第2章 『異怪人』

【第11話】 異世界、いい世界?

 ――いつかはさ、私を好きでいてよ


 大した素性も知らぬ女はそう言って、いまに咽び泣きそうなその声を血混じりながらに出し切っていった。

 女の多くは知る由もないが、唯一、名前だけは知っている。中野美奈、それが彼女の名。記憶を亡くした世界で初めて、愛というものを教えてくれたのも美奈だ。蒼白な瞳と長髪を備えた艶のある顔立ちは心を鷲掴み、永遠に離すことは無い。

 が、それが本望だと思えるほどに彼女、美奈は愛々しい美貌を持ち合わせている。ずっと横に居られれば、それでいいとも思う。


「え、は」


 ただし、今この瞬間、その微々たる願いは一蹴される。


 彼女の柔弱な息は貧弱さをさらに加速させ、やがて音もしなくなっていく。それが何を意味するのか、男は理解できていた。

 体は冷え切り、白々しくなっていく華奢な腕は明らかに力を失っている。彼女は死んだのだ。己が一番恨んでいたであろう下衆を、惚れた男の紛い物から庇い、その凶刃に倒れることで、彼女は死んだのだ。

 

「う、うそだろ」


 それを信じられない男は、ただただ虚空を見つめることしか出来なかった。


 美奈というのは、憐れむことさえ馬鹿馬鹿しくなる女だ。控えめに言って救いようがない。何がしたかった、何をもってこんな無謀を犯したのだ。何を遺したかったのか。おそらく、そのいずれにも答えはない。それはわずかながらに理解できていた、訳が分からないからだ。


 ――何故アイツを庇った


 美奈の死を理解できたとしても、それへ無意味にひた走る行動だけが頭へ入ってこない。自分の眼前で下衆と出会ったときの彼女は、どんな時よりも歯を剝き出し、敵意を隠す気など全くない殺気を纏っていた。

 そんな彼女が下衆を庇う動機だけが見つからず、脳内を錯綜している。


「あ、あっああ」


 この現状を脱する手立てがあったのなら、すぐにでも掴み取ってみせただろう。ただ、矮小な経験値は意味をなさず、手立てなど見つかる気配すらない。


 彼女へ乱雑に引っ付けられた髪も色を失っていき、肌の艶さえも芳しくなく、どうしようもない人影は眼球から逃げだしていってしまう。執拗に付きまとってきた癖に今では目にもくれないのか。この愚鈍さには呆れるだけ虚しくなる。

 

 ――何故アイツを庇った


 関係などないのに、どうでもいいはずなのに。知ったことではないはずなのに。記憶を途方に亡くした意味も持たない脳が、訳も分からず何かをしつこく訴え掛けてくる。胸が軋むほどに、誰かを懇願している。それが誰なのかはすぐに分かった。美奈だ。


「――ダメなんだよっ…!」


 それを全身全霊で拒絶する男の顔は血に塗れ、涙に濡れていた。美奈への愛がそうさせているのだ。


 ただ、それはあまりにも狂人的で常軌を逸している。嫌気がさすほどにイカれている。だからどれだけ理解していようとも、痴れ者である自分はそれを認められない。認めることなど出来ない、許されない。認めてしまったら、それこそ救いようがないからだ。


 ――己が殺した女に恋をするなど


 殺したのだ、この手で美奈を撃ち抜いた。その事実は脳に焼き付き、悔恨が晴らされることも一生の内には訪れないのだろう。日々の忘却は許されず、彼女との逢瀬が叶うことも無い。男は絶望を堪能し、死を求める。いっそのこと、自分も美奈のように亡骸へと成り、この場で眠ることが出来たのなら――、


「なんでだ、美奈。あぁ、くっそがぁあ……どうして、こんな真似!」


 美奈は何故、あんな人ひとりの価値もないような下衆を護った。その気掛かりからくる心残りは、男の死をどうあっても認めることは無い。


 ――ねぇ、君は生きたい? 


