【第6話】  旅立ち、邂逅

 ――不特定人物銃撃事件 20時間前


 逃げる、正攻法かは知らない。なにも知らない。ただ脚を前に出す、それだけだ。


「はっ――」


 おそらく逃亡から五時間は経ったのだろう。日も登り始めている。

 幸い、疲労感というものもなく、恐怖心を知らんぷりしていれば、いたって今の自分は健康的だ。


 八年という年月を睡眠に費やしたのも有益と思える。


「まだ起きてねぇといいが……」


 ミナ、彼女には常備薬と書かれていた薬を乱用させた。その正体が睡眠薬ということを利用し――、

 おかげでしばらくは目を覚まさない、はずだ。ただ、懸念は拭えない。

 

 彼女は化け物。根拠は無いが、脳がそう主張している。

 記憶を亡くしても尚――



 彼女が自分を惑わしてくるだけの魔女なだけだったのなら―少し依存っぽいだけの良妻だったら――どれほど良かったか。



 それらは虚構に終わる。騙されていた。ひょっとしたら自分が好きなのではないか、と。

 いや、好きなのだと。



 違ったのだ、あの瞳は、あの体は、あの人は――



 自分が好きなのではない、この人を愛しているのだ。

 そう、自分ではない、他の誰でもない、この人が――記憶を持っている自分が。


「うっ」


 だとしたら、結論は容易に導き出す事ができる。この人に救済の手が差し伸べられるだけだ。

 彼女なら、きっとそうする。自分なんかは蹴落としてでも――、


 怖い、恐い、コワイ、今在る自分が消えてなくなってしまうのだ。魅了されてしまった彼女によって、


「ぐっ、んなのは勘弁だ」


 雨は降っている、日が昇り、雲ひとつ見えないというのに――あめはふっている。

 視界と心は歪み、くすんで色ひとつ見せない。


 自分の未来は彼女との先にはない。一歩その道へ歩を進めたら、体の所有権はきっとこの人へ譲渡される。

 記憶を取り返すことで――、


「くそっ、くそっ、くそがおおあああ」



 ――これが全て杞憂と言ってくれ、馬鹿の事してんじゃねぇって、止めてくれ



 誰にも届かない願いに想いを馳せる。彼女の瞳を見て、この願望が及ばないものと理解した。

 ずっとどこかを向いている、上の空なのだ。この人に見惚れているのだ。


 体は渡さない、心だけが揺さぶられてしまったとしても、絶対。


「がほっ」


 正常なはずの足がすくみ、硬いコンクリート状の道路に顔を突っ込む。



 ――悪戯に彼女と出会ったばかりの時と同じ状況だ



 運命を定めてる神でもいるとするなら、その顔を木端微塵にしてやりたい。


 そんな状況下でも救いの手が、彼女のものではないが差し伸べられる。

 いわゆる人里という所か、道は未だ果てしないが人工物がちらほら窺える。脱出できだのだ、あの片田舎から。


「や、やっとか。なあ、あ?」


 人工物は朽ち果てており、弾痕が万遍なく広がっている。話しかけようとした人影も、その一部だった。


「ゴールはお預けってか……」


 どうやら延長戦のようだ、と覚悟を決めたその時だった。


 彼方に無数の巨大な影が見えた。片田舎では彼女の物ぐらいしかなかったそれらは、一斉にこちらへと向かってきている。


「今度はなんなんだ――」


 もう、夢を見たくない。期待なんてしたくない。絶望と面と向かえる猶予があれば、それでいい。

 だからもう少しだけ、ほおっておいてくれ。


「久しぶり、だ」


 数多の車の中から、黒スーツを装束とする虚ろな男が、再会を噛みしめるように靴を鳴らす。


「お生憎様だが、お前のことは何も知らないぞ」


「知ってるさ」


「いや、そっちが決めることじゃ――」


「そうじゃない」


 会った途端、相手の定義を押し付けられる。確かに記憶を亡くす前――この人なら知っていたのかもしれない。

 ただ、今は自分がこの体の所有者だ。知らないからといってどうこう言われる筋合いはない――


