茶柱論議
「このお茶屋さんは茶葉が選べるんです」
あれが抹茶で、それが玉露、これが煎茶ですね、と説明すると、シャロさんはさっき水車の図面を
「好きなお茶を、自分の好みで淹れられるんですよ」
「これはただの熱湯だろ?」
シャロさんが僅かに身体を反らせて、卓上の湯呑を指さした。
「はい。これはただの熱湯です」
隣に腰掛けた僕から、わざわざ腰を浮かせて距離を取り直すシャロさんに傷心したが、どうやら熱いもの全般が苦手らしい。
湯呑みに湯を注ぎ始めた段で、おでこに何か掠めた気がして顔を上げると、さっきの幻の眼球が空気抵抗を受けて遠ざかっていくところだった。
「うわ」
危うく湯呑みから湯を溢れさせるところだった。
「あの、これは」
シャロさんは、この暑さの中熱湯を注ぐ僕を気が違ったみたいな目で見ていたが、眼球には特別な感情を抱くことはないようだった。
「視覚機能を補ってる」
「視覚機能を」
「うん」
「シャロさんの?」
「他に誰がいるんだよー」
確かに。いや、確かにではないが、取り敢えずシャロさんの術ということらしい。
そんなこともできるんだ。棚の上とか見れて、便利でいいなー、と思っているとまた目玉がふたつふわふわ浮いて来て、並々注がれた湯呑みをじっくりと見下ろしていた。
実体の方はといえば、僕からさえ距離を取ったまま、これ以上近付いたら席を立つぞ、といった強い意思が見られる表情で眉を顰めている。
「緑茶は大体八十度くらいのお湯で淹れるんです。沸騰したばかりのお湯では美味しく頂けないので、こうやって湯呑を温めつつ、お湯の温度を適温まで下げます。淹れたい人数分のお湯が計れて、茶葉の量もぴったり入れられるので、覚えておくと便利ですよ。この大きさの湯呑なら、茶葉は匙2杯。ふたり分なので4杯入れましょう」
「もう八十度より低いんじゃないのか?」
「そうですね。新茶などはこれくらいで十分です。今回は選んだ茶葉が玉露なので、五十度から六十度くらいまで、もう少し待ちましょう」
「一杯飲むのに所要時間が掛かりすぎだ」
「そうですか?」
「ペットボトル飲料を買う方が効率的だろ」
ペットボトルというのが何のことか分からなかったが、シャロさんの国にはそういう便利なものがあるのかもしれない。
「でも、僕この時間が好きなんです」
「非効率的な時間を好むなんて、CPUの性能が悪いじゃないか?」
「CPUってなんですか?」
「Central Processing Unit」
「せんとらるぷろせっしんぐゆにっと」
「そう」
せんとらるぷろせっしんぐゆにっと。せんとらる、せんとらるぷ、せんとらるぷろゆにっと。
何の話をしていたのか分からなくなってしまった。
そうだ、僕のせんとら・るぷろっとが良くないという話だったが、そんな臓器があるとは聞いた事が無い。もしかしたら呼び方が違うだけで、脳とか思考回路とか、そういうのを指しているのかもしれない。
どちらにせよ良い意味じゃないけど。
「お湯が冷めるのを待っている間は、こうやってお喋りを楽しむ時間なんだなって、思ってます。それに、全然長い時間じゃないんですよ。この茶葉が、どんなに手間暇かけて作られたかを考えたら、ほんの少しの時間です」
「相対的な話じゃなくて、絶対的な数値の話をしているんだよ」
「じゃあこういうのはどうでしょう。そもそも緑茶はチャノキというツバキ科の植物の葉や茎を収穫・乾燥させたもので、その育成法から玉露、かぶせ茶、煎茶と分類されます。煎茶は露地栽培、玉露とかぶせ茶は被覆栽培を用いたお茶を指します。被覆栽培は、わざと日光を遮断することで、僅かな陽の光を得ようと葉を広げる植物の性質を利用し、負荷をかけることで旨味成分が増す効果が期待できるそうです。玉露は約一ヶ月、かぶせ茶は約二週間、日光を遮ります。人と同じで、苦労しただけ強みになる。面白いと思いませんか?」
「思わない」
うんうんと聞いていたのに、シャロさんには響いてはいなかったようだ。
「そっか。でも、ほら、話しているうちにお湯が冷めてきましたよ」
「会話の有無は時間の経過と無関係だろ?」
「そうですね。でも、人はいつだって相対的な時間を生きているでしょ?」
急須にお湯を戻し、茶葉が開くのを待つ。