「……そういうことなのか?」


 男の脳内で彼女を撃つ寸前の幻想が繰り返される。あの時の自分は下衆を見事に撃ち抜き、美奈を護ってみせた。我命を賭してでも――、


 あれが幻なんかではなく本物であったのなら、どれほど良かったことか。だが、あの瞬間、死を間近にして、それに怯え、生を願った自分が居た。それもまた、紛れもない本物なのだろう。だから、美奈は男に下衆を撃たせず、生き残ってほしい一心で己の命を犠牲にしたのではないか。

 幻想よりもおとぎ話じみた稚拙な妄想が、男の脳内に生まれる。いや、美奈ならやりかねない、そんな風にも思えた。そんな彼女だからこそ、禁忌であっても愛してしまったのだ。

 彼女を想えば想うほど、それとは裏腹に下衆への憎悪が芽生えていく。  


「アイツさえ…居なければ」


 美奈をこの手で撃った、だがそれは元を辿れば全て下衆の仕業なのではないか。

だとすれば彼女に護ってもらったこの命、その向かうべき道は下衆への復讐を果たす――それだけではないのか。


「殺してやる……必ずな」


 男の心に下衆を殺す、覚悟が宿った。その覚悟は男に拳銃を握らせ、それを下衆へ放つ身構えを行わせる。だが、そこに下衆の姿はない。つい先ほど、逃走を謀られたからだ。

 男の脚は消息不明な下衆へ目掛けて、歩を進める。すべてはあの命を散らし、己もそれを追うため――


~=~=~=~=~=~=~=~=~=~


 ――その時だった。瞬く間に日が昇り、景色が一変し、人影が現れ、世界が変貌を遂げたのは


 中世風の街並みは草木で生い茂り、陽は地を照り付け、空は忌々しいほどに青白く輝いている。大衆の往来が石畳を鳴らし、一定の視線が地にへばりつく血塗れの男に向く。


「大丈夫ですか?」


 小柄な無精ひげを生やした還暦間際の老人が、辺りの人々が一歩足を引くのに対し、不気味な男に距離を寄せる。その後ろには、まだ血も知らないような未熟な子供が身を震わせ、怯えているのが分かった。


「――あ」


 世界が男を不審に思うのならば、それは男も同様である。男は状況が呑み込めず、身動きも取れずにいた。

 

「お、おにいさん……これあげる」


 子供の肉親は生まれた瞬間から姿を消し、現在も見つかることはなく、言葉も話せないような頃に老人に拾われた過去を持つ。人と話すのでさえ、膨大な勇気を必要とするのだ。

 そんな、人に怯えていたはずの子供は血塗れの男へ布を差し出し、遠まわしに血を拭うよう勧めてくる。


「――お、おい」


 余裕のない男は子供の配慮など手に取らず、すぐさま美奈の姿の確認に入った。

 

 ――美奈の姿はどこにもなかった


「白い髪の女の死体があっただろ!?」


「し、死体ですか。無かったと思いますが――」


 いくら親身であっても『死体』といった物騒な単語には、さすがの老人も身を引かざるを得ず、子供は涙目になっていた。それが過ちだと気づかない男は、血に染めた手で老人の肩を揺さぶり、状況は悪化の一途をたどっていく。


「おい、ここにあったはずだ!俺が殺したんだよ――」


「こ、殺した?」


「そうだ!なぁ、あるはずなんだよ!」


 パニック状態になっている男の視界は美奈の黒い血に染まり、辺りの全ての人間が悪化し続ける状況を俯瞰し、時には逃げ出す者もいることに男は気づく余地もない。美奈の姿が消えた今、男には心の余裕など全くないのだ。


「あれって、もしかしてイカイ人じゃねぇ…のか?」


「え、でもどこからどうみても普通の人――待って、血塗れの人間が普通は無いわ」


「いやでも言いたいことも分かる、けど中には人にそっくりなイカイ人もいるって」


「じゃ、じゃあ本当にイカイ人?」


「おそらく……じいさん酷だなこりゃ」

 

 初々しい恋人同士の会話が火種となり、周囲が阿鼻叫喚の嵐を巻き起こす。先程まで人として認知されていたはずの男は、いつの間にか人ではなく、獣、化物のように大衆に扱われるようになっていた。その中には討伐をするべきだ、という声もあがっている。華やかな街並みには不相応なぐらいに、住人らは冷酷であり残酷さを持ち合わせていた。


「みなさん、逃げましょう!殺されます!」


「そ、そうですね。逃げてください!」


「おーい!イカイ人が出たぞ!イカイ人だ!命が欲しけりゃ逃げろ!」


 大衆の嵐は勢いを増し、嵐の大半は口を揃えて『イカイ人』と叫び、血塗れの男から逃げ出していく。民草は互いに衝突し、彼らの脳に協力という発想は浮かばず、そこには血に染まった男からの逃亡、という名の競争だけが存在している。


