第1話 目覚める

 兄はキャッチャーとしてリトルシニアでプレーしており、姉はリトルでピッチャーだ。


 姉は小学四年生まではレギュラーで、公式戦にもよく出ていた。

 だが五年生になってから徐々に試合に出されなくなっていく。それでも続けていた。


 兄もリトルシニアで一年生までは期待されていたが、二年の春に怪我をした。兄自身は諦めていなかった。



 だが両親は上の子二人の様子に俯きがちだった。

 末っ子の香梨は全く気にされなかった。


 試合の日、香梨のユニフォームはいつも真っ白い。

 香梨は兄と姉とは違いポジションが無くレギュラーになった事もない。

 両親も香梨の事はあまり心配せず、楽しくやるのが一番だという態度を貫いている。


 香梨は何も気にしていなかった。

 

 リトルの女子達との練習の合間のおしゃべりを楽しみにして、辛い練習を乗り越える。そしてグラウンドを丁寧に慣らす。


 たったこれだけで香梨は充実していた。


 兄姉と違い、他に勝ちたいという欲は無く、体を動かし白球を綺麗にグラブに納めて投げ返す事そのものが日常の楽しみだった。


 ノックで徐々に広がる守備範囲が楽しくて、他の子に比べてどうかなど気にしなかった。


 土の匂いと空の青、降り注ぐ日の光。

 教室とも家ともまた違う世界にいてとても楽しい。


 ある晴れた日。

 下級生同士の紅白戦。既に試合を終えた上級生達は弁当を配られ始めている。


 普段試合に出ない香梨に決まったポジションは無い。


「今回はセカンドな」

「はい」


 普段はライトが多い香梨だが、偶然セカンドを任せられた。


 セカンドの定位置に着いた香梨は怖くなった。

 フライなら捕れるがライナーは怖い。

 捕り損ねて体に当たるのをつい恐れてしまう。

 その間に何本も一二塁間を白球が抜けていく。


 私がなんとかしなきゃいけないボールなのに、と焦りばかりが強くなる。


 センター前に抜けるライナーをショートとお見合いした。


 今のは私はどうすればよかったんだっけ……とまたしても香梨は焦る。


 試合は嫌。怖い。誤魔化せない。ずっと練習ならいいのに。


 逃げたい気持ちが知らず知らずのうちに、香梨の守備位置を下げていった。


 守備位置が後ろだと打球の勢いがやや弱まったところで捕球できる。なんとかグラブに納める。


 だが肝心の送球が逸れてしまい、ファーストが捕れなかった。そのせいでホームインされた。


 かえって私が取れずにライトが捕った方がよかったと、香梨は萎縮した。


 香梨の心はグダグダで、もう最終回だ。怯える香梨は一塁寄りの後ろで構えた。


 ここならライナーも少しは怖くない。

 すぐライトが捕ってくれる。

 ショートとお見合いする事もない。

 うっかり私が捕ってもファーストにすぐ投げられる。


 そのような理由で香梨は何度も深呼吸して、苦しい胸の内を押さえつけた。


 金属バットが甲高く鳴り、一際強く飛ぶ。一塁側だがファーストは捕れず。


 後方にいたライトが必死に前に走る。


 一二塁間やや後方という、絶妙な位置にボールが落ちる、はずだった。



 香梨の小さなグラブに白球が納まった。

 それはあまりに自然で、香梨は驚き、落球する事もない自分を信じられなかった。


 いつの間にか、香梨自身も知らないうちに落球せずしっかりと捕る力がついていたのだ。


 試合が終わり、女子から褒められ、男子からも褒められた。


「頑張ったな」


 普段は何も言わない監督に褒められて、香梨は自分のした事の大きさを知った。


「どうしてあそこにいたんだ?」


 優しく問う監督に、香梨は何も答えられなかった。監督はそれを許して笑った。


「いつか、はっきり言えるようになるといいな」


 香梨は頬を染め俯き続けたが、それは羞恥だけではない。


 そこにいた理由自体は、怖かったからという恥ずかしいものだ。


 だがまるで白球の方から香梨に来たようだった。


 体も心も熱い。強い喜びが香梨を目覚めさせた。

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