壊れた水車
「君の温感センサーは修理に出した方が良い」
全く冷涼じゃない。彼は不満げにそう呟くと、唇をキュッと結んで僕を睨んだ。
彼の言う「温感センサー」が人間のどの部位を指すのかは分からなかったが、「お前が涼しいというから来てやったのに、この嘘吐き野郎」と言いたいのは確かだった。
「水車が壊れてしまったみたいです。いつもは、あれが地下水を汲み上げて、その水温の冷たさと風のおかげでもっと涼しいんですけど……」
「どうして提案する前に事実確認を行わなかったんだよー」
「ごめんなさい」
地下施設の頑丈な扉を開けた瞬間は涼しかった。日差しが遮られ、外気温より幾分かは暑さが和らいだ。しかし、中に入るとすぐにいつもの涼しさが失われていることに気がついた。
幾つかの地下施設がある中で、ここはリェシア最大級の避暑施設。家屋が何十軒入るか分からない。元々地下空洞だったのか、天然水が湧くと分かって作られた人工的な空洞なのかは知らないが、リェシアにおける、まさにオアシスである。まさか機能していないとは。
天窓から取り込む太陽光が、日の出
しかし、肝心な水路が流れていない。ただ水が残っているばかりである。
余命わずかなその冷涼さに足を入れ遊ぶ子供たちをよそに、その親と思しき男たちがこの壮大な冷却施設の主力となる水車を取り囲んでいた。
「直りそうですか」
尋ねてみると、額に伝う汗を拭った男が両手を腰に当てて首を横に降った。
「ダメだなぁ。どっかの部品が馬鹿になってるんだろうが、皆目見当がつかない」
「職人さんは?」
「旅行中なんだと。見習いに図面を見させたんだがてんで駄目だ」
「図面ですか」
男たちのひとりが、普段は憩いの場になっている石製の机と椅子が集まっている場所を指さした。
丁度そちらでは別の男がふたり、何かを覗き込んでは水車の方を指さしている。足を運んでみると、ふたりの内ひとりは顔見知りだった。
「あの女の子、ずっとヤシロ君を睨んでるけど大丈夫かい」
一緒に図面を見下ろしていると、顔見知りの方の男がそう言った。振り返ってみると、確かにシャロさんが僕をじっとりとした目で見つめている。
「ほんとだ。睨んでますね」
「なんだ、存外平気そうじゃないか」
「美人に睨まれるのは慣れているので」
「奥さんが美人なんだって」
「はい」
「謙遜もなしかい。羨ましいこった」
ハハハ、と乾いた笑いを上げていると、男たちはふたりとも現場に方へ呼ばれて行ってしまった。ひとりになってしまい、まだ僕を睨んでいるシャロさんへ手招きをした。
「シャロさんて図面読めます?」
「うん。読めない奴がいるのかい? 誰だって見れば分かるだろ?」
「いやあ、僕苦手で。教えてくれませんか?」
「どうしてここに書いてあることを俺が口頭で説明しなきゃいけないんだよ。二度手間だろー」
確かに。
シャロさんは眉を顰めて、とても迷惑そうな顔をした。
でも分からないものは分からないのだから仕方がない。
「これ、あの壊れてる水車の図面みたいなんです。あれが修復できれば、もっとひんやりするんですよ」
本当に。そう言うのは、まるで、嘘を吐くことになったのは僕のせいじゃないと言い訳しているみたいで、ちょっと居心地が悪かった。
けれど、シャロさんは僕の気まずさには気付かなかったようで、胸の前で腕を組むと、図面を覗き込んだ。
サラサラとした髪に視線が囚われてしまう。雪のように白い髪が、俯いた目元と頬を隠して、まるで深窓の令嬢を不意に目の当たりにしたような、見てはいけない神聖なものを手元に置いているような気持ちになる。
見慣れない髪飾りが、湧き上がる水をその勢いと生命力まで閉じ込めたような鮮麗な色を放っている。彼が首を傾げるたび、背中に垂らした三つ編みが揺れた。周囲に晒している太腿を毛先が掠める。
顔を上げたシャロさんと目が合い、女性(の見た目の方)をじろじろ見るなんて失礼だったと、思わず視線を逸らした。
「なんだよー」
「いえ、なんでも。すみません」
首を傾げ、水車を振り向いたシャロさんは、腕を組んだまま水車に向かって行く。
僕の影に入る為にずっと背後にいたから気が付かなかったが、その見目麗しい出で立ちとは裏腹に、歩き方は着物を気にしない粗雑さがあった。まるで男のように豪快な裾捌きである。