「おい、なぁ!知ってんだろ!ジジイ!」


「お、おじいちゃんから……はな――」


「ガキは引っ込んでろ!」


 男の暴走は止むこと知らずで、ついには子供を蹴とばすなどの暴虐も行うようになっていた。ただ、そんな劣悪な状況に人情など持ち合わせもしない住人は、老人らに救いの手を差し伸べることはせず、ただただ誰かの救援だけを願い、待ちぼうけている。

 

「知ってるはずだろ?なぁ、お前もアイツの仲間なんだな?」


「こ、子供に何をやってるんだ!いい加――」


「分かった、もういい」


 利用できるような相手ではないと判断した男は、手を震わせながらも、拳銃の矛先を老人へ向けた。つまるところ、老人は美奈と同様の宿命を迎えることになるのだ。だが、男の牙が老人へ向けられるその瞬間、ようやく救いの手が差し伸べられることとなり、男の計略は失敗に終わっていく。

 男の眼前には剣、斧、槍、弓、などの武具を携えた、華やかな街の守り人と言わんばかりの、正義面をした連中が迫ってきていた。いつの日にか見たような光景に、男は口を尖らせる。


「あ?なんだよ、てめぇらみたいなのはもう顔も見たくねぇ」


 目の前の集団は男への敵意を隠すことなく、総員揃って武具をこちらへ向けてきていた。その姿はまるでかつての下衆が率いていた者たちに似ており、男は嫌悪からくる目つきを連中に向けざるを得ない。


「ほう、人語はある程度話せるか。親和性の高い世界から来たようだな」


「いや、先輩?あれどうみても人っすよ。危険性がそこまで高いようには――」


「うだうだ言ってんじゃねぇぞ!……美奈はどこだ。お前らもアイツの味方なんだろ!」


 赤紫色の短髪が特徴的な女が、高身長を生かし、最大の警戒心で槍を構える。それと相反する背の低いもう一方の茶髪の女は、気怠そうに斧を振り、そのあとに続いていく。どこか不服そうではありつつも、斧の方は男をしっかり捉えていた。


「馬鹿言うな。血塗れの男の危険性が低いなど、到底思えんがな」


「え、アイツのことガン無視っすか?なんか言ってますけど……先輩は相変わらずっすねぇ、手加減はいつも通りなしですか?」


「もちろんだ。さっさと終わらせるぞ、後に続け」


「りょ……承知しましたー」


 二者は男への警戒心を強め続け、一方的な宣告を行う。


「イカイ人!この言葉は貴様らのような、我が世界に土足で入り込み、そしてその生命を踏みにじるような愚弄者をあだ名したものだ!その言葉、どうせ死ぬのだから冥土の土産にでも覚えておくがいい!」


「先輩が言ったのなら仕方ない……ささっと、死んじゃってください!」


「ざけんじゃねぇ!美奈を返せ――」


 刹那、男を捉えたその槍は胴を貫き、黒い血潮を噴き上げる。


「あ、がっ」


「ふっ、所詮はこんなものか」


 男は石畳に血を吐き、死の片鱗を味わう。突如現れ、腹を刺してきた者への怒りを叫ぼうにも、血で舌が回らず、まともに言葉を発することはできなかった。己の鮮血と美奈の血で視界は閉じられ、世界が闇に堕ちていく――、


「おい、住民への被害は出てないな!」


「大して……っていうか、全く出てないっす。こいつ、案外悪い奴じゃなかったんじゃないすか」


「それはこうやって迅速に処理できたからだ。放置されていたら、もっと酷い有様になっていただろう。たまたま、近くの警備に着いていたおかげだな」


「お堅すぎでしょ、いくらなんでも。それが先輩ですけどね」


 己を刺した連中は、すでに何事もなかったのように物事を進めていく。美奈に護ってもらったはずの男の命は、あまりにもあっけない最期を出迎え、その命は儚く終わりを迎えた――


