【第4話】  瞳

 記憶喪失、脳内には眼下にいる女の顔さえも残されてはいない。何を見て、何に魅せられて、何を感じたのかさえも。

 傍から見たら地獄も同然、生きてるのさえ悲しくなるのだろう。なにせ生き甲斐も見出せていない、憐れまれて当然だ。

 

 ただ例外も居るらしく、自分にそんな些細な現実は気に留めることも馬鹿馬鹿しい。よっぽど、女の方が関心意欲を駆り立てられる。


「なぁ、何してんだ」


「何って、掃除。お腹空いたなら…料理作っちゃおうかな――」


「いや、続けてくれて結構だ」


 しゃんとした衣服を身に着け、布切れを床に擦りつける。

 その姿を眺めているだけという訳でもなく、頭の中では今にも燃え盛りそうな勢いで、思考回路が巡らされていた。

 

 女の素性が今だ分からずにいる。先刻までは親類関係かと考えていたが、どうやらそうだとしても一筋縄ではいかない事情がありそうだ。

 老婆や中年に対するあの態度、どれもこの眼には見せてくれなかった。はっきり言って、あの時の女は異常と言える。


「アバズレ…あれは本当に傷ついたよ」


「……あ、すまなかった」


「なんであんなこと言ったの」


「いや、お前急に泣き出したり怒ったり不気味だったしよ――」


「そう。でもね、君が起き上がってこうやって喋れるのは久しぶりなの」


 久しぶり、確かあの中年は『8年』と発言していた。決して短くはない年数だろう。


「ごめんね、迷惑だったよね。つい気持ちが昂っちゃって――」


「お前は悪くない、謝るのはこっちだ」


「え…」


「イラついてたんだ、何も分からねぇ。そんなの関係ないけどよ」


 正直と嘘、半々に伝えた。感情が揺らいでしまうのもよく理解できる。長い間ずっと看ていた、その人が急に起き上がったりでもしたら動揺もするだろう。

 ただ、それにしても様子がおかしい。記憶を亡くしても尚、肌で感じられる程には――、


「嫌いになってない…?」


「なってねぇよ、お前が気になって仕方ない」


「嘘、本当に?なんだか告白みたい……」


 言葉の綾とでもいうのか、女が勘違いを起こし顔を赤らめる。自意識過剰なのを否定するつもりもない。ただ面倒くさいだけといえば、そこまでなのだろう。

 しかし、勘違いしたままで話を有耶無耶にされるのはこちらとしても不都合だ。


「違う、お前は俺のなんなんだ?」


「……言えない」


 だいぶ適当に聞いてみたつもりだったが、女も実情を理解したのか、おおよそ予想通りの返事が返ってくる。

 

 この女はさっきから何か隠してるかのような物言いをしている。それが恋愛意識からくるのか、罪意識からくるのか、までは分からないが。

 後者の発想に至った経緯は簡単だ。



 ――この女、さっきから謝ってばっかりだ



 起き上がった時、例の一撃を喰らった時、手首を捻り潰されそうになった時。

 いや、冷静になって思い返すとほとんど謝って当然だった。当然は当然なのだが、再度考えるとやはりなにかが違う。言葉にはできないなにかが、喉に突っかかって離れない。


 つい喘ぎや呻きを吐き出しそうになるが、過保護を受けるだけだろう、と全身全霊で堪える。


「なんでだ。なにか言えない事があるのか」


「そうじゃない、いやごめんそうなのかも。でも君のため、それだけは信じてほしい」


「あいつらにだけ、俺の時とは違う表情をみせるのもか?」


「み、魅せるってそんなつもりじゃ――」


「黙れ」


 羞恥と怒りが同時に襲い掛かかってくる。


 記憶を亡くす前の自分がどんな風をこの女に装ったかは知らないが、毎度の如くこんな会話を続けていては神経がすり減らされる一方だ。


「これは俺の推察だが、お前はこの体に好意を抱いているな」


「それやめて。その体は君の物だし――」


「お前の物、でもあるってか」


「ち、ちが」


「だったらなんだ。お前の物でもねぇのに、ずっとこんな辺鄙に閉じ込めるつもりか」


「へ、辺鄙って。話が飛躍しすぎ」


 いつの間にか女の手は止まり、見えていなかった端麗な顔立ちがこちらを睨んでいる。

   

「っ、距離がちけぇ。離れろ」


「関係ないよ、もう逃がさないから」


「くそが」


 透き通った瞳。その武器だけで二者間の戦いは、男の優勢からすっかり形勢逆転し、惑わされるばかりだ。

 争いは過激な一途をたどり、眠ってた割には屈強な足に豊かな胸が衝突していく。

 

