさえわからない。


 倒れた男のすぐそばにいた空挺手が、声を荒らげて魔術を発動させようとした。


「てめぇ、何しやがっ――!」


 声はそこで途切れた。


 そしてシュゼットの視界に突然、あちこちに染みのついた薄汚い布製の壁のようなものが現れた。


「え?」


 とシュゼットが呆けたところで、唐突にその布の壁は消えた。


 代わりに、フードを目深にかぶった少年の姿が視界に飛び込んできた。


 続いて、シュゼットはものすごい勢いで少年が腕を振るうのを見た。何か大きなものが空中を飛んでいって、さっきまで壁にもたれていた空挺手の背中に激突した。


 空挺手は悲鳴を上げる暇すらなく、木製の壁を突き破って建物のなかに消えた。


 そして、少年に魔術を使おうとしていた空挺手が、弾かれたように通りを転がって倒れた。ぴくりとも動かない。一瞬、静寂が辺りを支配した。


「……え?」


 と声を上げたのはシュゼットだけではなかった。


 残った三人の空挺手も、唖然として口を半開きにしていた。


 そして――シュゼットが呆けているあいだにすべては終わっていた。一瞬で接敵した少年は、残る三人を易々と倒した。


 そのうちのふたりは、魔術を発動させることすらできずに敗れた。


 シュゼットが気づいたときには、もう倒れていた。残るひとりは魔術を発動させ、身を守る岩壁を出現させている。


 しかし、少年はその岩壁ごと男を蹴り飛ばした。


 一撃で岩を粉砕し、小さな足が男の体をくの字に曲げて吹き飛ばす。


 屋根と屋根のあいだを突き抜けて、男の体は面白いように吹っ飛んでいく――そうするさなか、シュゼットは何が起こったのかをだんだんと把握していった。


 おそらく、最初の男は少年の一撃で失神したのだろう。


 その次の空挺手は、拳か蹴りで吹っ飛ばされたのだ。シュゼットの目の前まで飛ばされて、自分と激突寸前だった。


 だが、直前で少年が男を引っつかみ、壁にもたれていた空挺手に投げつけた。


 だから、シュゼットは助かったのだ。驚くべき身体能力だった。明らかに人間を超えている。


 少年は、シュゼットには攻撃しなかった。あくまでも標的は空挺手六人であるらしい。彼は面倒くさそうに歩いていた。


 そうして、ある位置まで来ると、ゆっくり右手を空に伸ばした。


 なんの意味が? とシュゼットが思った瞬間、男が落ちてきた。


 先程吹っ飛ばされた男だ。少年は軽く膝とひじを曲げて腰を落とし、うまい具合に落下の衝撃を殺して男の命を助けた。


 ほかの空挺手も、一応は生きているようだ。


 彼は、やはりどこか気だるげな足取りのまま、自分がぶち抜いた壁のなかへ入っていった。小さな悲鳴が上がった。


 建物のなかから、ことの成り行きを見守っていた住人たちの声だ。慌ただしく逃げ出す足音が、静かな裏路地に反響していた。


 シュゼットは一瞬、少年が住民をひどい目に遭わせるのではないかと危惧した。


 だが、彼は建物の住人にも関心がなかったようだ。逃げる足音以外に音は聞こえず、しばらくすると空挺手のひとりを連れて戻ってきた。


 首根っこをつかまれ、男は引きずられている。意識はないようだ。


 少年は自分が倒した空挺手を一箇所に集めた。それから、彼はロープを取り出して、空挺手を縛り上げようとした。


「ねぇ、君……そいつら、どうする気?」


 シュゼットはおそるおそる近づいた。


 少年は無言のままで、返答は期待できそうにない。目も合わせず、彼は淡々と作業を続けている。


「地上へ行きたい理由は、どうしても話せないのかしら?」


 返事はなかった。


 シュゼットは小さく息を吐くと、そっとささやいた――風にまぎれて、消え去ってしまいそうなほどのかすかな声で。


「あなた、フェーレースでしょ?」


 瞬間、電光のように少年の右手がシュゼットの首に突きつけられた。


 鋭く伸びた爪が、シュゼットの皮膚をわずかに突いている。一歩でも踏み込めば、たちまちのどを引き裂かれ、悲鳴を上げることさえできずに死ぬだろう。


 シュゼットは仰天したが、動揺を押し隠して冷静に言った。


「爪」


 相手は慌てて手を引っ込めた。


 まったく反応できずに面食らったが、相手がフェーレースであるならば驚くに値しない――彼女はそう思って、自分を落ち着かせた。


 地上の民のなかでも、屈指の怪力と脚力を誇る種族だ。


 至近距離から攻撃されたら、どうあがいても人間には反応できない。当たり前の光景――そう、当たり前の光景なのだ。


 少年は左手で、右手を覆って隠した。


 それから警戒するようにうしろに下がって、シュゼットに不審の目を向けた。


「そんなに固くならないでもいいわよ。別に何かしようってわけじゃないんだから」


 シュゼットはちらりと建物へ目をやった。建物にいた何人かが、好奇心に駆られて戻ってきていた。そっと、うかがうようにシュゼットと少年のやり取りをながめている。


 見られただろうか? とシュゼットは考えた。もし見られていたら、厄介なことになる。だが、杞憂のはずだった。


 鋭い爪といっても、別に伸びるわけではない。


 猫の爪がそうであるように、フェーレースの爪も、ごくごく些細な変化があるだけだ。ましてや夜の暗がりでは、相当の至近距離でないと、何が起こったのかわかるまい。大丈夫なはずだ。


「場所を変えましょうか」


 シュゼットはにっこり笑って、通りの先を指さした。


 相手は警戒心をあらわにしていたが、すぐにシュゼットが指さす方向へ歩き出した。ふたりは倒れた空挺手たちを置いて、街路を進んでいった。


 道はだんだんとせまくなっていき、十字路や丁字路に何度も行き当たった。


 少年は分岐路に来るたびに、うしろを振り返ってシュゼットを見た。


 苦笑いしながらシュゼットが一方の路地へ目を向けると、彼はためらうことなくその道を進んでいった。


「どうして」


 と歩きながら少年が言った。


「どうして、わかったの?」


「あなたがフェーレースだってこと?」


 彼は立ち止まると、振り向いてシュゼットを見つめた。小さく首をすくめている。


 いたずらをして、叱られそうになっている子供のようだった。


「人間離れしすぎてるのよ」


 シュゼットは少年から視線を外し、まっすぐに前を向いた。小さな空き地が見える。


 行きましょ、と声をかけてからシュゼットは歩き出した。今度はシュゼットが先頭で、少年がうしろだった。


 空き地には木が一本だけ生えていて、古びた涸れ井戸があった。


 シュゼットは雑草を踏みしめ、建物に囲まれた空き地の真ん中へ歩いていく。ふたをされている涸れ井戸に腰掛けると、周囲に目を走らせた。

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