~=~=~=~=~=~=~=~=~=~


「流石はイカイ人、この程度じゃ死期は迎えないか」


「先輩の一撃を避けたっ!?結構本気だったすよね今の――」


「喋ってる暇があるのなら一撃でも入れてみせろ!」


 男の裂けたはずの腹は元に戻っており、拳も躊躇うことなく握ることができる。美奈の血も罪悪感も拭えてはいないが、体は何もかも元通りになっていた。


「あ?またこれか、なんなんだよ――」


 その再現象に腕の痙攣を抑えつつ、必然的に2発目が来るということを知っている男は迎撃の準備を行う。


「どりゃぁあああ!」


「くっ――」


 矮躯な体からは想像もできない膨大な威力に、身を翻す男は肘から黒い血を流していく。血の流す男の捌く力は、戦闘経験の浅い割には、手練れの目を引くほどの技術を持ち合わせている。傍から見て取ればそれは単なる凄みとなるが、当の本人はその種を理解しており、なんの迫力も感じることは無かった。


「中々やるな」


「そうっすね、先輩の慧眼には尊敬っす」


「――俺なんて大したもんじゃねぇっての」


 過大評価をしてくる二者に、種も仕掛けも裏もない本音をぶつける。


「なぁ、お前ら急になんなんだよ。流石はアイツの仲間ってとこだな。用済みな俺は殺せ、とでも言われてきたか、あ?」


「勘違いするな、イカイ人。貴様らはイカイ人だから殺される、ただそれだけだ」


「だから、殺しても構わないってか?」


「よく分かってるじゃないか」


 文字通り、人種の違う双方では会話も成り立つことはないようだ。背丈の長い女はこちら側に聞く耳など持たず、それに追随する小柄な女はただそれを見張っているだけであった。

 

「ほぉ、ならよ、てめぇら殺してもなんも問題ねぇんだよな。お互いさまってやつだろ?」


「――口が減らぬ連中だな、勝手にしろ。それに、幾万の人々を殺してきたのはお前らの方だろ、今更一人や二人増えたって罪の重さは変わらない……ここで散れ」


「うわぁ、先輩結構怒ってんな。これはもう勝てんよ、おつかれイカイ人」


 怒りに顔を歪める女が槍を構え、腰を落とす。それに相対するように、血に染まる男は、己の愛する人を撃ち抜いた、二度と使うつもりのなかった拳銃を構える。

 男の所持品に対して、女は不思議そうな顔つきをし、多少の興味をそそられていく。その所持品は女含め、街に在住するものにとっては見たこともない代物であった。


「――え、あれって」


 そんな中、小柄な女だけがそれを理解し、その真髄を認知していたのだった。

 

「ふっ、それはなんだ。おもちゃで私に勝てると?舐められたものだな」


「舐めてなんかねぇ、至って全力だよ」


「せ、先輩、駄目です!逃げてくだ――」


 小柄な女は必死にもう一方の女に、すぐさま逃走を謀るように促す。

 かつての世界で唯一の愛した人を殺した、その銃はわずかの間で二人目の被害者を出すこととなる。銃弾は俊敏な速さで、背の高い女の胸へ距離を寄せ――貫く。


「ごっ――」


「せ、せんぱあああい!」


 小柄な女は、すぐさま己の尊敬する人物へ寄り添い、血を吹き出す肩を支える。顔を涙に濡らし、憎悪に顔を歪め、瞳は男の方を睨みつけていた。


「お前らはいつもそうやって……!」


「殺そうとしてきたのはそっちだろ?」


 男は間髪を入れず、拳銃を構え、すぐさま引き金を引く準備の動作を行う。


「貴様ぁああああ――」


 小柄な女は銃弾を受け、血を吹き出し、心酔する人物と同じ結末を辿っていくこととなる――


~=~=~=~=~=~=~=~=~=~


 二度あることは三度ある、とでもいうのか、再度、目の前で命が再生し、今度は己の命ではなく、己が脅かした命が再生していた。


「おい、逃げろとか言ってたが、何もないじゃないかアーツ」


「え、え?あ、そう。良かったです。先輩ガンバ!」


「お前も手伝え!長丁場にさせるわけにはいかない――」


「あ、はい!頑張ります!」


 そんなどうしようもない、足掻くことのできない現象を前に、男は溜息を吐く以外のことをする気は起きなかった。

 二者の女が銃弾に撃たれた痕はなく、何事もなかったかのように健康的でいる。

 

「訳がわからん――」


 男は拳銃を構えることさえ馬鹿馬鹿しくなり、空をただただ観念の目で眺めていた。

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