第3話 代走の勝負
香梨は中学一年生になった。
高校に入学したら女子硬式野球部で背番号六になる。そして甲子園で優勝する。そのためにリトルシニアで練習しているのだ。
いつか、その日のために。
秋の新人大会二回戦。
何故私が一軍になったのかと、香梨は疑問でいっぱいだった。
同点の最終回裏ワンアウト二塁。
五番がツーベース、六番が三振。
曇天のベンチで草薙が代走だと監督が言う。
なんでこの重要な場面で私? と、正直思った。
ベンチの皆は純粋に応援してくれるが、本当に全員納得しているのだろうかと香梨は眉をひそめる。
「頑張れよ!」
「……うん!」
明るく返事をしてみても、皆に応援されても落ち着かない。
打順は七番の百瀬千春に回る。女子達の憧れであるスタメンのファーストだ。彼女はネクストバッターボックスから静かに立ち上がる。
盗塁してからの犠牲フライ狙いだろうけど、他の代走じゃ駄目なのかなと思う。
「草薙」
「はい」
五十代後半の、目尻に深い皺のある監督は表情が読めない。まさか今更オーダーを覆すのだろうか。
監督がすっと相手ピッチャーを指差す。
投げる前、足元をとんとん鳴らすようにつま先で足踏み。表情は一生懸命だ。
グラブはきつく閉じず、やや膨らみがある。香梨の視線はそこにロックされる。
「分かるな?」
「……次に何を投げるかという事ですか?」
「そうだ」
今のピッチャーは三人目で、最終回開始時点で変わった。
百瀬千春が打席に入る。柔らかい体を持つ背の高い左打者。
「百瀬は粘れるはずだ」
「分かりました」
ベンチから白線を一本越えるだけで違う空気の場所に来た。
曇天の下、ピッチャー越しに、ランナーと戦うキャッチャーと対峙する。
後ろには相手の野手。
香梨を全力でアウトにするための存在。
不思議な気分になる。スタメンの人達はこの感覚に慣れきっているなんて。
一年生の二塁ランナーの男子とバシッと手を叩くと、彼はにこりとした。
「ピッチャーびびらせろよ、まずはさ!」
「うん!」
返事は元気よく。本当は不安だけど、交代する人に不安を見せるのはよくないと、香梨は緊張を隠した。
こうして、今大会初の香梨の出番だ。
リトルシニア入団後初の公式戦でもある。
代走という事で警戒するピッチャー。香梨はさらに警戒させるためにリードを大きく取る。
案外私でも警戒されるのだと驚いた。ランナーがリードすれば警戒して当然なのだが。
よほど試合の感覚が久しぶりなのだと香梨は気付く。
相手チームの野手に囲まれ、キャッチャーに視線を送られて、怖いと感じるのに体は不思議と動く。
わざと大きくリードを取って牽制球に負けずに塁に戻る。
至近距離で響くセカンドのグラブの音。
観客が多いわけではない。両チームの保護者くらいだ。
それでもグラウンドに注がれる集中は香梨とピッチャーだけに注がれた。
他の代走でもいいのに何故私なのかなという、思い込みが剥がれる。
「いいぞいいぞ!」
「ピッチャーびびってる!」
「香梨ちゃん頑張って!」
ベンチの男子達から、そして女子からも声援が飛んできた。
皆に応援されて落ち着かないという心が変わっていく。体が軽くなる。
さらにリードを大きくして、非常に際どく戻ってセーフにしてみせた。
ピッチャーの悔しがる顔と香梨の嬉しそうな顔。両ベンチが沸いた。
もっと、もっとだと香梨は欲を出し、にこりとして塁から離れた。
かなり大きくリードを取り揺さぶったが、仕留めるようないい牽制が飛んでくる。
セカンドのタッチを免れようとヘッドスライディング。
湿った土がユニフォームにべったりとつく。審判はセーフと告げたが、束の間迷った様子があった。
試合の高揚とまた違う、ひやひやした心で心音が高鳴る。
危ない……!
香梨は正直駄目かと思った。
ピッチャーにびびらされてしまうなんて。
本当は逆がいいのに!
打席の千春が、気をつけてという顔をしてくる。
確かに危なかったですと、心の中で返した。
三回目に刺されそうになったのはさすがに計算外だが、これも作戦だ。
もう無茶はしないと示すようにリードを小さく。だけどあからさまにリードしないとなると作戦があると疑われるので気をつける。
もう牽制は飛んでこない。
盗塁を諦めたと少しでも思わせたかった。代走に代わったままじっとしていると警戒され続けるだろうから。
二塁への牽制でピッチャーの緊張もほぐれたのだろう。のびのびしたいい球だ。
本当にのびのびしていて、ピッチャーのありのままの姿が見える。
緊張状態では隠れてしまう癖がある。
香梨はピッチャーの背を、モーション中に見える腕の振りを、盗塁に消極的になったフリをして見ていた。
千春は一球目のストレートを一塁側にファールにして、二球目のストレートはバックネットにファールにした。
今までベンチから見ていたものも含め、香梨はピッチャーの癖が分かってきた。
緊張が強くなると同時に、感覚が冴えてくる。
ツーストライクに千春を追い詰めたピッチャーがカーブを投げると分かったのは、一球外すだろうという推測のためではない。
分かったのはモーションに入った直後だ。
香梨が走り出すタイミングの方がピッチャーの手からボールが離れるより早かった。
三塁へのスライディングに余裕があり、私の勝ちだという確信がある。
セーフだ。
盗塁成功。
バッテリーの焦る顔に、香梨は喜びを感じた。やってやったという気持ちがあり、にこにこする。
カーブを投げる時は、ストレートを投げる時とグラブの角度が若干違っていた。
ベンチにいた時から観察していたが、千春に投げる姿を見て確信したのだ。ベンチに帰ったら皆に話そう。
ベンチで監督が頷く。
そしてこれから本当の攻撃をする。
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