「記憶喪失なのだろう?知ってるさ」


 目の前の男は自分が苦労を重ね、やっとの思いで辿りついた難解にあっさり辿りついてみせた。



~=~=~=~=~=~=~=~=~=~



「―――おい」


 絶妙な空気感は男に寂寥感を纏わせ、もどかしさを強要してくる。

 それに耐えきれぬ口は長きを経て、ようやく開口の時を迎えた。


「心情は察するよ、ただ全てを話してはいいものかと思う訳でね」


「記憶喪失する前の君を知ってる。なんて餌ぶら下げて、よく言えたもんだな」


「残念だが、私は獣医師免許を持っていなくてね。どうしたものか――」


「嫌味なら効かねぇぞ」


 嫌味一つ、そんなものは今の自分には無に等しい。もうすでに心は疲弊しきっている。


「護衛、良かったのかよ」


「ん、君とこうやって話せるのも久しぶりでね。あの女だけの君、の方が良かったかな?」


「アイツから逃げ出してここに来たって知ってるだろうが」


 前言撤回しよう。やはり、嫌味というものは自分を腹立たせる。


 もし、拳を構え、それを相手の顔面目掛けて直撃――なんてものを実現出来ていたのなら、既に相手は死んでいるだろう。

 だが、その妄想は周囲の無数の車体によって、完全不可となる。


「いい加減、餌を寄こさねぇと喰っちまうぞ」


「案外ノリがいいね。嫌いじゃないが、らしくない」


「…この人ではないからか」


「なるほど。その表現、一見詩的などこにでもある凡夫なものだが、案外的を射ているよ」


 嬉しくもない称賛が降りかかる。


 限界だ。こんな長ったらしい茶番劇を繰り広げるために、この車に乗車したわけではない。

 全ては真相を得るため。記憶を取り戻すのではない、生きる糧だけが欲しい。それを求め、ここまで来たのだ。


「もう限界か?躾がなってないなぁ。だが、君はあの父にも抗った男だ。仕方のないことか」


 初めて餌が分け与えられる。父、自分に親なる者が居たという事への喜び、同時に物足りなさに全身を苛まれる。


「満足していない?だろうね、君はあの子が大好きで大好きで仕方ないのだろ」


「―!だいっきらいだ!それ以上口にすんな」


「フラれたのがそんなにショックかい?君であって、君でない、もう一人の君に寝取られることで――」


「てめぇ、マジで殺すからな」


 この男の本性が垣間見える。普通を装いながら、内には膨大な劣情を蓄えている。


 あの女に裏切られてから、人を信用――なんて馬鹿馬鹿しいことはする気もないが、かすかに残っていた希望も打ち砕かれたような気がしてならない。



 ――この世はこういう人ばっか。情けないでしょ?



 あぁ、本当に哀れだ。人というものは結局、皆こんなものなのだろう。


「未練がましいな。そんなシャイボ―イには、とっておきのプレゼントを授けよう」


「なんだよ、それ」


「私の方で預かっている極秘映像、とでも言っておこう。世に出す事なんてまず、できないだろうね」


「はぁ、興味なんてねぇっての」


「――私は美奈みたいなのが大好物でね」


「……っ⁉」


 爆弾発言が投下される。動揺は隠せず、汗も雨水のように滴っていく。


「その盗撮記録、さ。だが、興味が無いのなら仕方ない、男二人で子猫の戯れでも見ようか」


「おい、さっさと見せろ」


「子猫かい?」


「分かってんだろ――」


 座席横のモニターが出鱈目な道案内を終わらせ、その画面を黒くする。


 息をのむ。興味はない、ただ自分の未来のためにそれを糧とするため――、


「興奮しすぎじゃないか?まるで猿だ」


「だまれ、俺の未来のためなんだよ」


 かなり気味の悪い発言を残し、今か今かと画面を凝視する。

 そして、上映は突如として開始された。



 ――そこには無数の黒ずくめの男と返り血に染まる独りの女、中野美奈が立っていた

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