 耐えようとは試みたものも、男は我慢ならず降伏の意図を示す。


「うわっ」


「に、逃げねぇから。ちょっと離れさせてくれ」


「ほんと?」


「ほんとだほんと。心臓にわりぃ」


 この女の変なところで察しが悪い点に怒りを覚える。さっきまでは自意識過剰だとか考えていたが、単純に馬鹿なだけなのかもしれない。


 降参というのは、双方の理解があったうえで初めて成立するものだ。男は浮き足立ちながらも、必死に出奔の意が無いこと女に伝え、なんとか了承を得られないかと労力を費やす。


「…分かった。私もやり過ぎたよ、ごめんね」


「そうしてくれると助かる。てかお前、さっきから謝ってばっかだよな」


「―――」


 禁句、だったのか。二人の隙間風は勢いを増すばかりで、暴風の如く二人の隔絶を広げていく。

 

「お、おい」


「……もう日も落ちてくるし、とりあえず今夜はご飯でも食べて、寝ちゃお」


 女は窓にカギをかけ、カーテンを優しく閉める。その一挙手一投足で、恐怖を覚える自分が居た事実に、男は驚きを隠せやしなかった。



~=~=~=~=~=~=~=~=~=~



「シャワーの出し方分かってる?」


「出てる音聞こえねぇのかよ――」


「今なんて言ったのー?」


「ちっ」


 聞こえないことを良いことに、不平不満全部を舌打ちでチャラにする。


 不思議と風呂の使い方は熟知している。魂ではなく、体が勝手に記憶していた。

 ついでに、間隙を縫うようにして試行される風呂場の侵入を阻止する術も、覚えておいてほしかったものだ。


 自分は理解している、幾度とこれを女に伝えることになったのだろうか。のぼせたら嫌、滑り転げたら嫌、何かと理由付けしてくる態度には、苦戦を強いられたものだ。


「いっ、あ。あぁ」


 鏡と真下の絆創膏で、傷が癒えていることに気付く。顔面衝突してから数刻しか経っていないというのにこの治癒力、尋常ではない。



 ――これも体の記憶の一片だ

 


「…風呂あがったぞ」


「きゃああ!ふ、服着て。出してたでしょ」


「あっ、あーすまん。……ってお前さっき風呂入ってこようとしてたじゃねぇか。それに俺が寝てっときは服も着させてなかったんだろ」


「それとこれは違うの!…心の準備できてないの!」


「はぁ?」


「ユーターン!服着てからでてきて!」


 屁理屈もいいところな理屈に、渋々頷く。ご指導いただいた『オトメゴコロ』という言葉は、男には理解できない代物らしい。なのでこうして首を縦に振るしかないのだ。


「これでいいか」


「うん、かっこいいかっこいい」


「そうかよ」


 おそらく長年しまわれてた古着は、大して似合ってもいないはずだ。嘘を吐いているのか、と勘繰ってしまう。

 ただ、根拠がある訳でもないが、嘘ではない。女は何か隠し事ができても、嘘を誤魔化す才はないはず。


 短時間ではあるが、女を観察して得られた成果がこれだ。


「結構できるもんなんだな」


「ふふん。凄いでしょ。惚れ直した?」


「…っ、最初っから惚れてなんかねぇよ」


 綺麗に磨かれた机には、色とりどりの食べ物がバランスよく配置されている。

 豪勢というほどでもないが、それなりに風格を持っている料理達につい、気圧されてしまう。正直、この方面の腕はそこそこだろうと見誤っていた。


「そう、記憶をなくす前まではゾッコンだったけどねー」


「はぁ?んなわけねぇだろ!」


「今はそうなんでしょ。だから私頑張るって決めたの。いつかの結婚夢見て!」


「そうかよ」


 すでに婚儀を交わしているような行為を平然とやってのけているのに、これ以上結婚に何を期待しているのか。


「いただきます」


「はむっ……うまいな」


「いただきます、ぐらい言ったら?まぁ、うまいって言ってくれたし、別にいいけど」


 母親のようなことをつぶやく女をみて、結婚はないな、と確信した。

 世話されるのが鬱陶しくて堪らない、そんな自分には釣り合わない。


 女が水一杯のコップを手に取り、乾ききった喉を潤沢にしていく――、


「ぷっはー、うまい!あれ、全然食べてないじゃん。合わなかった?」


「―――」


「ふぁああ、なんかねむぅう…………あ、れぇ」


「―――」


「ま、まさか。に、にげちゃだ――」


「――すまん」


 女は、幸せそうに瞳を閉じた――

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