「茶葉は早く摘みすぎると旨味や香りが少なく、遅すぎると茶葉が固くなるので、良い時期を見極めて収穫しなければなりません。人や動物もそうですが、新しい命は目を見張る速さで成長しますからね。新芽が出始める四月から五月は、みなさん、日の出から日の入りまでずっと茶畑に缶詰で新芽を摘み続けるのだそうです。こうやって座ってお話しながら、美味しいお茶が飲めるのは有難いことですよ」
「非効率的な生産性に対して感謝を求めるのは、旧型のやることだろ」
「旧型というのが何かは分かりかねますが、リェシアに住む人間からすれば、有難い事なんです。チャノキの栽培には、養分を蓄える保水性と保肥力、雨水が必要ですから、リェシアは適しません。大量生産を試みてはいますが、未だ輸入に頼るところが大きいんです」
「まだ飲まないのかー?」
「そろそろ良い頃だと思います」
急須を三回ほど回してから、シャロさんと僕の湯呑に交互に注いでいく。
「あ! 見てください、シャロさん」
「ん?」
「ほら」
「ゴミが入ってしまったね」
「ゴミじゃなくて、茶柱です」
「茶柱?」
「はい。縁起ものです」
「ゴミだろー?」
「飲めはしませんが、ごみと言うには」
「飲めなかったらゴミじゃないかー。なんでゴミが入ってるのに喜ぶんだよー」
「滅多に見れないんですよ。特に新茶では、そもそも茶葉の中に茎が入っている事自体が珍しいですから。人気のない番茶を売る為に、商人が縁起物だと流布し始めたとも言われています。茶葉の中に茎が入っていること、それが急須の網を抜けて湯呑に入ること、さらに、茎の片方だけが水分を吸って重くなっていること、この全ての条件が揃っていないと、茶柱は立ちません。なんて偶然! 凄い! と思いませんか?」
「発生確率の低い事象を
「ほら、虹が出てて嬉しいとか」
「全然」
「一鷹二富士三茄子」
「君は一体何を言っているんだい?」
「そっか~」
シャロさんは実力主義の国の子なのかもしれない。ファン・ルガーの人たちも茶柱とか吐き捨てそうだもんな。
もしそういう国で育って尚、これだけ穏やかで微笑ましい子に育ったなら、もうそれだけで十分というものだ。
「どうぞ。シャロさんに幸運が訪れますように」
「要らないって言ってるだろ~」
「僕は茶柱が幸せを運ぶって信じているので、シャロさんに受け取って欲しいんです」
「なんで?」
「シャロさんは僕のお友達だからですよ」
「俺たちは友達じゃないだろー」
「そうですね。でも、どうかお茶はもらってください」
「要らないって言ってるだろー。何度も言わせるなよー」
あ、これ本気のやつか。
そう気付いて、仕方なく茶柱の立っていない方の湯呑を差し出す。
「どうぞ」
「要らない」
「これは茶柱立ってませんよ?」
「俺は水分を摂取しないんだよ」
「え、全く? 何か、そういう修行をされているんですか?」
「修行? 君って変なこと言うんだなー」
首を傾げてクツクツ笑うシャロさんは「早く飲んで戻ろうよー」と言ったが、決して自分は湯呑に手を伸ばしたりせず、僕が湯呑を煽った途端に立ち上がった。
どうやら本当に一滴も飲む気がないらしい。
もしかして、かなり強引に茶屋へ引っ張って来てしまっていたのでは? と思うと肝が冷えた。シャロさんは優しいから僕の我儘に付き合ってくれただけで、とてもお節介で迷惑なことを……?
慌ててふたり分のお茶を胃に収めると、僕の胃は温もりで爆発しそうだった。
地下施設への帰路を急ぐシャロさんは軽い足取りで僕の前を行き、しっかりと差した日傘の下から覗く三つ編みは、歩く度、ご機嫌な様子で左右へ揺れた。
「シャロさんて、どちらからいらしたんですか?」
「日本」
「にっぽんですか? 聞いたことがないなあ」
僕がそう答えると、シャロさんは明らかに訝しんで顎を引いた。
「北の方ですか?」
「うん」
「北ですか。北西にはキャティシティがありますが、通りました?」
「知らない」
「そっか〜」
今度、桜さんにニッポンへ行ったことがあるか聞いてみよう。
茶屋へ向かうときよりもずっと乗り気な足取りのシャロさんの隣で、遥か北の国、ニッポンに思いを馳せた。
この後、シヴィーさんやメイさんに引き合わせることを考えると、どうか穏やかな国と評判であってほしいものだ。
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