見た目は可愛らしい箱入り娘なんだけどなーと、首を傾げるのは僕の番だった。
ちょっと粗野な言動、思慮に欠ける幼さは教育が放棄された結果ではないかと思う。
襟を着崩しているのも、丈の短すぎる着物も、横の髪を括りきれていない三つ編みも、常駐の傍仕えがいないのを示唆していたし、そもそもまともな教育を受けていれば他人の家に上がり込んで居座ったりはしないものだ。
それでも、彼の着ている着物は富裕層の極一部の人間でも入手の難しい代物に見えたし、何より彼の手足の細さ、肌の綺麗さが肉体労働とは縁遠いことを示していた。家柄が良くて、あんまり可愛いものだから、親が笑顔だけ教え込んで、もうそれでいいやと思った可能性もある。
教養はあった方が良い。でも、女性は愛嬌だけで良いという親もいる。
或いは、もっと深刻な状況下に置かれている場合も考えられる。世の中は急激な動き方をするときがあるし、最たる害を被るのはいつだって女子供だ。
シャロさんが女なのか男なのか、子供なのか大人なのかも、まだわからないけど。
シャロさんは水車を見上げて、それから暫く動かなかった。腕を組んで仁王立ちしている後ろ姿は凛々しささえ感じられる。
シヴィーさんになんて言おうかな、牢屋に入れられちゃったりするのかな、と小さく肩を落とす。
彼がどうしてリェシアに来たのか、それくらいは聞いておいた方が良いのかもしれない。強面の面々に囲まれたら、何でもないことも答えられなくなりそうだ。
でも、彼、いま不機嫌そうだし。どうしよう。
顎に手を当て、うんうん唸っていると、シャロさんが「おーい」と呼んだ。
地下で薄暗く、自然と人が声を顰める中で、必要以上に大きな声で呼ばれると、シャロさんに視線が集まった。
慌ててシャロさんの方へ寄り、隣へ並んだ。
「中の部品が破損してる」
「そうなんですか?」
「うん。中で、割れた部品が歯車の回転を妨げてるのが原因だね」
シャロさんはそう言うと僕を置いて図面を取りに行き、戻って来て図面を広げた。
「ここ」
「ここですか?」
シャロさんが指さしたのは、水車の複雑に入り組んだ内部だった。
思わず聞き返したのは、その部分はシャロさんの立っていた位置からはどう頑張っても見える箇所ではなかったからだった。適当なことを言っているのかと思ったが、シャロさんは「それで決まり」という顔をしていた。
彼には悪いと思いながら、半信半疑で職人見習いさんに見てもらうと、「えー、どこだい見えないよ」という見習いさんへ、シャロさんは「その奥だよー」と覗き込みもせずに伝えていた。
「えー、どこ」「君は視覚機能に問題があるね」「はぁ?」などとやり取りしながら、遂に「あれか!」「だから最初からそう言ってるだろー」と彼らは同じ解に到達したらしかった。
修理に取り掛かり始めると、身体を水車の内部へめり込ませている職人見習いの陰から何か飛び出した。
それを気に留める様子もなく、シャロさんはくるりと踵を返すと僕の方へ戻ってきたのだが、その頭上に目玉がふわふわと浮いていたので、度肝を抜かれてしまった。
シャロさんの顔面に眼球がふたつ付いていることを左右それぞれ二度ずつ確認してから再度視線を上げると、空飛ぶ眼球はなくなっていた。
暑さで幻を見たのかもしれない。
修理に一刻程かかると聞き、僕はシャロさんをお茶に誘ってみることにした。
「お茶飲みに行きません?」
「なんでわざわざ暑いところに戻るんだよー」
「水車を直す手掛かりをくれたお礼に、お茶をご馳走します」
「えー、要らない。どうしてお茶がお礼になるんだよ?」
「美味しいお茶です。元気が出ますよ。ね、僕、お茶淹れるの得意なんです」
「要らないって言ってるだろー」
「僕、喉乾いちゃったんで。一緒に来て欲しいなーって。お店まで、僕の国をシャロさんに案内したいなーって」
「えー、やだよ。しつこいなー」
行きましょうよー、行きたいなー、シャロさんが一緒に来てくれたら嬉しいなー、とあぁでもないこうでもないとごねると、どれかがシャロさんの固い決意を揺るがしたらしく、遂に「仕方ないなー」と言ってくれた。
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